02
「…………サラサ?」
何時もと違う私に、皇帝は戸惑った様にもう一度名前を呼んだ。
「………………。」
ゆっくりと近付いてきた皇帝は、私の近くに腰をおろす。
間近で覗き込まれ、ゴツゴツとした大きな手が、私の頬をゆるりと撫でた。
「……………っ、」
「…………?」
息を飲む私に、皇帝は益々訝しむ様な顔になった。
でも私は、自分の事に精一杯。陛下を気遣う心の余裕がありません。
何かを感じ取ったのか、彼は、私の頬から手を離した。
「………………。」
沈黙が、落ちる。
何時もの穏やかな静けさでは無く、限りなく気まずいソレを、気に掛ける事も、今の私には出来ません。
ああ、どうしよう。
どう、しましょう。
「………サラ、サ」
陛下の声が、低く擦れる。
胸につかえた何かを無理矢理飲み込んだかの様な、途切れがちの声に陛下を見れば、彼の顔は強張っていた。
初めて見る、怖い顔。
初めて聞く、怖い声。
今まで意識しておりませんでしたが、夜着の間から覗く肌には、沢山の傷があります。
大きいもの、小さいもの。古いものに、新しいもの。
多分、着物を脱いだら、もっと沢山…身体中にあるのでしょう。
この方の、戦いの歴史が。
「…………………。」
書物の中の出来事だった、美人さんのお話が、急に現実味を帯びる。
壁に立て掛けられた、陛下の剣が赤く染められた事は、たぶん一度や二度では無いのだ、と、
漸く私の頭が、理解した。
………嗚呼、それなのに。
「……陛下。」
「…………、」
呼ぶと、身構える様にビクリ、と体が跳ねた皇帝を見つめながら、私は
ゆっくりと、頭を下げた。
「……おかえりなさいませ。」
「…っ!」
息を詰める音がして、顔をあげた私の目に、驚き顔の彼がうつった。
何時もの様にヘラリと笑うと、彼の強張りが、だんだんと解けていく。
「………ただいま。」
陛下の整った顔が、泣き笑う様に歪む。
長い長い息をついて、噛み締める様に呟くこの方が、私は愛しい。
――そう。愛しい。――――愛しいの。
この方を想う気持ちは、1ミリだって減らなかった。
私は、私が思う程、高潔な精神をしていないようです。寧ろ非道です。
見た事の無い幼子の未来を憂うよりも、この方の、痛みを取り除いてあげたいのです。
会った事のない少女の命を悼むよりも、この方の心を癒したいのです。
安堵した様に私の肩口に凭れる陛下を見つめながら、私は笑む。
「……陛下。」
「…ん?」
胸に走る痛みは、今は飲み込んでしまいましょう。
正義感も罪悪感も、今はいりません。
ちっぽけな私の手では、救えるものなんて、ほんの少しなのです。あれもこれもと手を伸ばして、全て溢してしまうよりは、
今は、無防備に笑ってくれるこの方を、護りましょう。
「お疲れでしょう…膝枕、如何ですか?旦那様。」
「………………は?」
ポンポン、と正座したままの膝を叩くと、皇帝は目を丸くする。
呆気にとられた顔は、いつもより幼く見えた。
「…………………。」
戸惑ったように視線を彷徨わせた彼は、口元を手で覆いながら、横を向いてしまった。
「…陛下?」
「……………、」
「…お嫌でしたか?」
「……いや。」
暫く間をあけて、漸く此方を向いてくれた陛下の顔は、少し赤かった。
「…嬉しいよ。………だが、その…照れる。」
「膝枕がですか?」
横になり、私の膝に頭をのせた陛下は、照れながら苦笑を浮かべた。
「膝枕もだが………旦那様、というのが。」
「……………、」
15?人も奥様がいながら、何ですかそれは。
唖然とした私を、下から見つめていた陛下は、口元を緩め、苦笑を穏やかな微笑へと変える。
伸びた武骨な手が、スルリ、と私の頬を撫でた。
「…照れる…が、……嬉しいものだな。」
「……そうですか。」
瞳を細める陛下と同じ様に、私も自然笑顔になったのでした。
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