★【幸福収奪渦・ラッキーソウル】(うーの話 前編)
幸福収奪渦・ラッキーソウル 【ウフアラネージュ・バニーホップ】
☆
【登場人物紹介】
☆コーメット・シャルドネ☆
【鉢植えの魔女】の称号を持つ。
その神々しいまでの美しさにニフラムの効果を付与すれば、法都には1人の女子もいなくなるだろう。
押しに弱い。
☆ウフアラネージュ・バニーホップ☆
うさぎっぽい耳と尻尾をもつ。
致命的な頭の悪さで今日も元気に生きている。
☆サニー・ルージュ☆
うさぎが好き。
うさぎよりかわいいし、うさぎより跳ねる。
☆バーサ☆
お菓子作りの得意な、ステラという名前の60年来の友だちがいる。
☆ラング・ド・シャ☆
コーメットが学生の時、解法理論の教鞭をとっていた教授。
法都解法理論の一人者である【キッシュ・マカロニア】の弟子でもある。
割とミーハー。
☆パートブリゼ☆
世界中の幸福を一身に受ける魔女。
☆ウォルフラマイン☆
パートブリゼを守護する騎士。
☆
(法都 カフェ【冬のナマズ】)
「ねえコーメット、シナモンのことは残念だったって思うけど、そろそろ新しい弟子を取る気はない?」
「……今のところ、ないわ」
「そーゆーと思った。だめよ! あなたって、そう言いながらきっと、この先一生弟子取らないわ! わかる! わたしには!」
「……え? そんなことは……な、ないわよ?」
「あるわよ! あなたって、一度失敗すると、立ち直れない性格だもん。昔っから、打たれ弱いもんね―。自分から弟子を取ろうとは、考えないはずよ。だからね、わたしが紹介してあげるわ!」
「……え? い、いいわよ。そのうち、自分で……」
「さすがに、いきなり本人を連れてくるわけにはいかないでしょ? だから今日は、写真だけ持ってきてあげたから」
「……え? あれ?」
「この子。ほら、見てみて」
「……え? コ、コスプレ?」
「凄いでしょ? それ本物の耳なの。ウサギちゃん」
「……え? 本物?」
「先天性兎人参化症候群っていう珍しい病気なんだって。まぁ病気と言っても、耳と尻尾が生えるだけで、あとは普通の人間とおんなじ」
「……え? うさぎにんじん?」
「でね、この子、すごくかわいいのね。市役所に、毎日のようにわたしに相談にきて、なぜかクッキー持ってくるんだけど、それで『働きたい、働きたい』って言うの。偉いわよねぇ、自分から働きたいだなんて! だから、彼女のために働き先を見つけてあげようと思って」
「……え? そ、そう。偉いわね。それを……な、なぜ私に?」
「だから、あなた弟子がいなくなったんだから、新しい子が必要でしょ? お手伝いの助手が。そうでしょう?」
「……え? うん、まあ」
「ほらやっぱり。ね! 一度会ってみて。面接してあげてよ! いい子だよ! ちょっと頭が弱いんだけど、そこがまたカワイイの!」
「……え、え? う、うーん。じゃあ、会うだけ……」
「わーありがとー! じゃあ早速伝えに行ってくる! よかったー! 働き先ができたって知ったら、あの子、興奮しすぎておしっこ漏らしちゃうかもしれないわぁ!」
「……え? い、いあ、まだ雇うとは、言って……」
「あ、そうそう。彼女の名前は『ウフアラネージュ・バニーホップ』よ。じゃあ、よろしくね! 今日の会計は、わたしが持ったげるわ!」
「え。あ、ちょっとまって。あー。……あぁ」
溜息をつくコーメット。
☆
(コーメット邸宅)
「バーサ。今日はお昼前にお客様がお見えになるの。お茶とお菓子……そうね、クッキーが好きみたいだから。お願いできるかしら?」
「もちろんです。お友達でございますか?」
「いえ、徒弟の面接の……」
「あんれまあ。やっと新しいお弟子さんをお取りに。コーメット様、ばあは実は心配しておったのです。前の出来事があってから……。ようござんす。お客様がびっくりするような、美味しいお茶とクッキーを、ご用意いたしましょう。なにがなんでも、こちらにお勤めしたいと思わせるような、おーいしいのを。ホホホ」
「あの。その。あ、ありがと……」
☆
(コーメット邸宅 昼前)
「そろそろ、来る頃かしら。……うさぎの耳が生えているなんて……一体、どんな境遇なのかな……」
☆
(コーメット邸宅 午後)
「まだお見えになられません」
「そう……」
「コーメット様! ばあは反対でございます! 約束の時間を守れぬようなものに、ろくな奴はおりゃせんです! 殿方とのデェトの待ち合わせなら、いざ知らず……」
「もう少し待ちましょう。なにかトラブルがあって、時間通りに来られなくなったのかも知れないし……」
☆
(コーメット邸宅 夕方)
「コーメット様、ばあは、これで……」
「ええ。気をつけて」
「コーメット様、気を落とさぬよう……。じきに良い人が見つかりましょう」
「心配いらないわ。ありがとう」
バーサが勝手口から出ていく。
溜息をつく。
用意していたクッキーを1枚つまむ。
「おいしい。そろそろサニーを迎えに行かないと」
玄関の扉が開く音とサニーの声が聞こえる。
「ただーいまー!」
「1人で帰ってきたわ。珍しいこともあるわね」
☆
(コーメット邸宅 玄関)
サニーはひとりの少女と手を繋いで帰ってきた。
連れられた少女は、頭にうさぎの耳が生えていた。
写真で見た少女と同じ顔をしている。
「サ、サニー。その人は……?」
「ウサちゃん! おねーちゃんに会いたかったの! ねー?」
「はい」
「う、うん?」
「ウサちゃん、おねーちゃんに会いに行ったんだけど、道に迷って、ようちえんに来たの! だからサニーが連れて来てあげたの! ねー?」
「はい」
「……と、とりあえず、なかでお話しましょうか」
☆
(コーメット邸宅 客間)
お茶と一緒に出したクッキーを、サニーとウサちゃんの2人でガツガツと食べている。
「やっぱりクッキーが好きなのね……。サニー、それくらいにしておきなさい。お夕食が食べられなくなるわよ」
「大丈夫だよぉー!」
「ところで、ええと、貴女……ウサちゃん? ……お名前は?」
ウサちゃん、クッキーを頬張りながら、両手を膝の上に戻してコーメットをじっと見つめる。
「うふ……ブッフォッ」
「あ、慌てないで。飲み込んでからでいいわよ」
「もぐもぐ……ごくん。はじめましてっ! こんにちわ!」
「ひっ。び、びっくり……あ、いえ。いいの。すこし驚いただけだから。続けて?」
「はい。こんにちわ! うーです。ウフアラネージュ・バーニーホップです!」
「やっぱり。今日、面接に来られる約束の……」
うーはほっぺにくっついたクッキーの粉をポロポロとこぼしながら、口を大きく開いてハキハキと答えた。
「はい! 面接にきました!」
「ええと。その。午前中に来られると聞いていたものだったから。時間通りに来られなかったのは、どうして?」
「海に……」
「え? 海? 海が、どうかしたのかしら?」
コーメットの言葉に、うーは上着のポケットから貝殻を取り出してテーブルに置いた。
サファイアに見間違うような、濃青色の奥に紫色をまとう。タカラガイの一種と見える。
「まあ。とてもきれい。矢車草のような色だわ。海に行って、この貝殻を取ってきたの?」
「タラッサ様がくれました」
「タラッサ様? 海の神様と同じ名前ね。あなたのお友達?」
「タラッサ様は、神様です!」
「……ん?」
「タラッサ様は言いました。『今しばらく堪えていれば、きっと道は開ける。明るい道がお前の目の前に開けるだろう』って!」
「う、うん」
「『このタカラガイをお前に授けよう。これはタラッサが力を込めた特別な貝だ。お前とその主を、あらゆる厄難不幸から、護ることだろう』と!」
「うん」
うーは突然、座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がると、大声を出した。
「うーを、ここで働かせてください!」
「ひっ。ちょ……。ごめんなさい、すごく、いきなりだったから。いいのよ、立ち上がらなくても……。お座りになって?」
「はい。……クッキーを食べても、いいでしょうか?」
「え? ええ、ど、どうぞ」
「もぐもぐ」
「う、うーん……」
☆
コーメット、うーの持ってきた経歴書のようなものを確認する。
文字が汚かったり、文字が汚すぎて読めなかったり、どこかの古代文明で使用していたような象形文字が並んでいたり、およそ文章の体裁は残されていない。サニーのほうがまだ読めるものを書く。
解読するコーメットの眉間に自然としわが寄り、目が細くなる。
「……迷子というか、あなたのお家は、ここから2ブロックしか離れていないのよね? どうやって、迷子に……」
うー、コーメットの視線に気がつくと、サニーと競うようにガブガブ食べていたクッキーを置いて、両手を膝の上に置く。
「いゴッフォ!」
「だからっ、喋るのは飲み込んでからで、いいから! お茶もあるからっ」
「ごぶごぶ。……ふう。うーは今日、朝5時に起きて、支度を始めました。初めてお会いする魔女のかたに粗相があってはならないと!」
「じ、自分語りを、突然……?」
「まず、お布団を干そうと思いました。お布団は、眠るときに重要だからです。眠るときは、必ず、お布団の上で眠るからです」
「う、うん」
「お布団干しが終わったとき、時計は10時を過ぎていました」
「えっ!? お布団を干すだけで、5時間が過ぎたの!? なにをやっていたのあなた!? そんなにたくさんのお布団があるのかしら!?」
「お布団を窓から出すときに、それが、つまりお布団が縦であるのか、それとも横であるべきなのか。自問自答をしました。窓の大きさを測ってみたり、お日さまがお布団をどれくらいぽかぽかにあたためてくれるのか想像してみました。そしたら、お日さまはすごいなって思いました。お布団がぽかぽかになるので、空にお日さまが出ている日は嬉しいですね」
「う、うん? そ、そう」
「お布団干しを終えたうーは、服を着てお部屋を飛び出しました。外に出ました。扉に鍵をちゃんと掛けたことを、指さし確認した後のことでした」
「うん」
「とんでもない過ちを犯していたことに、うーは気がついたのです!」
「な、何かしら? 面接の時間に遅れてしまった理由になる、重要な事柄かしら?」
「パンツを履き忘れていたんです!」
「えっ。……えっ!?」
「うかつでした。……うかつ? どういう意味だっけ……。うかつでした……。使いかた、あってますか?」
「わたしに聞いちゃうの!? そ、そうね……迂闊と言えなくもないわね」
「えへっ。うかつでした。えへ、えへへ……うかつ。えへ」
「う、うん。な、なぜかしら、すごく嬉しそうね……?」
「うかつでした。魔女のかたに失礼のないようにお会いしようと思うキンチョーのあまり、ふだんはパンツを履いてからスカートを履く順番のところ、うっかりパンツの順番を飛ばしてしまったんです!」
「う、うん。迂闊すぎるんじゃ、ないかしら……?」
「なにしろ魔女のかたにお会いするのです。うーが魔女のかたにお会いできるなんて、ものすごい光栄なことなのです。だから、魔女のかたに失礼しないように、不快な思いをさせないように、気をつけよう、気をつけようと意識しすぎたあまり、魔女のかたのことで、頭いっぱいになって、想いがあふれてしまって……。魔女のかたのことばっかり、考えていたんです。魔女のかたが原因だったんです。あんなにたくさん、魔女のかたのことを考えなければ、うーはパンツを履き忘れるなんて失敗を、しなかったのに……。うぎぎぎ……。魔女のかため……」
「えっ!? いつの間にか、わたしが原因みたいになってる!? せ、責任転嫁はだめよ!?」
「だけど、過ぎてしまったことを引きずっていても仕方がありません。過去を振り返っても、なにも変わらないのです」
「う、うん」
「うーはパンツを諦めました」
「えっ!? あ、諦めちゃったの!? 部屋を出たばかりだったんでしょう!? 過去はともかく、物理的に振り返れば、扉はすぐ目の前よ!? 一旦部屋に戻って、履いてくればよかったのよ!? どうして諦めちゃったの!?」
「パンツを履いていない自分に気がついたとき……まるで目の前に、地平線まで続く草原が広がるような、今までにない心地よさでした。とてつもない開放感を感じたのです」
「だっ、だめだめっ! ダメよそんな開放感は!? いけない! 間違ってる!」
「その気持ちの良さに、抵抗することはできなかったのです」
「そ、そう。勝てなかったの……。し、仕方のない子ね、もう」
「はっ! わかりました!」
「ひっ。ま、また……。あの。その。い、いきなり大声を出すのはやめてもらえるかしら……。心臓に悪いわ」
「タラッサ様の言っていた『明るい道が開ける』というのは、この事だったのです!」
「えっ!? かっ、神様の名前をこんなことで出しちゃダメよ!? バチが当たるわよ!? というか、絶対に違うって思うなっ!」
「開放感は今も続いています」
「い、いらないから!? そういう告白は、いらない! NOよ! ノーセンキュー! はい! やめやめ! つ、次に行きましょう、つぎの話に! それで!? それでそれから、どーしたの!?」
☆
「パンツを諦めたうーは、なにか、不思議な充足感を感じました。ひとつおとなになった気がしました」
「ま、まだ、その話を引っ張るの? う、うん……。もうお腹いっぱいよ?」
「部屋を出てから、うーは魔女のかたの家に向かうために、右を向きました」
「うん」
「あああああああっ!?」
「ひっ。もうっ! だからっ! いきなり大声はやめなさいってば!」
「いま思うと、これが分岐点だった気がします!」
「えっ!? ど、どんな? なにを思い出したの?」
「うーは、右を向いたはずだったんです! だけど、右を向いた時に見えた景色は、左を向いた時のものだったんです!」
「……え?」
「あれは、左を向いた時の景色でした。左を向いた時の景色だったことは間違いありませんっ!」
「う、うん。……ねえ、うー、ウフアラネージュ?」
「はいっ!」
「ひっ。い、いいの、立たなくていいから。座って。お座りなさい!」
「失礼しまっす!」
「う、うん。あのね、う、うー? あの、ごめんなさいね。貴女を疑うつもりはないのよ。でも……今までのお話を聞いていて、わたし、少し疑問に思ったの。その……気を悪くしないでね? とても聞きにくいけど……。大切なことだから、確かめるわね……」
コーメット、手のひらをうーに向けるやりかたで両手を差し出し、少し揺らしながら、うーに問うた。
「右と左……どっちがどっちなのか、わかる?」
普通の人ならば激怒して席を立つかも知れない問いかけ。
うーは大きく開いた瞳を満天の星空のようにキラキラ輝かせ、この日いちばんのドヤ顔をつくると、得意気な大声で答えた。
「『炎はひだり! 水はみぎ!』」
うーの言う『炎は左、水は右』とは、言葉の通り、炎の魔法は左半身、水の魔法は右半身で施術したほうがいいという意味だ。
この時代から少し前まで、左手のほうが心臓に近しい位置にあるため、生命エネルギー操作の延長とされる炎の魔法を使いやすいのではないか、という見解が世間一般に信じられていた。
だが実際には右手だろうが左手だろうが、大した差はなく、個人の信条に因るところが大きい。
しかし、現在も信じている人は法都にたくさんいる。
あと、この言葉は『茶碗は左、箸は右』と同じ意味の由無し事としても使われる。
小さな子供相手に、左右を認識させるための言葉である。
うーはコーメットの手に自分の手のひらを合わせた。
それを、言葉に合わせてゆらゆら揺らす。
「炎はひだり! 水はみぎ! 合ってますか!?」
「う、うん。そうね、合ってるわ」
「えへへー。ほのおはーひだりー。みずはーみぎー。えへ、えへへ」
「……ん? ちょっと……もう一度、やってみて?」
「はい! ほのおはーひだりー。みずはーみぎー」
「えっ? わたしから見たほうじゃなくて、いいのよ……?」
「えっ?」
「えっ? ……左はどっち?」
「ほのおは、ひだりー」
「右じゃない? それ、右じゃないかしら?」
「えっ?」
「えっ? ……み、右は? 右はどっちかしら?」
「みずは、みぎー」
コーメット、思わず自分の手のひらを机に叩きつける。
ビクッとするうー。
「逆だわ! あなた、左右が逆よ!?」
「えっ? 炎はひだりで、水はみぎじゃ、ないんですか!?」
「う、うん。それは合ってる!」
「えへっ、合ってる……。えへ」
「ち、ちがうちがう。あなたの左右が、逆になってるのよ!」
「えっ!? わたしだけ、炎は、み、みぎで、水はひだり、なんですか!?」
「う、うーん。いったいどうやって、伝えたものかしら……」
コーメットはうーを見つめながら、困ったように頬に手を当てる。
うーは目をぱちぱちさせてコーメットの言葉を待っている。
★
コーメット、両手を握りこぶしにして、胸の前ですこし前後に揺らしながら、呼吸を整える。
「よし。シンプルに考えればいいのよね。じゃあ、うー。今からわたしと同じようにしてね?」
「はい!」
コーメット、うたのおねえさんのオーディションに合格する勢いの笑顔を作り、うーに語りかける。
「は、はーい。じゃあいきますよー。み、右手を挙げてくださーい。みぎー」
「みぎー!」
「つ、次は、左手をあげてくださーい。ひだりー」
「ひだりー!」
コーメット、思わず立ち上がり、両手を机の上に思い切り叩きつける。
うー、ビックリして思わず耳に生えている体毛を逆立たせる。
「逆よっ! 逆、逆っ! あなた、やっぱり右と左が逆じゃない!」
「……えっ?」
「こっちが左よ! こっち、こっちの手!」
「えっ? ……みぎでは?」
「ちがう! ひだり!」
「……じゃあ、こっちは?」
「こっちが、みぎ! こっちがみぎよ!」
「……み、みぎ!?」
うーの、驚きに大きく開いた瞳から、徐々に光が失われていく。
真顔に戻った表情が、失望に移り変わり、うなだれる。
うーの心情にシンクロして、頭上の耳がシボンと倒れこむ。
ハッとして我に返り、うーの様子にいたたまれない気持ちになるコーメット。
おそるおそる、うーの顔をのぞき込む。
「……あ、あの、うー? ええと……あまり、気落ちしないで? 間違いは誰にでも、あるわよ。
ま、まぁ、あまり見ない間違いでは、あるけれど……」
「……いつ……」
「え?」
「……いつ、入れ替わったんでしょうか? うーの、みぎとひだり……」
「ええっ!? い、いやいや。左右が入れ替わるとか、さすがに聞いたことないけど……?」
「みぎが、ひだりで……ひだりが、みぎ……」
「う、うん」
「……」
うーの目に涙が溜まっていく。
ひどく焦るコーメット。
「そ、そうだわ。クッキー! クッキーをお食べなさい? ほ、ほら。おいしいわよ?」
「はい……。もさもさ」
「う、う〜ん……。思ったよりも、難しい子ね。どうしようかしら……」
★
「おねーちゃん、おなかすいたー」
途中で席を外して、どこかで遊んでいたサニーが戻ってきた。
「え? あんなにクッキーを食べていたのに……。あれ? もうこんな時間?」
「ごはんのじかんだよおー!」
「ごめんなさい、気が付かなかったわ」
「あれー、ウサちゃん泣いてるの!? おねーちゃん! ウサちゃん泣いてるー! おねーちゃんが、泣かせたのー!?」
「ち、違うわよ。サニー」
「ウサちゃん、だいじょうぶー? どこか、いたいの?」
「いたくないです。もぐもぐ」
「ねー、ウサちゃんもいっしょにごはん食べよー。おねーちゃん、いいでしょ?」
「そうね……。うー? 貴女さえ良ければ、一緒にお夕食、どうかしら?」
「いただきます!」
即答したうーの瞳と、口の端から垂れるよだれが、キラキラと輝いていた。
★
「ウサちゃん、シチューおいしい?」
「もぐもぐ。とってもおいしいです! もぐもぐ」
「にんじんあげるー」
「サニー、好き嫌いはだめよ。自分でお食べなさ……あっ」
うー、サニーが突き出したスプーンに乗ったにんじんを、爬虫類が獲物を捕食するのと同じ素早さで頭を振り動かし、バクリと食らいつく。
「もぐもぐ」
「ウサちゃんにんじんおいしー?」
「もぐもぐ。はいっ! とってもおいしいです!」
「も、もう……。テーブルマナーを教える必要があるわね」
「これは法都の北畑で採れたにんじんです」
「え? ……うー、あなた、まさか味で産地が分かるの?」
コーメットの質問に、うーは首をかしげながら振り返ると、柱時計の針を確かめながら。
「さんじ? 今は19時30分ですよ?」
「ち、ちがうちがう。時刻のことじゃないの。にんじんの採れた場所が、味だけで分かるの?」
「はい。北畑のにんじんは、少ししょっぱいんです」
「……じゃあ、このサラダのチシャは? 分かる?」
「もさもさ。これはサユリ牧場のだんだん畑でとれました」
「すごい味覚。一体、どうやっておぼえたの?」
「食堂街のレストランでおぼえました」
「えっ? あなた、食堂街に居たの?」
食堂街は法都の一流レストランやら酒場やらが軒を連ねる通りを指す。
法都の観光名所としてもよく知られている。
「すごいじゃない。もしアルバイトだとしても、食堂街で働けるなんて、大したものだわ」
「働いていません。レストランでにんじんの切れはしとか食べてました」
「えっ? どういう……こと? 切れ端って?」
「はい。夜にレストランの裏にいくと、たくさん置いてあるんです。拾ってきて洗って食べてます」
「そ、そ、それって、あなた……。まさか、そ、そんなものを、毎日、た、食べているの?」
「はい」
「な、なんてこと……」
「ウサちゃん、まいにち野菜ばっかり食べてるの?」
「はい」
「ほんとー? じゃあー、今日はシチュー食べられて、よかったね!」
「はい! シチューあったかくておいしいです! もぐもぐ」
コーメットの目からブワッと涙があふれ出た。
「おねーちゃん、どーしたの? おなかいたいの?」
「おなかが痛くなっちゃったんですか?」
「ぐすぐす……ううん、なんでもない。ごめんなさいね。
うー、シチューたくさんあるからね……。お腹いっぱいになるまで、おかわりしていいのよ?」
「ほんとうですか!? ありがとーございます! もぐもぐもぐっ!」
★
(コーメット邸宅 玄関先)
「今日はありがとーございます!」
「ウサちゃん、バイバイ!」
「ばいばい!」
「……あの、ウフアラネージュ?」
「はい! なんでしょうか!」
「その……もしあなたが良ければ、明日も一緒にお夕食を、どうかしら?」
「!」
「おねーちゃん、ほんとー? ウサちゃん、あしたもいっしょにごはん食べよ―!」
「はい、一緒に食べますっ! えへへっ!」
サニーとうーが手を取り合って、くるくると回るステップを踏む。
微笑むコーメット。
「もう、ふたりとも。そんなにはしゃがないの。わはは。
わは……あっ! ちょ!? う、うー!? その、スカートの裾が、あ、あぶないじゃないの……!」
★
そのとき、まるで氷でなぞられたような悪寒が、コーメットの背筋にゾウッと走る。
「!?」
いつから居たのか。
うーとサニーの踊る、その向こうに見える。
邸宅の鉄格子の門の間から、黒い影がこちらの様子を伺っている。
(あれは……なに!? 実体じゃない、魔法だ!)
ゆらゆらと揺れる魔法の黒影は、人のような姿形をして、頭と思われるところに、目のような白い部分がぼうっと光っている。
黒影は、うーを見つめているようだった。
「それじゃあ、さよーなら! さよーならー!」
うーが門に向かって駆け出す。彼女には黒影が見えていないようだ。
思わず大きな声を上げて引き止めるコーメット。
「ま、待ちなさい! ウフアラネージュ!」
「? はい、なんでしょうか?」
「あ、その……あっ?」
再び門に目を向けると、黒影は消えている。
サニーとうーが、同じように目をぱちぱちさせてコーメットを見つめる。
「どーしたの、おねーちゃん」
「……いえ、夜道は危ないから、気をつけて。迷子にならないようにね」
「はいっ!」
うーは抜けるんじゃないかという勢いで腕をブンブン振って別れの挨拶をしながら、ウサギのように門を飛び出すと、すててーと小走りに去っていった。
コーメットはうーの後ろ姿が闇に紛れて見えなくなるまで見送る。
コーメットの額に冷や汗が浮かび、髪がべっとりと貼り付いていた。
★
(コーメット邸宅 寝室)
「あれは呪術だわ……それも、かなり強い。意志を持っているようなふうでもあった……。かなり、長い年月を経過したものでなければ、あのような呪術にはならない」
「うーに施術されたものだと思うけれど……。でも、うーに対する執着心はそれほど感じなかった」
「もしかして、あの子がちょっとちぐはぐなのは、あの呪術が原因ではないのかしら?」
「そうかもしれない。確か今日の話の中で、うーはこう言っていたわ。
『右を向いた時に見えた光景は、左を向いた時のものだった』」
「『右と左が入れ替わった』……。あの時は、そんなことないだろうって、何を言っているのかしらって思ったけど……。もし、あの呪術がうーの精神に影響を与えているとしたら……。ありえないことでは、ないわ」
呪術をかけられた人間は、その副作用で物事の正誤や認識を取り違えることが、ままある。上下左右も然り。
例えば、かつて法都で、悪意のある呪術をかけられた屠殺場の主人が、呪術の本来の目的とは異なる副作用にみまわれた事件がある。かれは『人間と動物を判断する認識が入れ替わった』。
何が起きたかは語るまでもない。
「……お祓いをしてあげたいけど、わたしの生半な知識では、どうにもならない気がするし……」
「ミコに頼めばきっとどうにかなるのだろうけれど、万が一、シナモンの時のような、危険な目に遭わせる訳にはいかない」
「フーバーには、迷惑を掛けたくないし……」
「呪術に詳しい友達……思いつかない。うーん……困ったわね……」
「……そうだ。あの方なら、協力してくださるかもしれない」
「明日にも連絡してみよう……。お元気でいらっしゃるかしら……」
★
(数日後 法都立魔術大学 解法術学部棟 ラング・ド・シャ研究室)
(ノックの音)
「はい、どうぞ」
「ご無沙汰しております、ラング先生」
「ああ、シャルドネ。よく来てくれましたよ。こんな老いぼれを、わざわざ訪ねてくださるなんて、嬉しいわ」
「そんな……お元気そうで、なによりですわ」
「あなたは、学生の頃からそうだったけれど、益々きれいになったわね。今年も出るの? 人気投票」
法都の魔女協会では、なぜか魔女の人気投票を行う。
以前は毎年催されるイベントではなかったのだが、協会要員の気まぐれか、近年は殆ど毎年のように執り行われており、もはや定例化しつつある。
都民の好奇の目に晒されることに抵抗のあるコーメットには、ため息しか生まないイベントなのだ。
「い、いえ。あれは、あの。その。大魔女さまが、むりやりに……」
「そうなの? 昨年はたしか3位でしょう? 今年はきっと1番になれるわよ。わたしもあなたに投票しちゃおうかしら」
「わは、は……」
「さあ、お掛けになって。今、お茶を入れるから」
「先生。お目に掛かって頂きたい者を連れております……。是非、先生のお力をお借りしたく……」
「お手紙にあった女の子ね。いいわ、どうぞここへ呼んで頂戴。一体どんな呪術に掛かっているのかしら……? 楽しみだわ。あっ、ごめんなさい。いけないわね、職業がら……」
「ウフアラネージュ、お入りなさい」
「こんにちわ!」
「あら、かわいいウサギさん」
「ウフアラネージュ・バーニーホップです! こんにちわ!」
「はい、こんにちは。うふふ、元気な子ね。でも、その耳は呪いじゃないみたい……? まさか、本物?」
「はい、耳は兎人参化症候群という、稀有な病気のせいです」
「ふうむ。では、他になにが……。は、はうあ!?」
ラング、うーの姿に何者かを見出したような驚きで、思わず飛び退く。
背後の机の角に、したたかに腰をぶつける。
「ぐわぁー!?」
机が大きく揺れて、乗っていた魔導書や小道具が騒がしい音を立てて床に散らばる。
「せ、先生!? 大丈夫ですか!? しっかりなさってください!」
「あ、あたたた……こ、腰が!」
コーメット、床に四つ這いになって震えているラングに駆け寄り、手を貸す。
「シャルドネ、もっと、やさしく……あたた」
「先生、しっかり! うー、椅子を! こっちに!」
「はっはい! 椅子です!」
「つつつ……。シャルドネ、すまないけれど、その戸棚にある瓶を取っておくれでないかい。小さな薬丸が入っている瓶だよ」
「これですか!? はい、どうぞ!」
「ありがとね」
ラング、薬丸を数粒飲み込み、目を閉じてしばらく深呼吸を繰り返す。
コーメットはラングの腰を優しくさすっている。
うーはおろおろもたもたしている。
「……ふう。ありがとうシャルドネ。もう大丈夫さ。ええと、ウフアラネージュだったかね?」
「は、はい!」
「うん。お前さんも、まあちょっと座りなさい。あたしの目の前にきなさい」
「はい! 失礼しまっす!」
「うんうん。……そうか、やっぱり……」
「先生? 何かご存知なのですか?」
「うん……。ウフアラネージュよ。お前さん、『パートブリゼ』という名前を存じないかね?」
「!!」
ラングの問いかけに、うーの耳がピクピクと激しく反応した。
途端、うーの体の周りに、長年掃除のしない暖炉にこびりついた煤のような、真っ黒い煙がじりじりと湧き出した。
「あっ! あの時の!」
コーメットは見覚えのある魔法の黒影に、思わず声を上げた。
魔法でできた煙はうーの頭の上に伸びて、人のシルエットを形作る。
天井の照明まで届かんばかりに伸びたが、すぐ手前でピタリと止まった。
すると次には、影が途中で折れ、かがむような形に変わる。
顔のような部分を、ゆっくりとラングのほうへ近づけてゆく。
「せ、先生! 危ない!」
慌てるコーメットを尻目に、ラングは落ち着き払っている。
「大丈夫さ、シャルドネ。心配しておくれでないよ。こいつはね、直接は人をどうこうできる類のものではないんだよ。こうやって、覗き込んでくるくらいのもんさね」
「そ、そうなのですか……ひっ」
黒影はのろのろのろと振り返り、ラングのもとから頭をもたげて、コーメットのほうへ向いた。
するすると、地を這う蛇の様相で空を滑るように移動し、コーメットのほうへやってくる。
ラングのときのように、コーメットの顔を覗き込みにくる。
コーメットはラングの言葉を信じ、ギュッと目を閉じてじっと息を潜める。
が、黒影から発せられる、チリチリとした冷たい波動が頬を撫でるたびに恐怖が湧き上がり、コーメットは胴震いと歯鳴りを抑えることができなかった。
「……パートブリゼちゃんは……学校の、おともだちです……」
うーの声には、いつもの彼女が持つような、元気さが全く抜けていた。穴の空いたふいごのように、か細く弱々しい。
黒影はコーメットの鼻先からスッと離れて、うーの頭上に戻る。
風に吹かれるロウソクの炎の頼りなさで、天井を舐めるように、ゆらゆらと揺らめいている。
ラングの目元のシワが伸び、黒い瞳が現れる。
ラングがうーの表情をじっと覗きこむ。
「最近はパートブリゼに、いつ会いなさった?」
「いえ、お会いしていません。学校を卒業してからは……」
「そうかい、そうかい。やはり……あの子は……。シャルドネよ」
「は、はい」
「迷惑をかけたわねぇ……」
「えっ? と、申されますのは……?」
「この呪術はね……あたしの娘のものさね」
「……えっ!? 先生の!?」
と、黒影の頭に、うさぎの耳を模したような2つのでっぱりが、ぴょこりと生えてきた。
黒影は首だけくるりとコーメットに振り返ると、にったりと笑ったように見えた。
なぜ自分のほうを見るのだろうかと、黒影の視線にビクつくコーメット。
「話すと長くなるよ……。その前に、ちょいとお茶でもいれようでないかね。シャルドネや、すまないが手伝っておくれでないかい。あたた、まだ、腰がね……」
「わたしがご用意いたします。先生、どうぞ楽になさっていてください」
「すまないね。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかね。……さあ、何から話せばいいかしら」
ラングはまるで成長した我が子と久しぶりに再開したような、懐かしさと慈しみにあふれた表情で、黒影を見つめる。
黒影は、頭に生えたウサギの耳をぐるぐるとDNAの螺旋形にねじったりして遊びながら、くたびれたリーサラのオッサンがヤニ臭い息を吐きながら目の前を通り過ぎる女子高生の乳や太ももをスポーツ新聞越しにねぶり見るのと同種の視線で、机に茶器を並べるコーメットの姿を追いかけ、ニヤニヤしている。
コーメットは黒影の視線の恐怖に、心拍数を平常の3倍程度に早めながら、カップを並べる指先が震えないように必死だ。
うーは下を向いてもじもじしている。
ラングがうーを安心させるように、うーの膝頭をポンポンと優しく叩き、さすった。
「……この子は『黒い魔女』。ある村に伝わる、【係累術】だよ。この子の役目は、村人たちに大きな不幸が訪れないようにする、いわば贄。何百年も前から、伝わる呪術さね――」
【係累術】とは、親から子供、子どもから孫へと、代々に受け継がれていく特別な魔術のことをいう。
★
(数時間前 法都領土の最果ての、とある農村 パートブリゼ邸宅)
髪の長い女性。透き通るほどに白い腕を伸ばして、両開き窓をさわやかに開け放つ。
彫像と見間違うほど整った顔立ちで、白い歯を覗かせて満面の笑顔をつくる。
彼女は語りかける。世界の万物とさわやかに会話をしてのける。
彼女はパートブリゼ。世界中の幸福を一身に浴びる、世界一幸福な魔女だ。
「おはよう! おはよう、お日さま!」
「さんさん(やあ、おはよう! パートブリゼ! 今日も素敵にきれいだね!)」
「うふふ、ありがとう! おはよう、小鳥さんたち!」
「チュンチュン(おはよう、パートブリゼ! 今日も素晴らしい声ね! あとで一緒に歌いましょうよ!)」
「ええ、よくってよ! おはよう、花たち! おはよう!」
「さわさわ(おはよう、パートブリゼ! 今日も美しい姿ね、嫉妬しちゃうわ!)」
「そんなことないわ、あなた達のほうがずっときれいよ! おはよう、おはようポチ!」
「わんわん! (おはよう、パートブリゼ! とってもいい天気だよ! あとでお散歩に行こうよ!)」
「いいわよ! 大樹の根本まで、競争しましょう! 今日はきっと負けないって気がするの!」
パートブリゼ、胸元に両手をおいて目を閉じる。
「ああ、今日も素敵な一日が始まるのね! 幸せでいっぱいの一日が! 素敵ね!」
「パートブリゼ様」
背後から声が掛かる。
振り返ったパートブリゼの目の前には、剣を腰に佩いた男が1人居る。
彼を見とめたパートブリゼは目を細め、頬を僅かに紅く染める。
「ウォルフラマイン! おはよう! あなたは今日も……その」
「はい。いかが致しましたか」
「な、なんでもないわ! なんでも! うふふっ! ウォルフラマイン! 今日も、わたしを守ってね!」
ウォルフラマインはパートブリゼの足元に跪くと、彼女の手をとって甲にくちづけした。
彼は、パートブリゼの騎士だ。
「私の御霊の全てを、パートブリゼ様に……」
「うふふっ! ありがとう! 素晴らしい、今日も素晴らしい一日が始まるわ!」
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パートブリゼの体内には、強力な吸引力をもった渦がある。魔法でできた渦だ。
渦は、この世界の吉凶から『幸せ』だけを選んで吸い寄せ、パートブリゼに集める。
『幸せ』はあらゆる生命に宿されている運命の一つだ。
人にも動物にも、一寸の虫にも五分の幸せがある。
パートブリゼは他者の『幸せ』を自分に寄せ集めている。
この世界は3年ほど前から、パートブリゼを中心に、より多くの幸福な出来事が起きるようになっている。
彼女に近づけば近づくほど、穏やかで愛と平和にあふれる世界が訪れる。
逆に彼女から遠ざかるほど、憎しみや暴力や貧困により、荒れた世界が広がる。
「この世の中の、不幸なものやことがらが、けっしてわたしに寄り付かないように」
パートブリゼは今日も世界中から幸せを吸い寄せるため、天に向かってお祈りする。
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【幸福収奪渦・ラッキーソウル】はパートブリゼにあらゆる幸福を集め続ける。
目的は、彼女の元に『黒い魔女』が舞い戻ってこないように。
ただその一点に尽きる。
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