第八話 二つの処方箋
緊急報告書を学術院に送ってから、十日が過ぎた。
返答はなかった。
◇
待つ時間は、長い。けれど待つしかできないわけではない。
私は日常の調合を続けながら、もうひとつの準備を進めていた。かつて宮廷で開発し、セレスティーヌに名前を奪われた処方——その全記録を、時系列で整理し直す作業だ。
調合ノートの日付。使用した薬草の入荷記録。失敗した実験の条件メモ。
すべてを、学術院の書式で清書する。
「これは、何のため?」
ナタリアが訊いた。
「いつか、二つの処方箋が並べられる日が来る。私のものと、あの人のもの。そのとき、どちらが本物か——日付が語るようにしておくため」
「……あんた、怖い人ね。静かに怒る人って」
「怒ってないよ。記録しているだけ」
「それが怖いって言ってるの」
◇
十一日目の朝、領都の門に馬車が着いた。
宮廷の紋章ではない。銀色の紋章——王立学術院のものだった。
馬車から降りてきたのは、一人の老紳士だった。銀縁の眼鏡、穏やかな表情、杖をついた足取り。けれどその目は澄んでいて、鋭かった。
(……まさか)
ヴェルトが隣で小さく息を呑んだのが聞こえた。
「学術院院長——グレンヴィル公爵です」
◇
院長は、領主館の応接室に通された。
私とヴェルトが向かい合わせに座り、院長が中央の椅子に腰を下ろした。従者が茶を出し、退室する。
沈黙。
院長はしばらく茶を啜り、それから銀縁の眼鏡の奥から私を見た。
「リーネ殿。あなたの提出した書類を、すべて読みました」
「ありがとうございます」
「新規調合法の登録申請と、七対三配合の危険性に関する緊急報告。二つの書類が、同じ人物から送られてきた」
「はい」
「率直に訊きます。あなたの目的は何ですか」
(……この人は、正面から来る)
深呼吸を一つ。
「目的は二つあります。一つは、私の調合法が私のものであることを公的に証明すること。もう一つは、危険な薬が流通するのを止めること」
「後者は、宮廷薬師局の判断に異議を唱えることになります。それを理解した上で?」
「はい」
院長は頷きもせず、否定もしなかった。ただ、懐から一通の書類を取り出した。
「これを見てください」
差し出されたのは、宮廷薬師局が学術院に提出した書類だった。新しい万能薬の登録申請。考案者——セレスティーヌ。
配合比率は七対三。
提出日は——私の新規調合法の申請より、二週間遅かった。
「二つの処方箋が、学術院に届いています」
院長の声は平坦だった。
「あなたの提出した新調合法の申請。そしてセレスティーヌ殿の万能薬の申請。どちらも同じ希少薬草を使い、どちらも新規の調合法を主張している。ただし配合比率が異なる」
「はい。五対五と七対三」
「そして、あなたは七対三が危険だと報告している」
「長期保存で成分が分離し、毒性が生じます。実験データがあります」
「——見せていただけますか」
◇
ここから先は、ただの事実の積み重ねだった。
調合ノートの記録。日付入りの実験データ。失敗の記録、成功の記録。配合を変えるたびに何が起き、なぜ五対五に辿り着いたかの論理的な道筋。
そして七対三で試した場合に何が起きるか——師匠の警告に基づいて、辺境で独自に検証した結果。
成分の分離が始まるまでの日数。毒性が発現する条件。すべて数字で示した。
院長は眼鏡を外し、書類を一枚一枚、丁寧にめくっていった。
時折、日付を確認するように指で紙面をなぞる。
長い、長い沈黙だった。
◇
「……リーネ殿」
院長が顔を上げた。
「あなたの記録は、極めて精密です。日付も、実験条件も、論理の筋道も。学術院が求める水準を十分に満たしている」
「ありがとうございます」
「ただし、判断には時間がかかります。宮廷薬師局の提出書類も精査する必要がある。双方の記録を照合し、日付の整合性を確認する。拙速は許されない」
「もちろんです」
「それから——」
院長が杖に手を置いた。
「七対三の配合が危険であるというあなたの報告が事実なら、これは登録審査の問題ではなく、公衆衛生の問題です。学術院は、宮廷薬師局に緊急の検証を勧告する権限を持っています」
(……勧告)
胸の奥で、何かが動いた。
「勧告していただけるのですか」
「あなたの実験データが正しければ。——正しいかどうかは、私が確認します」
院長は書類の束を受け取り、鞄にしまった。立ち上がり、杖で身を支える。
「帰りの馬車で読みます。結果は、文書で通知します」
◇
院長が去った後、応接室に私とヴェルトだけが残った。
「……やれることは、やった」
自分に言い聞かせるように呟いた。
「ええ」
ヴェルトの声が近い。見ると、彼はいつの間にか隣の椅子に移動していた。
「あなたは、最善を尽くしました」
「結果が出るまで——」
「結果がどうであれ」
彼が遮った。珍しいことだった。
「あなたの記録は本物です。それは、隣で見ていた私が知っています」
喉の奥が詰まった。返事ができなくて、代わりに窓の外を見た。
夕暮れの空が、オルデン領の山並みを橙色に染めている。
(……ここが、私の場所になりつつある)
その実感が、じわりと胸に広がった。
——三日後、学術院から正式な書簡が届いた。
封筒の表に、院長の署名と日付印。そして一行。
「宮廷薬師局に対し、七対三配合薬の即時検証を勧告する」




