側室(仮)の惑い。
ううん、そんな事、ある訳ない。
何かの見間違いに、決まっている。
そうやって自分に言い聞かせても、何の効果もない。
跳ね上がった鼓動は治まるどころか、一層早鐘を打った。
「あっ!?」
逸る心のままに身を乗り出してしまい、バランスを崩した体がぐらりと傾く。
咄嗟に手を手綱に伸ばすが、届かずに空を切る。
衝撃を覚悟して、目をきつく瞑った。
「サラサ!?」
けれど予想した衝撃は、やってこなかった。
焦った声で呼ばれると同時に、逞しい腕に抱き留められたから。
私の体を抱きしめた陛下は、大きく息を吐きだした。
「何をやっているんだ、お前は……。危ないだろう」
「ご、ごめんなさい」
間近にある端正な顔が、苦々しい表情を浮かべる。
窘める言葉を呟きながらも陛下は、私を地面に下してくれた。
お礼の言葉もろくに言えないままに、身を翻す。
気が急いて、足がもつれそうになりながらも、女の子の元へ駆け寄った。
私の奇行に呆気にとられ、目を丸くしている母親の腕の中、同じように真ん丸な目で私を見上げている。
怖がらせてしまわないように、目線に合わせて屈み、覗き込む。
ぱちぱちと瞬いた目が、不思議そうに私を見た。
「サラサ……?」
私の背後に立つ陛下の戸惑ったような声に、振り返る事も出来ない。
意識の殆どを、女の子に……否、女の子の持つ布に持っていかれていた。
「驚かせてしまって、ごめんね。それ、見せてもらってもいいかな?」
「これ?」
「そう、それ」
握り込まれた布を指差すと、女の子は、首を傾げる。問いかけにハッキリと頷けば、何度か視線を行き来させたあと、小さな手が布を差し出してくれた。
「はい」
「ありがとう!」
落ち着け、と心の中で繰り返しながら、深く呼吸する。
受け取った布をひらこうとするけれど、手が震えてしまい、上手く指が動かないのが、もどかしい。
一瞬で終わるはずの動作に随分な時間を浪費しながら、私はそれを開き、
絶句、した。
「……っ!!」
素材自体は珍しくない。手触りからして、麻だと思う。
桜に似た花をモチーフとした刺繍が、綺麗だ。
だが何の変哲もない素材と絵柄の布を、中央に堂々と書かれた文字が、異質なものへと変えている。
それを文字と理解しているのは恐らく、この場では私一人だと思うけれど。
「ひの、もとの……くに」
「……?」
小さく、独り言のように呟く。声は自分のものとは思えない位、掠れていた。
高ぶるこの感情が、喜びなのか、絶望なのか、それさえも分からない。
私はずっと、元の世界に戻れるのかどうか、深く考えないようにしていた。
だって、周りには何の手がかりもなく、私自身、色んな事に制限がある身の上。街で情報を探す事さえ、ままならない。
後宮の書庫に通い、本を読む事は多いが、未だ異世界の記述がある本に巡り合った事はないし。
突然放り出された世界なのだから、もし帰れるとしても、突然なんじゃないかって、楽観的に考えようとしていた。
帰れないかもしれない可能性から、目を逸らして。
帰りたくない理由からも、目を逸らして、いたのに。
手掛かりは、思いがけない時に突然、投げ寄越された。
ひのもとのくに――――『日ノ本の国』
布には、私の世界の言葉……日本語で、母国の名が刻まれていた。
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