側室(仮)の相談。(3)
「嫌いではないって……本気ですか……!?」
「はい。寧ろ、好きです」
困っている事を隠さず苦笑を浮かべると、チヨリ様は物凄く動揺していた。
未知の生物を見るような目で私を凝視し、プルプルと震えている。
「好き!? あれだけの事をされて!? 貴方、頭……」
頭、おかしいんじゃないの、と続けたかったんでしょうねぇ……。
現在の自分の状況、立場を思い出したのか、チヨリ様は途中で言葉を濁した。
不自然な咳払いをして、私から視線を逸らし、取り繕うように強張った笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。喉の調子がおかしいみたい」
いえいえ。正常だと思いますよ。
喉もですが、思考も。
言葉にしてしまえば、余計にチヨリ様を動揺させてしまうだけなので、私は心の内でのみ同意した。
殺されかけた相手を、嫌いになれないどころか好きだなんて、我ながら頭おかしいんじゃないかと思ったりもします。
最初のうちは、鬱々と悩んだりもした。
好意を抱きそうになる自分を叱咤し、否定した。
ルリカ様と私を中心とした騒動で、沢山の人に迷惑と心配をかけて、沢山の人を傷つけた。
そしてその中で、命を落としてしまった人もいる。
それなのに渦中の私が、ルリカ様を好ましく思うなんて、酷く滑稽に思えた。途轍もない、罪悪に感じられた。
何度、悪夢に魘されて、跳び起きた事か。
忘れるな、許さない、と呪いの言葉を吐くモエギさん。そして、幻滅したと呟き、去っていく周りの人達。
日に日に、心の奥底に滓が溜まっていくようだった。
そんな私が、目を覚ます事が出来たのはカンナのお蔭でした。
食事が喉を通らず、引き籠るばかりだった私ですが、その日は少しだけ朝餉を口にした。
少しだけでも食べなきゃと思っても、体は受け付けなくて。たった一口を、かなりの時間をかけて飲み込む。
そうして顔を上げた私は、目を大きく瞠った。
いつも泣き出しそうな顔をしていたカンナが、笑っていたから。
それは、晴れやかな笑顔とは言い難かった。
衰弱して幽鬼のようになっていた私に、負けずとも劣らない酷い顔色だったし、やつれて隈もある。涙を堪える姿は、健気で痛々しい。
それでも、とても嬉しそうな顔で、カンナは笑った。
安堵したように息をそっと吐いて、私を見る。柔らかな栗色の瞳には、恨みも蔑みも嫌悪もない。掛け値なしの愛情だけがあった。
私はその笑顔に、横っ面を張られた気分だった。
私を責めているのは、モエギさんでも周りの人達でもなく、私自身の、弱い心だった。
周りの優しい人達に、見捨てられてしまわないように。
ルリカ様の処分が決まって、もし……もしも哀しい結果になってしまった時に、自分の心が壊れてしまわないように。
彼女の為に何も出来ないと、罪悪感に押し潰されてしまわないようにと。
殻に閉じこもって、色んな事を見ないふりで済ませようとした、私の狡い心だった。
周りの人達が、私に『許せない』とか『幻滅した』だなんて言っていた?
答えは否。皆は、純粋に私の心配をしてくれた。一緒に心を痛めてくれた。
モエギさんが、私を憎いと、許せないと言っていると思う?
……もう、言葉を交わす事も出来ないのに。
自問自答して、私は自分が恥ずかしくなった。
優しい人達を疑い、亡くなった人を辱めるような被害妄想をした自分が、とても。
もう同じ過ちはしたくない。
拒絶される未来に怯えて、自分自身にまで嘘をつくなんて、馬鹿げている。
例え、私の尺度とこの世界の尺度が、全く違うものであっても。私が、とても常識外れな事を言っているのだとしても。
私は、私に嘘をつきたくない。
「……サラサ様は、とてもお優しい方ですのね」
長い沈黙の後、チヨリ様は笑って言った。
けれどその目も声も、ヒヤリと冷たい。
「貴方はきっと、大切に育てられたのでしょう。お心も笑顔もお言葉も、全てがとても綺麗。……私には真似出来ない位に」
偽善者。そう、詰られた気がした。
弱虫な私は、また人の心の声を予想して、勝手に傷付く。
でも、謝る事もしない。撤回はしない。
もう繰り返したり、しない。
「私などと一緒にしては、失礼でした。お話は、なかった事にして下さるかしら」
挑発的に言い放ったチヨリ様は、立ち上がる。
アンバーの瞳が私を一瞥し、すぐに興味を失くしたように逸らされた。
去っていく背中を見送り、扉が閉まって、十数秒。
ゆっくりと息を吐き出して、私は卓に突っ伏した。
「…………」
さっきまでとは違う、穏やかな静寂が落ちる。
カンナは黙って、傍にいてくれた。
「嫌われてしまったわ」
ぽつりと呟くが、返事はない。
これは被害妄想ではなく、事実だと思う。
後宮で孤立してしまっている現状を打開したくて、私の元へ来たのに、撤回して立ち去る位に、私の発言が許せなかったのでしょう。
「私の考えを伝えるにしても、言い方ってものがあったんじゃないかしら。私、失敗してばっかりね。遠回りしたり迷ったりしていて、全然前に進んでいない」
弱音がつい、口から零れ落ちた。
どうにも私は、カンナに甘えるクセがついてしまっている気がします。なんて不甲斐ない。
迷惑ばかりかける、情けない主人でごめんなさい、と、小さく呟いた。
「……私には、どうすれば失敗なのか、正解なのかは分かりませんが」
カンナは、穏やかな声で言う。
「サラサ様が、ちゃんと前に進まれている事は分かりますよ」
「カンナ……」
「サラサ様は、ご自分で思われるよりもずっと、遠くまで見通せるお方。ですからきっと、ご自分の歩みが止まって見えるのです。先に開ける道が見えているのに、辿り着かない事を歯痒く思われるのでしょう」
突っ伏していた卓から、顔をあげる。
拗ねて駄々をこねていた子供のような、気まり悪さがあったけれど、思い切ってカンナの方を見た。
年下とは思えない、慈愛に満ちた目が、私を映す。
幼さの残る顔立ちのカンナが、とても大人びて見えた。
「情けなくなど、ありません。迷惑と思った事もございません。逆に、もしサラサ様が、迷いなく進むお方であったら、私の事を必要とはなさらなかったと思います」
「そんな事ないわ」
即座に否定すると、カンナは淡く目元を染め、はにかむ。
「他者の為に心を痛め、悩む貴方様を、私はお慕いしております」
「!」
今度は私が赤面する番だった。直球な言葉に、どう反応したら良いのか、分からなくて、動揺した。
「回り道も迷い道も、お傍に置いて下さい。サラサ様に必要としていただける事が、私の誇りであり、喜びなのですから」
「カンナ……」
呟く声が、掠れた。
胸に熱いものがこみ上げてくる。
どうしよう……泣きそうです。
まさか、そんな風に思っていてくれたなんて、知らなかった。
私はカンナに甘えてばかりで、何も返せていない。
本物のお嬢様ではないし、この世界の事を全く知らない常識知らずな私は、出会った日からずっと、迷惑をかけ通しだった。
馬鹿な事ばっかりやらかして、いつか愛想を尽かされてしまったらどうしようと、怯えた日もある。
でもカンナが迷惑そうな顔をした事は、一度だってなかった。
柔らかく微笑んで、私の傍にいてくれる。ときに可愛らしい妹のように、優しい姉のように。親しい、友のように。
「……っ、……ありがとう」
こんなにも素晴らしい子が、これからも一緒にいてくれるって、私どれだけ果報者なんでしょうか。
「これからも、よろしくお願いします」
泣きそうになってしまったのを誤魔化すように、へらりと笑って告げれば、カンナは悪戯っぽい笑顔を浮かべて頷いた。
「はい。カンナに何でも相談して下さいませ」
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