側室(仮)の矛盾。(2)
「…………」
陛下の瞳を見つめたまま、私は唇を噛み締める。
かける言葉なんて、見つからなかった。言う資格もない。
甘やかされて育った世間知らずの小娘には、何も。
「戦争は何も生まない。そんな簡単な事も、知らなかった」
膝の上で握りしめていた私の手に、陛下が触れる。
彼がよくする仕草ではあったが、いつものそれとは少し違った。
私を慰めたり、宥めたりする時のように、包み込むのではなくて。
指を絡め、掌と掌を合わせて繋ぐ。
一方的ではない力加減が、愛しかった。
「戦で勝てば民を守れるのだと、信じていた」
陛下の声が、低く掠れる。
「敵を屠る度、勝ち鬨をあげる度に、国は豊かになり、幸福に近づくのだと」
「……」
まるで懺悔のようだと思った。
もういいです。何も言わなくていいから、と抱きしめたい。
でも、それでは駄目。
この方の背負っているものを知る為には、今遮る事は、許されない。
「だが、戦は無慈悲に奪うだけだった。景色も、人も」
陛下の視線が、焼け焦げた大木へ移る。
その瞳が痛みを堪えるように細められたのを見て、此処も陛下の想い出にある土地だと知った。
「幸福に近づくどころか、民は飢え苦しんだ。日々の食う物にも困り、奪い合っている。武勲をあげてみせますと笑った若い兵士は、戦場から帰らなかった。気丈に笑って夫を見送った妻は、泣き崩れた。村から活気が消えて、幼子の笑い声も聞こえなくなった。……私は愕然とした。自分は今まで一体、何の為に戦ってきたのだろう、と」
繋いだ手に、力が込められる。
いっそ泣き叫んでくれたら、いいのに。
陛下は泣かない。叫ばない。静かな声で、淡々と語る。
痛いくらいの力が込められた掌だけが、陛下の絶望を私に伝えてくれた。
「だが一度始めてしまった戦は、そう簡単には止められない。和睦を成立させるには、障害が多過ぎる。時間が途轍もなくかかり、その間にも民は死んでいく」
「…………」
「私は、鬼になる決意をした。戦が終わらぬのなら、私が終わらせようと」
「……っ」
胸を刺し貫かれたような衝撃が襲う。顔が情けなく歪んだのが、自分で分かった。
その短い言葉の中に、どれだけの痛みが、絶望が、慟哭が詰め込まれているのだろう。
戦という特殊な状況の中、陛下は己の行動を正当化しなかった。
戦を終わらせる為とはいえ、死神と呼ばれる程多くの血を浴びた罪を、彼は知っている。自分は『軍神』ではなく『鬼』だと。
そんな潔さが今は、酷く痛々しく思えた。
「我が国の圧倒的な勝利で、戦は終わった。それから半年して、父が病に倒れ亡くなり、私が皇帝に即位する事となった。もう、戦などしなくてもいい。飢える事も、怯えながら暮らす事もない。そんな国を、つくろうと……」
「……陛下」
痛みに耐えきれず呼ぶが、陛下は、こちらを見ない。
「……だが、まだ道は遠く険しい。私が未熟なばかりに、民に苦労をかけてばかりだ」
「アカツキ様!」
「っ!」
もう一度、今度は名を呼んだ。何か考えがあった訳じゃない。
ただ、呼んでから気付いた。アカツキ様が『オレ』ではなく『私』と言っていた事に。
戦争の責任者としての、懺悔だからなのか。
それとも私と、距離をとる為なのか。
分からないけれど、こっちを見て欲しいと、強く思った。
「オレは……」
掠れた声が、不自然に途切れる。
オレは、ともう一度声を絞り出すように、アカツキ様は繰り返した。
「自分の手が、声が、もっと遠くまで届くと思っていた。もっと多くのものを、掴めると信じていた」
彼の美貌が苦痛に歪んだ。
「とんだ自惚れだ。皇帝であっても、オレ自身はただの人間だと言うのに」
「……」
「目の前で腹を空かせている子供一人、うまく助けられない」
「アカツキ様」
私は繋がれていない方の手で、アカツキ様の手を包む。
冷えた手を温める為に、ゆっくりと摩ると、ようやく顔をあげて、こっちを見てくれた。
例えば、貴方が独裁者だったのなら、願いはすぐに叶うのだろう。
思うままに食料を配り、仕事を与え、目につく場所だけ綺麗に整えて。後の事は知った事ではないと、割り切れるのならば。
でもきっと貴方の願いは、そんな軽いものじゃない。
飢えに苦しむ子供に、パン一つ与える程度では、満足しないはず。
たった一人だけでなく、鴻国中の子供が健やかに育ち、学び働ける世を願うならば、基礎から築き上げる必要がある。
親を亡くした子が、生きていける為の施設を。
民を守る為の、機関を。
学び働く為の、制度を。
願いが大きければ大きい程に、時間も労力も掛かる。
全ての事を押し通す権力を持っていながら、一歩一歩、歩いていくのは、歯痒いでしょう。きっと、苦しいのでしょう。
でも私は、思うのです。
「貴方が皇帝陛下で、良かったです」
「っ!」
悩んで、苦しんで、それでも一歩ずつ歩く貴方を、私はとても尊く思う。
戦の事だって、そう。
貴方が正しいと言える程、私は多くを知らないけれど、貴方が選んだ道が決して楽な道では無かった事はわかる。
誰だって苦労なんてしたくない。険しい道よりも、楽な道に魅力を感じるでしょう。
なのに、アカツキ様は逃げなかった。
知らない。自分のせいではないと、見ないふりはしなかった。
「貴方が、私の旦那様で、嬉しいです」
噛み締めるように、呟いた。
呆然としていた陛下のお顔が、緩む。
さっき見た、泣き笑い。でも今度は、苦しくはなさそうだ。
……良かった。
貴方の背負っているものは知りたいけれど、哀しいお顔は見たくない。
矛盾しているけれど、それが私の本音。
一人で、苦しんで欲しくない。
重荷を、少しでも軽くしたい。
私は、その為に何が出来るのでしょうか。
私、は――――。
「……サラサ」
「!」
ドクン、と。
心臓が一際大きな音をたてたあと、早鐘を打つ。
陛下が、嬉しそうに呼んだ名前に今更、息が止まる程の衝撃を受けた。
今更、本当に今更だ。
何度呼ばれたと思っているの。
そうやって自分を宥めようとしても、何の効果もない。
陛下の傍に在りたいと望む為には、見過ごせない問題がある。
「…………っ」
私は、今まで深く考えないようにしていた。
私が、沙羅である事を。
「……サラサ?」
貴方が、それを知らないという事を。
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