側室(仮)の葛藤。
「………………………。」
…パラリ、
室内に、本のページを捲る渇いた音だけが一定間隔に響く。
私は灯籠を窓辺に置き、分厚い本を黙って読んでいた。
もう、どれ位そうしていたでしょうか。
気遣わしげな声が、かけられました。
「………サラサ様。」
「…………え?」
呼ばれた声に鈍く反応し、ぼんやりと、顔を上げると愛らしい顔を心配そうに歪めるカンナと目が合った。
「……カンナ、」
「………夜も大分更けてまいりました。今日はもうお休みになってはいかがでしょうか。」
「…もう、そんな時間なんだ。」
本を読み始めた時には、オレンジ色から藍色のグラデーションだった空はもう真っ黒で、雲一つ無い夜空に浮かぶ月は大分高い位置にあった。
何時間こうしていたんでしょう。
拙い語学力ながらも、大分読み進めた本に手作りの栞を挟み、小さく息を吐き出した。
体のあちこちが固まり、動かすとコキコキと音がする。伸びをして体の強張りを緩和させると、カンナに向かって頷いた。
「…分かったわ。…遅くまでつきあわせてしまって御免なさい。」
「いいえ。」
優しい微笑を浮かべ、おやすみなさいませ、と頭を下げたカンナは退室した。
「…………………。」
本を丁寧に引き出しに仕舞い、灯籠を持って寝室へと移動する。ベッドサイドに置かれた台にそれを置くと、行儀悪くも、寝台に転がる様に体を投げ出しました。
「…………………。」
大分見慣れてきた白い天井を見上げ、両手を突き出す。
同じ年頃の少女と比べると、節榑立った醜い手です。白くはあるものの、少女らしい柔らかさの無い手。
…それでも、この世界の市井の少女らに比べれば、苦労の無い手だと思います。
実際、苦労した事などありません。
家事は母がやってくれていたし、アルバイトもした事が無い。
友達と喧嘩はしたけれど、すぐに仲直りするし、不器用に心配してくれた幼なじみもいた。
命の危険なんて、遠い世界の出来事でした。
「………………。」
戦争なんて、未だに実感が無い。実際この世界に迷い込んでからも、私に身の危険が迫った事など無く、こうしてぬくぬくと、何不自由無く守られている身分です。
戦争の怖さが、本当の意味で分かる筈無い。
…それでも、考えてみた。
『陛下』が戦争で他国を滅ぼした、と聞いても実感湧かなくとも、
もし、目の前に『殺人者』がいるのだとしたら、空想だろうと夢だろうと、私は恐ろしいと感じるだろう。
……私は、陛下が怖いのでしょうか。
優しく私の髪を撫でてくれるあの手が、幾多の命を刈ったと知って、触れられる事を嫌悪するのでしょうか。
あまり上等では無い私の脳ミソが、パンクしそうです。
…本当に私はダメ子ですね。
今更そこに…『陛下が好きで、陛下の為に何かしたい』という大前提がブレるとは思いませんでした。
何があっても好きだと言い切れる程、私はあの方の事を知らないのです。
…カタン、
「………っ、」
グルグルと考え込んでいた私の耳に、小さな物音が飛び込んできた。
慌て私は、身を起こす。
…キィ、
次いで、静かに扉を開ける音。
…こんな深夜に、此処を訪れる方は、一人だけ。
暗殺者や泥棒さんが、わざわざ音をたてるとも思えませんし。
こんなぐちゃぐちゃな気持ちのまま、私はあの方に会う事になるようです。
「………………。」
寝台の上で俯いた私の耳に、美人さんの言葉が蘇った。
『背負いきれないのなら、聞かなかった事にするのも選択肢の一つよ。』
「…………………、」
「……サラサ、起きているか?」
扉ごしに、控え目な声をかけてくれる陛下に、私は、顔をあげる。
なんの心の準備も出来ていません。正直、今は会わない方がいいんじゃないかとも思いました。
…でも、頭の出来の良くない私は、会わないままではさっきまでの様に、悶々と悩み続けるでしょう。
きっと答えは出ません。
なにを予想したところで、予想は現実では無いのです。聞かなかった事にしても、同じ。現実は何も変わらない。
――ねぇ、わたし。
考える事が無駄なら、
会ってから、決めましょう。
私は寝台の上で居住まいを正す。
正座し、膝の上に手を添えた私は、『はい。』と返事を返す。
ゆっくりと扉が開いて、薄明かりの中でも雄々しい美貌の主が、姿を現した。
「……サラサ?」
寝台の上にいる私を見て、切れ長な瞳が瞠られる。
切腹する武士みたいな姿の私が、おかしかったんだろう。不思議そうに首を傾げる皇帝を、私はじっと無言で見つめたのだった。
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