第2話 森の中の軍人
夜明けまで歩いた。
正確には、歩き続けようとした。30分もしないうちに足が限界を訴えてきた。子供の脚は思っていたより短く、思っていたより疲れやすかった。根に躓いて転んだのが3回。木の枝に顔をぶつけたのが1回。そのたびに少年が無言で引き起こした。助けを求めたわけではなかった。少年がただ、自然にそうした。
それが少し、癪だった。
(前世では山岳行軍も余裕でこなしたのに)
余裕でこなした身体は、今はどこにもなかった。
夜が白み始めた頃、木々の密度が変わった。少し開けた場所に出ると、崩れかけた石壁が見えた。かつて建物だったものの残骸だった。屋根の半分が落ちて、壁の一面は蔦に覆われていた。それでも3方向を壁で囲まれた角の部分だけは、雨風を凌げそうだった。
立ち止まって確認した。人の気配はない。動物の痕跡も、直近のものは見当たらなかった。
(ここでいい)
廃屋の角に入った。地面に座り込んだ。膝が笑っていた。
少年も黙って壁に背をつけて座った。
しばらく、2人とも無言だった。鳥の声が聞こえ始めていた。森が明るくなっていった。
その静けさの中で、また何かが流れ込んできた。
今度は言葉ではなかった。名前だった。
ナナミア、と。
誰かの声ではなかった。頭の奥から浮かび上がってくるような、滲み出てくるような感覚だった。この身体の名前だ、と分かった。前の主が持っていた名前。自分のものではない。
だが、捨てる必要もないかもしれない。
(ナナ、でいい)
全部は要らない。前半の2文字だけ借りる。この世界で自分を呼ぶための名前として、それで十分だ。
「名前は?」
少年が言った。
「ナナです」
少年は少し間を置いた。
「レンだ」
それきり、また黙った。
眠れなかった。
疲れてはいた。目を閉じると意識が沈みそうになった。だが眠れなかった。頭の奥がざわついていた。
昨夜から断片的に流れ込んでくるものが、まだ続いていた。
言語の知識は最初に来た。次に通貨と物価が来た。それから地理の輪郭が来た。どれも「知っている」という感覚ではなく、「思い出した」という感覚に近かった。自分が経験したわけでもないのに、記憶として馴染んでいく。
気味が悪いのは変わらなかった。
使えるものは使う。それは染み付いた判断だった。
地理の断片を整理した。この森は大陸西部の山岳地帯に近い。近くに人の集落がある。距離は正確には分からないが、遠くはないはずだった。
(水が要る)
口の中が乾いていた。食料より先に水だ。人間は水なしでは3日と持たない。子供の身体ならもっと早く限界が来るかもしれない。
立ち上がろうとした。足が痛かった。
「動けるか?」
レンが言った。こちらを見ていた。昨夜と同じ目だった。怯えていない。ただ、静かに見ている。
「動けます」
「無理そうに見えるが?」
「無理ではありません。痛いだけです」
レンは少し黙ってから、立ち上がった。
「水場なら知っている。昨日、連行されてくるときに見た」
(……よく覚えていたものだ)
素直に助かると思った。表情には出さなかった。
水場は廃屋から歩いてすぐのところにある小さな沢だった。レンの言った通りだった。
水を飲んだ。冷たかった。身体に染み込んでいく感覚があった。
手のひらを水に浸した。昨夜の魔法で赤くなっていた箇所が、少し和らいだ。
レンが上流で水を飲みながら、こちらを見た。
「昨夜の、あれは何だ?」
「魔法です」
「魔法が使えるのか?」
「使えました。上手くはありませんでしたが」
レンは少し考えるような顔をした。それから、
「お前は何者だ?」
と言った。
前の主と同じ問いだった。
(軍人だった。今は、よく分からない)
頭の中でそう思いながら、口には出さなかった。
「ナナです。さっき言いました」
レンは何かを言いかけて、やめた。それ以上は聞かなかった。
廃屋に戻って、状況を整理した。
持っているものを確認した。着ているものだけだった。武器なし。食料なし。金なし。地図なし。
使えるものを確認した。魔法。前魔王の断片知識。
必要なものを確認した。水は解決した。次は食料。それから人里までの道筋。
手のひらを見た。炎を出してみた。昨夜より小さく、安定していた。消した。次に水を試してみた。空気中の何かを手繰り寄せるように意識を向けると、手のひらに小さな水滴が集まった。
(火だけじゃない)
他の属性も使えるかもしれない。
『当然だ』
頭の中で声がした。前の主の声だった。
(また来たか)
『全属性使えて当然だ。我がそうだったのだから』
(全属性とは?)
『火・水・風・土・雷・光・闇。全てだ。ただし今のお前にはまだ制御できんものもある。無理に使えば暴走する』
(どれが危ない?)
『闇だ。それから——我の力に繋がるものは触るな。まだ早い』
(昨夜は使えと言っていたが?)
前の主は少し間を置いた。
『……あれは、お前を試した』
(試した)
『どう反応するか見たかった。断ったのは正解だ』
悪びれた様子は全くなかった。
(人が悪い)
『我は魔王だ。人がいいわけがなかろう』
言葉に笑いはなかった。だが、どこか愉快そうな気配があった。
(待て。魔王、とは何だ?)
『この世界で最も強大な魔力を持つ者に与えられる称号だ。我はその7番目だった』
(7番目。つまり他にもいる?)
『6人いる。それぞれが国を持ち、軍を持ち、領地を持つ。お前はその後継者だ』
少し間があった。
(……後継者)
『驚かんのか』
(驚いている。ただ、今すぐ処理できる情報量を超えた)
『正直な奴だ』
(整理する時間をくれ)
『好きにしろ』
前魔王は黙った。ナナも黙った。しばらく、その重さだけがあった。
(分かった。では今は、闇と、あの扉には近づかない)
『賢い。今は火・水・風あたりを地道に慣らせ。急ぐな』
それきり、声は消えた。
夕方になった。
レンが森の中から木の実をいくつか持ち帰ってきた。毒のないものを選んだと言った。どこで覚えたのかは聞かなかった。
並んで食べた。味はほとんどなかった。それでも胃が少し落ち着いた。
「明日、人里を探します」
ナナが言うと、レンは頷いた。
「方角は分かるのか?」
「大体は」
「大体か」
「大体です」
レンは短く息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
夜が来た。
今夜は眠れそうだと思った。身体が限界を訴えていた。子供の身体は正直だった。疲れたら眠る。
目を閉じる直前、前の主の言葉が頭の中に残っていた。
——お前のような者を待っていた気がする。
(100年、待っていたのか)
答えは来なかった。
ナナは目を閉じた。
知らない森の廃屋で、知らない少年の隣で、元軍人は眠った。




