第九話 証拠は静かに
学術院の勧告が宮廷に届いてから、一週間。
王都が揺れている、という噂が辺境にまで届いた。
◇
最初に動いたのは、宮廷薬師局だった。
勧告を受けて、七対三配合の万能薬を「念のため」回収すると発表した。けれど発表の文面は巧妙だった。「安全性をより確実にするための自主的な品質確認」——危険性を認めたわけではない、という体裁を保っている。
「……上手いですね」
ヴェルトが、行商人から受け取った王都の公報を読み上げた。
「回収はするが、非は認めない。セレスティーヌの名前も処分も出ていません」
「予想通りです。体面を守ることが最優先ですから」
けれど、と私は続けた。
「回収した薬を検証すれば、結果は出ます。学術院が見ていますから、握り潰せない」
◇
二週間後、学術院から第二の書簡が届いた。
今度は私宛ではなく、王国全土の薬局に向けた公式通知だった。
内容は二つ。
一つ目——七対三配合の万能薬に、長期保存による毒性リスクが確認された。即時使用停止を勧告する。
二つ目——同薬の考案者として登録されていたセレスティーヌの申請について、学術院が調査を開始する。
(……動いた)
公報を読む手が震えた。怒りでも喜びでもなく、ただ、長い道のりがようやく形になった実感。
◇
王都からの情報は、断片的に、しかし確実に届いた。
行商人の伝聞。領主間の書簡の噂。そして——師匠からの、包み紙の裏のメモ。
学術院の調査は淡々と進んでいるらしい。セレスティーヌが提出した調合記録と、私が提出した記録。二つを照合する作業。
日付の比較。実験過程の詳細度。そして——筆跡の分析。
師匠のメモにはこう書かれていた。
「調合記録室の原本が照合に出された。あなたの記録が先であることは、日付が証明している」
(……日付が証明している)
ナタリアが言ったことを思い出す。日付のない記録は、記録ではない。
そして、日付のある記録は——嘘をつかない。
◇
調査の結果が公表されたのは、さらに三週間後だった。
学術院院長グレンヴィルの名で発表された報告書。私はその写しを、ヴェルトから受け取った。
報告書の内容は、感情を一切排した事実の羅列だった。
——宮廷薬師局次席セレスティーヌが学術院に提出した調合記録の複数箇所において、先行する研究記録との著しい類似が確認された。
——日付の照合により、リーネ(元宮廷薬師局次席)の記録が時系列上先行していることが認められた。
——七対三の配合比率は、リーネの研究過程における「未検証の仮配合」であり、完成形ではない。これを完成品として申請した行為は、学術院の登録制度に対する重大な不正と認定する。
淡々と。静かに。ただ事実が並べられている。
(……これが、証拠の力だ)
◇
報告書の最後に、勧告が二つ記されていた。
一つ——セレスティーヌの学術院登録をすべて取り消す。
二つ——宮廷薬師局に対し、過去の調合記録の全面的な照合調査を求める。
「全面的な照合調査」
ヴェルトがその部分を読み上げたとき、声が少しだけ震えていた。
「これは——あなたの研究だけではなく、薬師局全体の記録が対象になる」
「ええ。セレスティーヌが横取りしていたのは、私の研究だけではないかもしれない」
「だとすれば」
「薬師局の信頼そのものが問われることになります」
◇
王太子が動いたのは、報告書の公表から三日後だった。
宮廷からの勅令。セレスティーヌを宮廷薬師局次席から解任する。理由は「学術院の調査結果を受けた措置」。
勅令の文面は短く、事務的だった。王太子の名前は署名にあるだけで、個人的な見解は一切含まれていない。
(……体面は、最後まで守るつもりか)
王太子は、自分が間違っていたとは認めない。セレスティーヌを切り捨てることで、自分は「正しい判断をした」という形を作る。
それは予想していた。そしてそれでいい。
私が欲しかったのは、謝罪ではない。記録の正当性だ。
◇
「リーネ」
ナタリアが診療所の入口に立っていた。手に、何かの書類を持っている。
「王都から、あんた宛に正式な書簡が来てるわ。学術院の封印つき」
受け取る。封を切る。
——学術院は、リーネの新規調合法(五対五配合・治癒促進薬)を正式に登録した。登録者名「リーネ」。登録日は、最初の申請日に遡及する。
「……遡及」
最初の申請日。あの夜、ヴェルトと二人で書き写した日付。
(……あの夜の記録が、認められた)
膝の力が抜けそうになって、壁に手をついた。
「ちょっと、大丈夫?」
「大丈夫。……大丈夫」
涙が出そうだったけれど、ナタリアの前では泣きたくなかった。代わりに深く息を吸って、書簡をもう一度読んだ。
◇
その夜、診療所の前のベンチに座っていた。
足音が近づいてきて、隣に誰かが座った。見なくてもわかる。
「——おめでとうございます」
ヴェルトの声だった。
「おめでとう、でいいんでしょうか。まだ終わっていないかもしれません」
「それでも。あなたの名前が、あなたの仕事の上に戻った。それは祝うに値します」
黙って隣に座っている。肩が触れるか触れないかの距離。
星が出ていた。王都では見えない、辺境の澄んだ空。
「……ヴェルト」
「はい」
「あの夜、一緒に書き写してくれて——」
言葉が続かなかった。ありがとう、では足りない気がして。
彼は何も言わなかった。ただ、隣にいた。
それで十分だった。
——翌朝、領都の門に再び馬車が着いた。今度は宮廷の紋章入りではなく、王太子の私紋がついた、小さな使者の馬だった。




