師匠と香辛料
「一局、指してみるか?」
師匠が盤面を整えながら言った。
さっきまでの呆然とした顔はどこへやら、目がすっかり輝いている。
「ええ、喜んで」
向かいに座ると、師匠は素早く駒を並べ直した。
「旅の者か。どこから来た?」
「リスボルンから。次はファルデンに向かうつもりです」
「ほほう、旅をしながら遊戯盤を?」
「……ええ、まあ。良い相手がいれば」
俺はなんとなく話を合わせておいた。
勝負が始まった。
師匠の手は速い。駒を迷わず動かす。
長年の経験による定石が染み込んでいるのだろう、一手一手に無駄がない。
――だが。
俺はゆっくりと、しかし確実に盤面を支配していった。
「……ぬ」
師匠の手が止まる。
「むぅ……⁉」
また止まる。
数手後、師匠は深く息を吐いた。
「……参った」
静かな一言だった。しかしすぐに顔を上げ、目が笑っている。
「見事じゃ。どこでそれほどの腕を?」
「暇な時間が長かったもので」
師匠はしばらく俺を見てから、くつくつと笑った。
「含みのある答えじゃな」
そこへノエレが湯気の立つカップを二つ運んできた。
「お茶でもどうぞ」
「ありがとう」
「師匠のは薬湯です、今日はちゃんと飲んでくださいよ」
「わかっておる、わかっておる」
師匠が宥めるようにノエレに手を向ける。
「昨日も同じこと言って飲まなかったじゃないですか」
「まったく、細かいことをいつまでも……」
「細かくないです!」
ノエレがむっとした顔で師匠を見る。
「だいたい師匠は何でも大雑把すぎるんです。ポーションだって目分量だし、レシピの分量だって『少々』とか『多め』とかばっかりで、見習いにはわかりませんよ!」
「感覚で覚えるものじゃ、そういうのは」
「感覚って言われても困ります!」
俺はお茶を飲みながら、その掛け合いを眺めた。
この二人、息が合っているな……。
口では愚痴っぽいが、ノエレの目に悪意はない。
師匠も叱るでもなく、どこか楽しそうだ。
「ノエレ」と師匠が言った。
「せっかく旅の方が来ておるのじゃ、チーズでも出してやれ」
「……あるにはありますけど」
「ファルデンに向かうそうだ。あそこのチーズの話をしてやろうと思ってな」
ノエレの表情がわずかに変わった。
師匠の口からまともな食べ物の話が出たのが、珍しかったのかもしれない。
「……わかりました」
少し間があって、ノエレが小さめのチーズをひとかけ持ってきた。
「試しに食べてみなさい」と師匠が顎をしゃくる。
口に入れると濃厚な旨味が広がった。
塩気が強めで、後から少し酸味を感じる。
「――⁉」
「じゃろう」と、師匠は俺の顔を見て満足そうに頷く。
「これはファルデン産じゃ。ノエレが先月買ってきた」
「師匠が食べないから余ってるんです」とノエレがぼそっと言った。
「ファルデンに行くなら西の市場の外れに小さな店がある。看板に山羊の絵が描いてある店じゃ。そこのチーズが格別でな」
「覚えておきます」
「それと――」
師匠の目がにわかに輝いた。
「エールと合わせるなら、チーズにある香辛料をひとつまみかけると絶品なんじゃ」
「香辛料?」
「うむ、ちょうどここにある」
師匠が立ち上がり、棚を漁り始めた。
小瓶を取り出し、蓋を開けて俺に差し出す。
かすかにスパイシーで、しかし柔らかい香りがした。
「これをな、チーズの上にひとつまみ。そこへ冷えたエールを一口やると……たまらんぞ?」
俺は思わず喉を鳴らす。
もう一度匂いを嗅いだ。
「……少しだけわけてもらえませんか」
師匠が目を細めてニヤリと笑う。
「ならば……」盤面を指でとんとんと叩く。
「もう一勝負じゃな」
「師匠!」ノエレが声を上げた。
「お客様は旅の途中なんですよ⁉」
「構わんじゃろ、本人が首を縦に振れば」
「……もう」
ノエレが俺に困り顔を向けてくる。
俺はチーズをもう一口食べてから、師匠を見た。
「あと一局だけですよ」
「無論じゃ!」
師匠はすでに駒を並べ始めていた。
二局目も、俺が勝った。
師匠は「むぅ……」とうなりながら、しぶしぶ小瓶を差し出した。
「これをチーズにかけて、冷えたエールで流す。それだけでいい。難しいことは何もない」
「ありがとうございます」
受け取ると、師匠はもう盤面に目を落としていた。
「腹が減った。ノエレ飯を頼む。ウェイトリー、また来い。次は負けんぞ」
ノエレが小声で囁いた。
「ありがとうございます。やっと、ごはんを食べてくれそうです」
俺は笑いをこらえながら立ち上がった。
「世話になったな」
「いえ……こちらこそ、助かりました」
ノエレはちらりと師匠を見た。
その横顔が、さっきより少し穏やかだった。
「師匠が食べ物の話をするの、久しぶりで」
それだけ言って、ノエレは小さく笑った。
小屋を出ると、林の空気が冷たかった。
チスパが木陰でのんびり草を食んでいる。
小瓶をそっと荷の中に入れた。
チーズと、冷えたエールと、この香辛料。
思わぬ収穫に足取りも軽くなる。
「さぁて、行くか相棒」
手綱を取り、街道へ戻る。
チスパが顔を上げ、鼻を鳴らした。
* * *
ファルデンに着く少し手前。
街道の脇に、壊れた柵が見えた。
木材は内側からへし折られたように裂け、地面には無数の足跡が残っている。
人のものではない。小さく、数が多い。
そのすぐ先に、腹を裂かれた牛の死骸が転がっていた。
肉は食い散らかされ、骨が覗いている。
血の匂いが風に乗って漂ってきた。
「……雑だな」
思わず呟く。
狩りというより、ただの蹂躙だ。
少し進むと、今度は荷車を引いた農夫とすれ違った。
男は俺の顔を見るなり、眉をひそめる。
「旅の人か。日が落ちる前に中に入っとけよ」
「物騒だな」
「ゴブリンが出る。最近は数も多い。夜に外をうろつくもんじゃねぇ」
そう言い残し、男は足早に去っていった。
「……」
チスパの首を軽く叩く。
「面倒な時期に来たかもしれんな」
やがて見えてきたファルデンの街は、のどかな見た目とは裏腹に、どこか張り詰めた空気をまとっていた。




