皇帝陛下の葛藤。
――息が、止まるかと思った。
今日も遅くにサラサの元を訪れると、彼女の様子がおかしい。
いつも満面の笑みでオレを出迎えてくれるサラサは、少し強張った顔で戸惑う様にオレを見る。
オレが傍へと行っても、彼女は笑顔を見せてくれないし、薄紅色の唇からは、『おかえりなさい』の言葉がこぼれ落ちる事はなかった。
隣に腰をおろして、サラサの柔らかな頬を撫でると、ビクッと跳ね、益々表情が固くなった。
「………………。」
それが駄目押し。
今日のサラサは、オレを拒んでいる。
そう理解した瞬間、指先から凍り付く様な恐怖を感じた。
「……サラ、サ…」
無様に擦れた声は、自分のものでは無いようだった。
こんなにも動揺する自分を、みっともないと思う余裕すら無い。
何故だ。何故オレは、彼女に拒絶された。
昨夜訪れた時は、何時も通りだったのに。
ニコニコと笑いながら、友達が出来たと教えてくれていたのに。
……友達?
…まさか、誰かが何かを吹き込んだのか?
サラサは初めて会った時は、緊張して少し怯えていたが、それはオレにというより未知の行為に対してだった様に思う。現に、何もしないと分かると、それは愛らしい笑顔を見せてくれたから。
もしかしたらこの娘は、オレの事を何も知らないのかもしれない。父母に甘やかされ、血なまぐさい話は遠ざけられてきたのだろう。
だから、こんな笑みを見せてくれるんだ。
そう結論付け、ならばこれからも何も知らせない様にしようと思った。幸い後宮の女どもは、美容と流行りの衣裳の事しか頭に無い。
数人その枠から外れる者がいるが、それらは下世話な噂話に興ずる類いでは無かった筈。また、望まれもしないのに知識をひけらかす様な者もいない。
オレが片鱗さえ覗かせなければ、彼女はずっと、この無防備な笑顔を見せてくれるだろう。…そう、油断していた。軽く考えていたのだ。
この結果がこれだ。
「……………、」
怒気を洩らしては、更に彼女を怯えさせるだけだ。
そう頭では理解していても、止められない。
誰だ。
誰がオレの大切な場所を奪おうとしている。
誰がサラサをオレから取り上げようとしているんだ…!!
「…………………。」
険しくなっているであろうオレの顔を、サラサはじっと見ていた。
「……陛下。」
「……っ、」
静かな声が、オレを呼ぶ。
そこに怯えは感じられないが、無表情のままの彼女の心が分からない。
拒絶されるかもしれない。
…もしサラサから明確な拒絶を受けたのなら、オレは一体どうするのだろう。
そう、身構えていたオレに、サラサは、ゆっくりと頭を下げ、
「…おかえりなさいませ。」
そう、告げた。
予想もしていない言葉に、一瞬何を言われたのか理解出来ず唖然となるオレを見て、サラサは何時も通りの愛らしい笑顔を浮かべた。
安堵に体から、力が抜けそうになった。
詰めていた息を吐き出し、深く吸い込む。情けなく顔が歪むのを止められない。
なにが軍神だ。なにが死神だ。
たった一人の少女に嫌われる事を怖れる男が、神になどなれる筈が無い。
「………ただいま。」
失わずに済んだ幸福を確かめる様に、彼女の肩口に頭を凭れると、彼女は穏やかな笑みを向けてくれた。
しかし次の瞬間、オレは再び固まる事となる。花びらの様な唇がこぼした発言によって。
「お疲れでしょう…膝枕、如何ですか?旦那様。」
「………………は?」
顔をあげ凝視するオレを見ながら、彼女は柔らかそうな膝をポンポン、と叩く。
膝枕…も衝撃的だが、彼女の口から今、旦那様と…
「……っ、」
だらしなく緩みそうになる口を隠し、顔を背ける。
ただでさえ情けない顔ばかりみせているのに、これ以上は嫌だ。
チラリと窺うように彼女を見ると、不思議そうな顔で彼女は、『お嫌でしたか?』と小首を傾げる。
…嫌な訳が無い。寧ろ、とても嬉しい。
「…嬉しいよ。………だが、その…照れる。」
「膝枕がですか?」
キョトンと目を瞠る彼女に苦笑を向けながら、オレは申し出に甘える様に彼女の柔らかな膝に頭をのせた。
「膝枕もだが………旦那様、というのが。」
正直に答えると、何を今更、といいたげな瞳が返される。
雄弁な瞳を愛しく思いながら、そっとサラサの頬に手を伸ばせば、今度は拒まれなかった。
スリ、と猫の子の様に擦り寄る様が可愛い。
「…照れる…が、……嬉しいものだな。」
「……そうですか。」
穏やかな微笑を浮かべ、幼子にする様にオレの髪を梳く彼女に、胸が暖かくなる。
サラサ…オレの事など、なにも知るな。
どうか何も知らないまま、ずっとオレに微笑んでいてくれ。
オレは、祈るように、そう思った。
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