第1話 奴隷の地より
最初に気づいたのは、匂いだった。
腐った藁と、錆びた鉄と、人間の汚れが混ざりあった匂い。収容施設の匂いだ、と思った。視察で一度だけ嗅いだことがある。あのときは外から入って、すぐに外へ出た。今は、その中にいる。
目を開ける前に、音を聞いた。複数の寝息。鎖の音。遠くで誰かが歩いている。規則的な足音。
目を開けた。
石造りの天井。格子の影。月明かり。
起き上がろうとして——止まった。
重心がどこにあるか分からなかった。腕に力を入れると、腕が短すぎて床を押せなかった。首を動かすと、頭が遅れてついてくるような感覚があった。なんとか上体を起こして、自分の手を見た。
小さかった。
子供の手だった。10年間使い込んだ、あの手ではなかった。射撃で荒れた指先も、懸垂で固くなった掌も、何もなかった。代わりにあるのは、薄い爪の、細い、小さな手だった。
しばらく、その手を見つめた。
私は死んだはずだった。
最後の任務のことは覚えている。作戦は単純だった。目標地点の確保。小隊を率いて前進した。そこまでは覚えている。次の瞬間に白い閃光があって、それ以降は何もない。
何もない、はずだった。
なのに今、息をしている。
知らない天井がある。知らない匂いがある。知らない手がある。
(死んで、どこかに来た?)
そう結論づけようとして、頭が拒否した。そんなことはあり得ない。死んだら終わりだ。訓練でも、現場でも、誰もそれ以外のことを言わなかった。死んだら終わりで、その先はない。
でも、息をしている。
胸の奥で何かが崩れるような感覚があった。混乱とも悲しみとも違う、もっと根本的な何かだった。自分が何者であるかという確信が、どこか遠いところへ行ってしまったような。
深呼吸を1つした。
今は動くことだけを考えろ。
周囲を確認した。檻の中に、自分を含めて7人いた。全員子供だった。汚れた布を纏い、首や手首に拘束具をつけて、皆眠っていた——1人を除いて。
少年だった。
隅に座って、こちらをじっと見ていた。年は17、8といったところか。痩せていた。頬がこけて、肋骨の浮いた腕に拘束具が食い込んでいた。だが目が違った。怯えていない。ただ、静かにこちらを見ていた。
目が合った。少年は何も言わなかった。視線を外さなかった。
(……最初から起きていたのか?)
今は無視することにした。状況の確認が先だ。
手首の拘束具を触った。革の帯。辿ると鉄の環。足首も同じ。床の鉄杭から鎖が伸びていた。
脱出の手段を考えようとしたとき——頭の奥から何かが滲んできた。
言葉だった。知らない言語なのに、意味が分かった。文字の形が浮かんできた。地名、通貨、社会の仕組み。それから——魔法という概念が、知識として流れ込んできた。
気味が悪かった。
自分の頭の中に、別の誰かがいる。そういう感覚だった。自分と、自分でない何かが、境目なく混ざっていくような。
そのとき、声が聞こえた。
頭の内側から聞こえた。外からではなかった。
『目覚めたか』
幼い声だった。子供の声だ。なのに言葉の重さが違った。年老いた何かが、子供の喉を使って話しているような。
(……誰だ?)
『我はこの身体の、前の主だ』
沈黙があった。
『驚かんのか』
(驚いている。声に出す余裕がないだけだ)
『そうか』
短い間があった。値踏みするような間だった。
『お前は何者だ?』
(軍人だった。今は、よく分からない)
正直に答えると、前の主はまた少し黙った。
『軍人。戦う者か。ならば話が早い』
そう言って——頭の中に何かが流れ込んできた。
魔法の構造だった。火を呼ぶ方法。水を動かす方法。風を束ねる方法。知識として、一気に入ってきた。そしてその奥に——もっと別の入り口があった。魔法ではない。もっと根源的な、大きくて暗い力への道筋。
『さあ、それを使え。今すぐ解放すれば、この程度の檻など——』
(待て)
遮った。
扉のようなものが、頭の中にあると分かった。それを開ければ何かが出てくる。大きな力が出てくる。でも——それが何なのかを、まだ理解していなかった。理解していないものを使うのは危険だ。
(それが何かを理解してから使う。今は魔法だけ教えろ)
沈黙があった。今度は長い沈黙だった。
『……頑固な奴だ』
声は呆れたように言った。幼い声なのに、酷く疲れた響きがあった。100年分の疲労が、その短い言葉に滲んでいるような。
『いいだろう。今は好きにしろ。だが覚えておけ——いつかその扉を開けなければならない日が来る』
それきり、声は聞こえなくなった。
手のひらに意識を向けた。
熱が来た。腹の底から背骨を伝って、手のひらに集まってきた。こんなものが自分の中にあったのか、という驚きと、これから使うのだという緊張が同時にあった。
小さな炎を作ろうとした。
熱かった。想像より、ずっと熱かった。慌てて手を引いた。指先が赤くなっていた。
(……やり直し)
もう一度。今度はもっと小さく。鍵穴を焼くだけの、それだけの火を。
ゆっくりと熱を呼んだ。橙色の炎が、手のひらの上で揺れた。
鍵穴に近づけた。革帯の繊維が焦げる匂いがした。隣で眠っている子が身じろぎした。手が止まりそうになった。止めなかった。
パチン、と音がした。手首が自由になった。
足首も同じようにした。今度は少し上手くできた。それでも手のひらには赤みが残った。
立ち上がって、ふらついた。壁に手をついて、ゆっくり立った。
視線を感じた。
隅の少年が、まだこちらを見ていた。何かを期待するような目ではなかった。ただ、静かに観察していた。品定めをするような目だった。
(来るか)
声に出さず、目だけで問いかけた。
少年は一瞬だけ目を細めた。それから、ゆっくりと頷いた。
格子の外の壁に鍵束が掛かっているのが見えた。手を伸ばしたが届かなかった。床の藁束を踏み台にした。今度は届いた。音を立てないようにゆっくり取った。
鍵を3回試した。3つ目で格子が開いた。
少年に手招きした。少年は音を立てずに立ち上がった。自分の足首の拘束具を指さした。
同じようにやった。少年の拘束が外れた。
廊下を進んだ。扉があった。閂を外した。手が震えていた。恐怖なのか魔法の反動なのか、自分でも分からなかった。
扉の外は夜だった。
風が来た。
建物の影に入って、見張りの位置を確認した。2人見えた。視線が重ならない瞬間を待って、走った。
転びそうになった。歩幅が思っていた半分も出なかった。それでも柵まで辿り着いて、よじ登って、向こう側に落ちた。膝が痛かった。
隣で少年が着地した。音が小さかった。慣れている、と思った。
見張りは気づいていなかった。
森へ向かって走った。
木々の中に入ったところで、足が止まった。
息が切れていた。幹に背をつけて、振り返った。
石造りの建物が、月明かりの中に浮かんでいた。
あの中にまだ5人いた。眠っていた。起こすべきだったかもしれない。一緒に連れ出すべきだったかもしれない。でも、この身体で5人を連れて、あの見張りの目を潜り抜けることは、できなかった。そう判断した。
そう、判断したのだ。
それでも胸に何かが残った。名前も知らない。顔もよく見ていない。それでも残った。
(生きていてくれ)
それだけを思って、視線を切った。
少年が隣に立っていた。同じように建物を見ていた。何かを堪えるような顔をしていた。
「……行こう」
少年が言った。初めて声を聞いた。低く、掠れた声だった。
頷いた。
2人で森の奥へ歩き始めた。
知らない星座が、木々の隙間から見えていた。
知らない世界だった。自分が何者かも分からなかった。死んだはずで、子供の身体で、頭の中に別の誰かがいて、魔法が使えた。
何一つ整理がついていなかった。
ただ、頭の中にあの扉があることだけは分かっていた。大きくて、暗くて——まだ開けてはいけないと思った。
隣を歩く少年の足音を聞きながら、少女は前を向いた。




