出発
翌朝、チスパに荷を括りつけ、俺は街の出口へ向かった。
空は晴れていた。潮の匂いがまだ漂っている。
振り返れば、赤茶色の屋根が朝日に照らされていた。
良い街だったな……。
またワインを飲みに来よう。
「ウェイトリーさん」
門のそばで、見知った顔が二つあった。
ラオスとフォーゲンだ。
「おや、奇遇だな」
「奇遇じゃない、待ってたんだ」とラオスが笑う。
フォーゲンは無言で腕を組んでいる。
「見送ってくれるのか? 悪いね」
「いい馬だな」とフォーゲン。
「だろ? ハモンドさんに礼を言っておいてくれ」
俺はチスパの首を軽く叩いた。
「次の目的地は?」
「特に決めてないんだ。のんびり行こうかと」
「なら、ファルデンはどうだ」とラオスが言った。
「麦の街だ。のんびりするにはちょうどいい」
「ファルデンか……」
「チーズが絶品なんだ」ラオスが続ける。「それと――」
「エールだ」
フォーゲンが短く割り込んだ。
「よく冷えた麦酒が飲める。あそこのエールは……別物だ」
珍しく、少しだけ表情が動いた気がした。
「へぇ」
チーズと冷えたエールか。
麦畑と放牧地。リスボルンとはまるで違う景色だろう。
「いいね、ファルデンに行ってみるよ」
「この道を十日ほど行けば着く」とフォーゲン。
「ありがとう。ふたりとも世話になったな」
「こっちこそ、本当に助かった」と、ラオスが手を差し出した。
「なぁに、十分、礼はもらったさ。気にしないでくれ」
と、その手を握り返すと、しっかりした力が返ってきた。
フォーゲンが一歩、前に出た。
「……一つ、伝えておくことがある」
その声が、わずかに低い。
「ギルドで、あんたのことを聞かれた」
俺は黙って続きを待った。
「名前と、雷の魔術を使ったことを伝えた。腕のいい魔術師は希少だ。情報がギルドで回るかもしれん……すまない」
フォーゲンは静かに頭を下げた。
まったく、律儀なやつだな。
わざわざそんなことを伝えに来てくれたのか……。
俺は少し間を置いてから、軽く笑った。
「気にしないでくれ。あんたは正直に答えただけだろ? それでいい」
「だが――」
「ありがとう、教えてくれて」
フォーゲンは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
チスパに跨り、手綱を軽く引く。
「またどこかでな」
「ああ、また」とラオスが手を上げた。
フォーゲンは無言のまま、しかし最後まで見送ってくれていた。
門を抜け、街道に出る。
チスパの歩みが軽い。風が前から吹いてくる。
潮の匂いが、少しずつ薄れていく。
――ま、面倒ごとになりそうなら逃げるだけさ。
それだけのことだ。
「チーズとエールか……」
自然と口角があがる。
リスボルンの赤茶色の屋根が、背後で小さくなっていった。
* * *
「さぁて、チスパ」
街道に出て、人の姿が見えなくなった頃、俺は馬の首を軽く叩いた。
「お前の速さとやらを見せてくれよ」
手綱を握り直し、踵で合図を送る。
瞬間、景色が変わった。
風が顔を叩く。草原が両脇で流れていく。蹄の音が一つ一つではなく、連続した轟音になる。チスパは首を伸ばし、大地を蹴るたびに体が浮き上がるような加速を見せた。
「……っは! ははは!」
思わず声が出た。
速い。本当に速い。空を飛んでいるみたいだ。
火花、か。なるほど、名前負けなんかじゃない。
しばらく走らせてから、手綱を引いた。チスパが徐々に速度を落とし、やがて歩みに戻る。
「最高だよ、お前」
首を叩くと、「当然だ」と言わんばかりに鼻が鳴った。
少し行ったところに、街道から外れた泉があった。
木立に囲まれた、静かな場所だ。
手綱を木に繋ぎ、水を飲ませてやる。
俺も掌で水をすくって一口飲んだ。冷たくて、うまい。
「いい休憩場所だな」
木の根に腰を下ろし、空を見上げた。
木漏れ日がゆれている。
しばらくそうしていると、茂みの方から人の気配がした。
現れたのは、若い青年だった。
背負い籠に薬草を山ほど詰め込み、手には小さなナイフ。こちらに気づくと、軽く会釈をした。
「旅の方ですか? お邪魔でしたら――」
「いや、休んでいただけだよ。気にしないでくれ」
青年は俺の隣の少し離れた場所に腰を下ろし、採ってきた薬草を手際よく仕分け始めた。
種類ごとに分け、葉の状態を確認し、傷んだものを取り除く。動きに迷いがない。
「詳しいんだな、薬草」
「ええ、まあ」と青年は少し照れたように答えた。
「錬金術師の見習いをしていますので」
「見習いにしては手際がいい」
「もう三年になりますから」
なるほど。俺はしばらく、その手元を眺めた。
「師匠がいるんだろう?」
青年の手が、一瞬だけ止まった。
「……います」
さっきまでと、少し声の調子が違う。
「何か?」
「いえ……」
青年は薬草の仕分けに戻りながら、ぽつりと言った。
「師匠はとても凄い人で、知識も腕も本物です。ただ……最近、遊戯盤にはまってしまって」
「遊戯盤?」
「ええ。朝から晩まで盤とにらめっこで、食事も忘れる始末で……」
青年はため息をついた。
「少し休んでほしいんですが、声をかけても生返事で。どうしたものかと」
心配しているのか、呆れているのか、その両方か。
口調は愚痴っぽいが、目は本気で困っている。
なんとなく、その師匠とやらに興味がわいた。
「師匠に挨拶させてもらえないか」
「あ……師匠が、見知らぬ人を嫌がるかもしれなくて」青年の目が泳ぐ。
「でも、知らない人間が来れば、さすがに手が止まるんじゃないか?」
と、俺が冗談っぽく返すと青年は少し考えてから笑った。
「……確かに、それはそうかもしれませんね。わかりました、案内します」
「名前は?」
「ノエレといいます」
「ウェイトリーだ。よろしく」
立ち上がり、チスパの手綱を解く。
「馬に乗ったことは?」
「ないです」
「じゃあこれが初めてだな?」
「えっ⁉」
「よし前に乗れ。手綱は俺が持つ」
手を貸してやると、ノエレは戸惑いながらも跨ることができた。
チスパが軽く体を揺らすと、「うわわっ」と情けない声を上げる。
「ははは、大丈夫さ。そのまま掴まってろよ」
俺が後ろに乗り、手綱を軽く引くとチスパがゆっくり歩き出した。
「……たかい」
ノエレがぼそっと言った。
「慣れると気持ちいいぞ」
「そ、そうですか」
緊張しながらも、どこか楽しそうだった。
小屋は泉から少し奥に入った林の中にあった。
古いが、手入れされている。
軒先にはハーブが吊るされ、窓から薬品の匂いが漂っていた。
ノエレが扉を開けると、薄暗い室内に人影があった。
小さな机に向かい、一心不乱に盤面を見つめている。
白髪の長い耳、深く刻まれた皺、しかし不思議と力を感じる背中。
――エルフだ。
長命の種族がこれほどの老いた見た目ということは、一体どれだけの年月を生きてきたのか……想像もつかないな。
「師匠、お客様ですよ」
ノエレが声をかけた。
返事がない。
俺はノエレと顔を見合わせた。ノエレはやれやれと首を振る。
仕方なく俺は机に近づき、盤面を覗き込んだ。
しばらく観察すると、俺は確信した。
……あぁ、やっぱり。
これは俺がいた世界でも流行ったものだ。
駒の形は微妙に違うが、升目の数と師匠の動かし方から見てルールは同じだろう。
となると……。
俺は二十手先まで読んで、確信した。
ははぁん……ここで詰まっているのか。
自慢じゃないが、俺はこの遊戯盤で一度も負けたことがない。
こういう手筋を読む遊びは魔術ともつながる。
古い魔法陣の構成を読み解く難易度は、この比じゃないからな。
俺は迷いなく、一つ駒を動かした。
「何をする!」
師匠が弾かれたように顔を上げた。
が、しかし、すぐに口を閉じた。
盤面と俺の顔を、交互に見る。また盤面を見る。また俺を見る。
「な……なんと!」
師匠の目が見開き、しばらく盤面から目を離さなかった。
「このような、生き筋があったとは……」
震える指で盤面をなぞり、師匠はゆっくりと俺を見上げた。
「お、おぬしは何者だ⁉」
「ウェイトリー」
軽く答えてほほ笑む。
「通りすがりの魔術師さ」




