第12話 魔王概論
翌朝、グリムとレンに話した。
「魔法使いギルドに用があります。1人で行ってきます」
グリムが少し目を細めた。
「昨夜の話か。街を歩いていたと言っていたが」
「はい。ギルドマスターに会いました。渡したいものがあると言われました」
「危ないものじゃないのか?」
「分かりません。ただ、悪意のある人間だとは思いません」
グリムは少し黙った。
「……いつ戻る?」
「昼までには戻ります。戻らなければギルドに来てください」
「分かった」
レンは何も言わなかった。ただ、弓を手に取った。
「置いてください。街の中です」
レンが弓を戻した。
魔法使いギルドに着いたのは朝の早い時間だった。
扉を開けると、エリスがいた。昨夜と同じカウンターにいたが、今朝は本を読んでいなかった。ナナが入ってきたのを見て、立ち上がった。
「おはよう。ナナさん」
「おはようございます」
「師匠が待っています。こちらへ」
エリスがカウンターの横の扉を開けた。それから少し迷うような顔をして、小声で言った。
「昨夜、師匠がナナさんを呼んだあと——師匠、ずっと部屋で本を読んでいたようです。夜通し、だと思います」
「何かを調べていたのですか?」
「多分。ただ、師匠が夜通し本を読むのは、本当に久しぶりで」
エリスが少し口をつぐんだ。
「私から言えることはそれだけです。どうぞ」
扉の奥に廊下があった。突き当たりに扉があった。ノックした。
「入りなさい」
マルセルの声がした。
部屋は書斎だった。
壁一面に本棚があった。机の上に本が積み上がっていた。何冊かは開いたままだった。羊皮紙に書かれた古い文字が見えた。
マルセルが机の前の椅子に座っていた。目の下に隈があった。エリスの言った通り、夜通し起きていたのだろう。
「来たか。座りなさい」
向かいの椅子に座った。
マルセルが机の上を少し整理した。本を端に寄せた。その下から、2つのものが出てきた。
1つは本だった。古い本だった。表紙に文字が書いてあった。
「魔王概論」
もう1つは小さな革袋だった。
マルセルが両方をナナの前に置いた。
「受け取ってくれ」
ナナは革袋を手に取った。中を開けた。
指輪が入っていた。
細い指輪だった。黒い石がはまっていた。石の中に何かが閉じ込められているような、深い黒だった。
前魔王が言った。
『……我の指輪だ』
声が、いつもと違った。低く、静かだった。
「これを、なぜあなたが持っているのですか?」
マルセルに聞いた。
「100年前、前第七魔王が滅ぶ直前に——ある人物に預けた。その人物からその子へ、その子からまた次へと受け継がれて、最終的に私のところに来た」
「その指輪が何か、知っていたのですか?」
「知っていた。魔王の器が現れたとき、渡すように言い伝えと共に受け取った」
ナナは指輪を見た。
(はめていいのか?)
『……お前のものだ。我のものだったが、今はお前のものだ』
左手の中指にはめた。
少し、何かが変わった気がした。魔力の感触が、わずかに落ち着いた。扉のような何かが、少し遠くなった感じがした。
(これが指輪の効果か)
『暴走を遅らせる。それだけだ。外すな』
「本の方は?」
マルセルが魔王概論を指した。
「前第七魔王が書いた記録だ。歴代の魔王のことが書いてある。魔王とは何か、どういう存在か、過去の魔王たちがどう生き、どう滅んだか」
「前魔王が書いたのですか?」
「そうだ。渡す相手のために書いた、と聞いている」
前魔王が言った。
『……そうか。我の記録が残っていたか』
静かな声だった。感慨のような、あるいは安堵のような。
(書いたのを覚えているのか?)
『断片的にだが。次の器に伝えなければならないことがあった。書かなければ忘れると思った』
(何を伝えたかったのか?)
『読め。我が言うより、書いた言葉の方が正確だ』
ナナは本を手に取った。表紙を開いた。最初の1行を読んだ。
古い書き方だったが、読めた。
「これを読む者へ。お前は今、途方に暮れているだろう。それでいい。途方に暮れるだけの状況にある」
ナナは少し間を置いた。
(確かに途方に暮れている)
前魔王がまた言った。
『……我ながら、正直な書き出しだな』
珍しく、照れているような声だった。
マルセルが言った。
「急いで読まなくていい。ただ、できれば早めに目を通してほしい。その本に書いてあることは、君が知っておくべきことだ」
「分かりました」
ナナは本を閉じた。マルセルを見た。
「1つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「あなたは、魔王について何のために調べているのですか?」
マルセルが少し間を置いた。
「100年前、前第七魔王が滅んだとき、私の師匠がその場にいた。師匠はその魔王が滅ぶ様子を見て、ひどく後悔した。もっと早く動けば救えたかもしれないと」
「師匠から聞いたのですか?」
「死ぬ前に話してくれた。それが私がこの仕事を続けている理由の1つだ」
マルセルが窓を見た。朝の光が入っていた。
「100年前の魔王は、誰にも理解されないまま滅んだ。次の魔王が現れたとき、同じことを繰り返したくなかった」
ナナは少し黙った。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない。ただ君が現れてくれて、良かった」
マルセルが立ち上がった。
「もう1人のことだが」
「はい」
「その者はまだそこにいるか?」
(前魔王)
『……いる』
「います」
「伝言がある。師匠から預かった言葉だ」
マルセルが少し間を置いた。それから言った。
「『今度こそ、生き延びてくれ』」
ナナは前魔王を感じた。
何も言わなかった。
ただ、何かが揺れた。100年間、ずっとそこにあったものが、少しだけ揺れた気がした。
(前魔王)
返事がなかった。
(聞こえているか?)
『……聞こえている』
それだけだった。
ナナはマルセルを見た。
「伝わりました」
「そうか」
マルセルが再び座った。急に疲れたように見えた。年齢が出た顔だった。
「また来なさい。リーベンスに来ることがあれば」
「はい」
「その本に分からないことがあれば、聞きに来てもいい」
「ありがとうございます」
ナナは立ち上がった。本と指輪を持った。
「1つだけ」
扉に向かいかけて、振り返った。
「マルセルさんは、私が魔王だと知っていて、怖くないのですか?」
「怖いかどうかより、やることがあるかどうかの方が先だ。君と同じだろう」
ナナは少し間を置いた。
「そうですね」
扉を開けた。
廊下に出ると、エリスが壁に寄りかかって待っていた。ナナを見て、少し安堵したような顔をした。
「終わりましたか?」
「はい」
「師匠、怖くなかったですか?」
「怖くなかったです」
「良かった。師匠、見た目は怖いんですよね——」
エリスが少し笑った。
「また来てください。私、魔法の話がしたいです。4属性って、本当にすごいので」
ナナは少し間を置いた。
「また来ます」
「約束ですよ」
「はい」
ギルドを出た。
朝のリーベンスは静かだった。市場がまだ開いていない時間だった。
ナナは左手を見た。指輪が光を受けていた。黒い石が、深い色をしていた。
(前魔王)
『何だ』
(「今度こそ、生き延びてくれ」という言葉。どう思った?)
少し間があった。
『……重かった』
(そうか)
『100年間、誰かが覚えていてくれるとは思わなかった。我は、そういうものだと思っていた』
(孤独だったのか)
『……多少はな』
前魔王はそれきり黙った。
ナナは宿に向かった。
グリムが宿の前で待っていた。腕を組んで壁に寄りかかっていた。ナナを見て、短く言った。
「無事か?」
「はい」
「何をもらったんだ?」
グリムが左手を見た。
「その指輪、さっきはなかったな?」
「ギルドで買いました」
「……魔法使いギルドで指輪を売るのか?」
「魔力に関係するものを扱っているそうです」
グリムは少し間を置いた。それ以上は聞かなかった。
「分かった」
グリムが宿の扉を開けた。
「飯にしよう。レンが待ってる」
ナナは頷いた。
受け取った本は荷物の中にしまってあった。帰り道で読む。
宿の中に入った。
左手の指輪が、朝の光を受けて静かに光っていた。




