側室(仮)の喧嘩。
「陛下っ?」
何故、此処に!
驚愕に固まる私に駆け寄った陛下は、そのまま私を抱き締めた。
「無事か…サラサ。」
何時もと違って加減無く私を抱き締める腕は、痛いくらい。腕の中に私を隠そうとする様に抱え込んだ陛下は、私の無事を確認しているのか、背や首の辺りを擦る。
何処にも怪我が無いと分かると、漸く長い安堵の息を吐き出し、腕の力を僅かに緩めた。
無事かって…私が不審者を発見した訳では無いのですが。
戸惑う私の頬を撫で、瞳を合わせた陛下は、少し疲れた様な顔をしていた。
「後宮に賊が侵入したと聞いて、すぐにでも駆け付けたかったのだが、急務の仕事が入っていてな…遅くなって、すまない。」
「そんな事っ…!」
雄々しい美貌を苦く歪める陛下に、私はかぶりを振った。
「私は無事ですし、何事もありません。…それよりも陛下…何故いらっしゃったのですか…!」
「…何故とは、」
食って掛かる私に、今度は陛下が戸惑った。形の良い眉が、困惑した様にひそめられる。
「いつ何時、また賊が入るか分かりません。本日は王宮のご自分のお部屋でお休み下さい。」
「……何を言っている。」
グイ、と陛下の体を押し、腕の中から逃れる様に身を退いて陛下を真っ直ぐに見る。
陛下は、呆然としていた。
「貴方に何かあったら、どうするのです…!」
一国を背負う、替えのきかない唯一人のひと。
それは出会った当初も思っていたけれど、今は少し違う。
今、陛下が倒れたら、この国は混乱し争いが起こる。その意味でもこの方は、大切な方なのだけれど。
私個人にとっても、替えのきかないただ一人なのです。
相馬沙羅を知る人間が、誰一人いない世界で、こうして立っていられるのは、貴方が居てくれるから。
貴方を好きで、大切にしたいという想いが、私を支えているからなのです。
「オレよりも、お前の方が余程心配だろう。…こんな細い腕で、襲われたら一溜まりも無い。」
それなのに貴方は、分かってくれない。
私の腕を掴み、険しい顔でそんな事を言う。
「陛下自ら護っていただかなくとも、武官の方々が見回って下さっております。」
「サラサ…ッ!」
苛立った様に、陛下の声が低くなる。
逆らってばかりで、本当、私可愛く無い。嫌われてしまうかも。
分かってる。…でも、可愛くなくていいの。貴方がいなくなる可能性が1パーセントでもある事の方が、ずっと怖い。
「15人もいる側室の一人一人の危機に、その度、大切な御身を投げ出す気ですか…!」
「…っ!」
陛下が、息を飲む音がした。
見る見る冷たい表情になっていく陛下を見つめながら、私は掌を握り締める。
「…皇帝である私は、一人の女を守る事も許されないか?」
「…………、」
初めて、私の前で陛下が、自分の事を『私』と呼んだ。
それが明確に線を引かれた様で、私は泣き出しそうになる。
そんな事が許される筈も無いから、堪えるけれど。
沈黙が、落ちる。
私も陛下も、見つめ合ったまま一言もしゃべらなかった。
――本当は、伝えなければいけない言葉が、ある筈なのに。
「……陛下。」
やがて、私ではない声が彼を呼ぶ。
見兼ねた様に割り込んで来たのは、陛下の護衛としてよくおみえになる方だった。
銀色の髪と瞳の、触れれば切れそうな美貌の持ち主は、近衛軍の大将であり、皇帝陛下の乳母兄弟でもある方、…お名前は、確かセツナ・イノリ様。
「…至急の報告が入ったとの事。一度お戻り頂けますか。」
「……………分かった。」
それは多分、私達の為に言ってくれた事でしょう。嘘では無くとも誇張。
こんな夜更けに、皇帝陛下を起こしてまで伝えなければならない報告なんて、早々無いでしょうから。
無言で出て行ってしまう背中を見送りながら、イノリ大将様に駆け寄って頭を下げる。
「…ありがとうございました。どうか、皇帝陛下をお守り下さい。」
私などに言われなくても、この方達は命懸けで護ってくれるでしょうが、それでも言わずにはおれなかった。
「……あの方は、私などよりずっとお強いですよ。」
じっと見つめてくる銀の瞳に、私は早口で答える。
「それでも、です。」
足止めしておいて申し訳ないけれど、どうか早くあの方の元へ。
目で訴え、今にも背中を押しかねない私に、イノリ様は苦笑して身を翻し、
「確かに、承りました。」
去り際、そう私に応えて下さった。
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