第6話 初陣
宿場を出て半日ほど歩いたところで、前方に人だかりができていた。
街道の端に村人らしき男女が数人、北の山の方角を見ていた。顔が青かった。子供を後ろに隠している者もいた。
グリムが足を止めた。
「何があった?」
一番手前にいた男が振り返った。
「化け物だ。昨夜、隣村が襲われた。今夜はこの村に来るという話だ」
「隣村はどうなった?」
「逃げた者は助かった。逃げ遅れた者は——」
男は言葉を切った。
ナナは北の方角を見た。山の稜線が見えた。昨夜、地図に落とした情報と照らし合わせた。
(距離が近い。昨夜より行動範囲が広がっている)
「この村に来るというのは、誰の話ですか?」
ナナが聞くと、男が振り返った。子供が聞いていたことに少し驚いた顔をしたが、答えた。
「隣村から逃げてきた老人が言っていた。あの化け物は一度嗅いだ匂いを忘れない。人の匂いを追ってくると」
(嗅覚で追跡する。前魔王から聞いた話と一致する)
グリムがナナを見た。
「聞いたか?」
「はい」
「どうする?」
村人たちも、なぜかナナを見ていた。子供に聞く話ではないと思っているはずなのに、それでも見ていた。
北の山を見た。空はまだ明るい。夜まで時間がある。
(地形を確認する必要がある)
「村の北側を見せてもらえますか? 街道から山に向かう方角です」
村長らしき男が前に出た。
「何をするつもりだ?」
「罠を仕掛けます」
男は一瞬、黙った。
「お前が?」
「はい」
男はグリムを見た。グリムは少し間を置いてから、
「こいつの言う通りにした方がいい。俺が保証する」
と言った。
村の北側に出た。
街道から外れると、すぐに林が始まった。山に向かって緩やかな斜面が続いていた。木々の密度は高くない。開けた場所もある。
地面を見ながら歩いた。足跡を探した。
あった。
大きな足跡だった。昨夜のものではない。もっと古い。だが方向が一定だった。山から降りてくる同じルートを、何度も使っている。
(習性だ。同じ道を使う。なら、そこに罠を置けばいい)
問題は、猪の罠と話が違うことだった。相手の重量が桁違いだ。普通の罠では意味がない。
(魔法と組み合わせる)
地形を確認した。足跡のルートの途中に、左右を木々に挟まれた狭い場所があった。幅が5人分ほど。通り抜けるには必ずそこを通る。
(ここだ)
前魔王に聞いた。
(風魔法で音を出せるか?)
『出せる。何を考えている?』
(音で誘導する。狭い場所に引き込んで、そこで足を止める)
『足を止めるとはどうやって?』
(地面に穴を掘る。落とし穴だ。サイクロプスの重量なら、地面が抜ける深さがあれば動けなくなる)
少し間があった。
『……土魔法は使ったことがあるか?』
(ない)
『ならば今日が初めてになるな』
(問題ないか?)
『問題だらけだ。他に手はあるか?』
(ない)
『ならば問題ない。やれ』
呆れたような声だったが、止める気はないらしかった。
グリムを呼んだ。
「落とし穴を掘ります。手を貸してください」
「俺が?」
「あなたの力が要ります。私の魔法で土を動かしますが、形を整えるのに人手が必要です」
グリムは少し考えてから、頷いた。
「深さはどのくらいだ?」
「膝まで埋まれば十分です。足を取られて動けなくなれば」
「なるほど」
レンも無言で加わった。
穴を掘りながら、土魔法を試した。
意識を地面に向けた。土を動かすイメージ。押しのけるのではなく、掻き出すように。
土が動いた。
思ったより素直に動いた。炎や水とは違う感覚だった。重い。だが確実に応える感触があった。少しずつ、穴が広がっていった。
消耗が思っていたより早かった。
土魔法は出力が大きい分、消費される速度も速い。穴を広げるたびに、頭の奥がわずかずつ重くなっていった。気づかないほどの積み重ねだった。だが確実に、何かが減っていた。
グリムが掘った土を運び、レンが枝と草で穴の上を覆った。踏めば崩れるが、見た目には分からない。
1時間ほどで形になった。
次に、穴の周囲に細い縄を張った。村から借りた縄だった。地面すれすれの高さに、足元に気づきにくい角度で張る。サイクロプスが穴に落ちたあと、暴れて縄に足を絡ませれば、さらに動きが鈍る。
(これで足は止められる)
問題は、そこからだった。
「グリム」
「何だ?」
「足を止めたあと、私が魔法で攻撃します。ただ、今の私は制御が安定していません。外れた魔法があなたに当たる可能性があります」
グリムは少し黙った。
「正直だな」
「事実を言っています」
「……で、俺に何をしろと?」
「距離を取って、私が倒れたときの備えをしていてください。戦闘には参加しなくていいです」
「参加しなくていい、か」
グリムは苦い顔をした。だが、反論はしなかった。右肩に触れた。
「分かった。だが、お前が倒れそうになったら引っ張り出す」
「はい。それで構いません」
レンが静かに言った。
「俺は?」
「村人を後方に下げてください。戦闘が始まったら、誰も前に出ないように」
レンは頷いた。それ以上は聞かなかった。
夜になった。
村人たちは家の中に入った。明かりを消して、息を潜めていた。
ナナは落とし穴の手前、木の陰に立った。風がある。山から下りてくる風だった。匂いを運ぶ。
待った。
静かだった。虫の声がしていたが、それも少しずつ消えていった。動物が何かを感じ取ったのかもしれない。森全体が息を止めているような静けさだった。
30分ほどして、音が聞こえた。
最初は風の音だと思った。違った。もっと低い。地面の底から来るような、規則的な振動だった。
足音だった。
1歩ごとに地面が揺れた。微かだったが、足の裏に伝わってきた。次の1歩。また揺れた。近づいてくるたびに、振動が大きくなった。
木々の間に、影が見えた。
(大きい)
頭では分かっていた。身の丈は3人分、と聞いていた。昨夜、地図を描きながら数値として処理していた。
だが実際に見ると、それが別の意味を持った。
木が邪魔だった。腕で払いのけた。人間の身体ほどの太さのある木が、音もなく折れた。折れた木が地面に落ちて、初めて音がした。それだけだった。一撃で、何事もなかったように。
足が1歩、地面を踏んだ。地面が沈んだように見えた。
(本当に、これをどうにかするつもりか)
自分で立てた計画だった。それでも、目の前のものを見ていると、その問いが出てきた。
腹の底に、冷たいものが溜まっていった。
恐怖だった。
認めた。認めた上で、呼吸を整えた。恐怖があっても、手は動く。前世でそう学んだ。恐怖は消えないが、脇に置くことはできる。
(脇に置け)
影が足跡のルートに入った。落とし穴に向かって、一直線に進んでいた。
一つ目が、ぎょろりと動いた。周囲を見回した。鼻が動いた。人の匂いを追っているのだろう。
(そのまま来い)
風魔法を使った。
狭い場所の向こう側——落とし穴より奥から、低く唸るような音を出した。風を絞って音に変えた。獣が唸るような音だった。
サイクロプスが止まった。
一つ目が、音の方向に向いた。首を回した。距離が掴めていないのだろう、しばらく動かなかった。
一歩、踏み出した。
また一歩。
落とし穴の縁に、巨大な足が乗った。
地面が崩れた。
巨体が傾いた。腕が空を掴んだ。低い、腹に響く唸り声が上がった。片足が穴に嵌まり、体勢が崩れて膝をついた。地面が揺れた。木の陰で立っていたナナの足元まで、その振動が来た。
(今だ)
木の陰から出た。
距離は10歩分ほど。近い。近すぎると思ったが、この距離でなければ制御できない。
両手に炎を集めた。
できる限り密度を上げた。絞って、固めて、狙いを定めた。嵌まった足だ。動きを止める。殺す必要はない。動けなくすれば、村は守れる。
サイクロプスがこちらを見た。
一つ目と、目が合った。
黄色い目だった。大きかった。人間の頭ほどの大きさがある目が、まっすぐこちらを見た。知性があるのか、ないのか、分からない目だった。ただ、そこに映った自分が、どれだけ小さいかは分かった。
放った。
炎の塊が飛んだ。10歩の距離を瞬時に渡った。弧を描いて穴に嵌まった足の甲に直撃した。
サイクロプスが叫んだ。
耳が痛くなる声だった。頭の奥まで刺さるような、圧のある叫びだった。反射的に後退りしそうになった。踏みとどまった。縄に足が絡んだ。さらに体勢が崩れた。穴の縁が崩れて、嵌まった足がさらに深く沈んだ。
(もう一度)
もう一度、炎を集めた。
その瞬間だった。
頭の奥が、熱くなった。
魔力が、どこかで閾値を超えた。土魔法で削られた分、風魔法で使った分、そして今の炎——積み重なった消耗が、一気に噴き出してきた。手のひらの炎が膨れ上がった。想定の倍以上の大きさになっていた。抑えようとした。抑えられなかった。
このまま放てば、狙いが外れる。いや、それどころか——
(放すな。だが持てない)
矛盾した判断が一瞬、頭を占めた。
手のひらが焼けるように痛かった。
放した。
炎が暴発した。
狙いは完全に外れた。穴の縁が大きく抉れた。近くの木が幹から燃え上がった。火の粉が散った。爆発的な熱が顔に当たった。
それだけではなかった。
暴発した瞬間、周囲の空気が変わった。草が一斉に凪いだ。風が止んだ。それから——重さが来た。何か大きなものが、そこにいるような重さが、ナナを中心として広がった。一瞬だけ。そして消えた。
サイクロプスが、動きを止めた。
穴に嵌まったまま、こちらを見ていた。叫ぶのをやめていた。さっきまで暴れていた腕が、止まっていた。
それが一瞬だけ続いた。
それから、サイクロプスが後退り始めた。
嵌まった足を引き抜いた。縄が絡んだまま引きずった。足を引きずりながら、体の向きを変えた。山の方向を向いた。
逃げていた。
走っているわけではなかった。ただ、確実に遠ざかっていった。木を踏み倒しながら、叫び声を上げながら。その声が、さっきとは違った。痛みの叫びではなかった。もっと違う、何か別のものが混ざっていた。
足音の振動が遠くなった。木々の揺れが遠くなった。叫び声が小さくなった。
そして、静かになった。
虫の声が戻ってきた。
視界が白くなった。
膝をついた。
地面が冷たかった。頭が重い。目の焦点が合わなかった。
「ナナ!」
グリムの声がした。走ってくる足音がした。
隣にしゃがむ気配がした。肩を掴まれた。
「生きてるか?」
「……生きています」
「立てるか?」
「少し待ってください」
グリムは何も言わずに、肩を支えたまま待った。
呼吸を整えた。視界が少しずつ戻ってきた。
グリムが、少し硬い声で言った。
「さっき、一瞬、お前の周りが変だった」
「変、というのは?」
「うまく言えない。空気が重くなった、というか。お前じゃないものが、そこにいるような——」
グリムは言葉を探すように黙った。
「気のせいかもしれないが」
「……魔法の余波だと思います」
嘘ではなかった。ただ、全部ではなかった。
(何が起きた?)
『我の残滓が表に出かけた。魔力が制御を失ったときに滲み出ることがある』
(それが、あの化け物が逃げた原因か?)
『おそらくな。本能で感じたのだろう』
(……厄介な力だ)
『そうだな。使いこなせれば強力だがな』
グリムは少し黙ってから、
「そうか」
と言った。それ以上は聞いてこなかった。
立ち上がろうとした。足が笑っていた。グリムが腕を掴んで引き上げた。
レンが近づいてきた。こちらを一度見て、それから山の方角を見た。それだけだった。
村に戻ると、村人たちが出てきた。
老人が頭を下げた。女が泣いていた。子供が遠巻きにこちらを見ていた。
ナナは村長を探した。
「完全には倒せていません。また来る可能性があります。北側の道は、当面避けた方がいいです」
「分かった。だが、今夜は助かった」
「はい」
それだけ言って、借りた小屋に向かった。
足が重かった。頭がまだぼんやりしていた。
グリムが隣を歩きながら、低い声で言った。
「さっきの、魔法の余波。それだけか?」
「……今は、うまく説明できません」
「今は、か」
「はい」
グリムは少し黙った。
「分かった。今は聞かない」
それだけだった。
小屋に入った。藁の上に座った。
手のひらを見た。赤くなっていた。炎が暴発したとき、跳ね返りを受けていた。以前のときより、ひどかった。
(制御が、まだ足りない)
土魔法の消耗を甘く見ていた。複数の属性を連続して使えば、消費速度が上がる。次からは計算に入れる。
次は上手くやれる。
目を閉じた。
怖かった。追い払えた。完璧ではなかった。
3つとも、本当のことだった。
それだけを確認して、眠った。




