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婚約破棄された令嬢ですが、私の調合がないと王宮は回りません  作者: 渚月(なづき)


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第八話 二つの処方箋

緊急報告書を学術院に送ってから、十日が過ぎた。


返答はなかった。



待つ時間は、長い。けれど待つしかできないわけではない。


私は日常の調合を続けながら、もうひとつの準備を進めていた。かつて宮廷で開発し、セレスティーヌに名前を奪われた処方——その全記録を、時系列で整理し直す作業だ。


調合ノートの日付。使用した薬草の入荷記録。失敗した実験の条件メモ。


すべてを、学術院の書式で清書する。


「これは、何のため?」


ナタリアが訊いた。


「いつか、二つの処方箋が並べられる日が来る。私のものと、あの人のもの。そのとき、どちらが本物か——日付が語るようにしておくため」


「……あんた、怖い人ね。静かに怒る人って」


「怒ってないよ。記録しているだけ」


「それが怖いって言ってるの」



十一日目の朝、領都の門に馬車が着いた。


宮廷の紋章ではない。銀色の紋章——王立学術院のものだった。


馬車から降りてきたのは、一人の老紳士だった。銀縁の眼鏡、穏やかな表情、杖をついた足取り。けれどその目は澄んでいて、鋭かった。


(……まさか)


ヴェルトが隣で小さく息を呑んだのが聞こえた。


「学術院院長——グレンヴィル公爵です」



院長は、領主館の応接室に通された。


私とヴェルトが向かい合わせに座り、院長が中央の椅子に腰を下ろした。従者が茶を出し、退室する。


沈黙。


院長はしばらく茶を啜り、それから銀縁の眼鏡の奥から私を見た。


「リーネ殿。あなたの提出した書類を、すべて読みました」


「ありがとうございます」


「新規調合法の登録申請と、七対三配合の危険性に関する緊急報告。二つの書類が、同じ人物から送られてきた」


「はい」


「率直に訊きます。あなたの目的は何ですか」


(……この人は、正面から来る)


深呼吸を一つ。


「目的は二つあります。一つは、私の調合法が私のものであることを公的に証明すること。もう一つは、危険な薬が流通するのを止めること」


「後者は、宮廷薬師局の判断に異議を唱えることになります。それを理解した上で?」


「はい」


院長は頷きもせず、否定もしなかった。ただ、懐から一通の書類を取り出した。


「これを見てください」


差し出されたのは、宮廷薬師局が学術院に提出した書類だった。新しい万能薬の登録申請。考案者——セレスティーヌ。


配合比率は七対三。


提出日は——私の新規調合法の申請より、二週間遅かった。


「二つの処方箋が、学術院に届いています」


院長の声は平坦だった。


「あなたの提出した新調合法の申請。そしてセレスティーヌ殿の万能薬の申請。どちらも同じ希少薬草を使い、どちらも新規の調合法を主張している。ただし配合比率が異なる」


「はい。五対五と七対三」


「そして、あなたは七対三が危険だと報告している」


「長期保存で成分が分離し、毒性が生じます。実験データがあります」


「——見せていただけますか」



ここから先は、ただの事実の積み重ねだった。


調合ノートの記録。日付入りの実験データ。失敗の記録、成功の記録。配合を変えるたびに何が起き、なぜ五対五に辿り着いたかの論理的な道筋。


そして七対三で試した場合に何が起きるか——師匠の警告に基づいて、辺境で独自に検証した結果。


成分の分離が始まるまでの日数。毒性が発現する条件。すべて数字で示した。


院長は眼鏡を外し、書類を一枚一枚、丁寧にめくっていった。


時折、日付を確認するように指で紙面をなぞる。


長い、長い沈黙だった。



「……リーネ殿」


院長が顔を上げた。


「あなたの記録は、極めて精密です。日付も、実験条件も、論理の筋道も。学術院が求める水準を十分に満たしている」


「ありがとうございます」


「ただし、判断には時間がかかります。宮廷薬師局の提出書類も精査する必要がある。双方の記録を照合し、日付の整合性を確認する。拙速は許されない」


「もちろんです」


「それから——」


院長が杖に手を置いた。


「七対三の配合が危険であるというあなたの報告が事実なら、これは登録審査の問題ではなく、公衆衛生の問題です。学術院は、宮廷薬師局に緊急の検証を勧告する権限を持っています」


(……勧告)


胸の奥で、何かが動いた。


「勧告していただけるのですか」


「あなたの実験データが正しければ。——正しいかどうかは、私が確認します」


院長は書類の束を受け取り、鞄にしまった。立ち上がり、杖で身を支える。


「帰りの馬車で読みます。結果は、文書で通知します」



院長が去った後、応接室に私とヴェルトだけが残った。


「……やれることは、やった」


自分に言い聞かせるように呟いた。


「ええ」


ヴェルトの声が近い。見ると、彼はいつの間にか隣の椅子に移動していた。


「あなたは、最善を尽くしました」


「結果が出るまで——」


「結果がどうであれ」


彼が遮った。珍しいことだった。


「あなたの記録は本物です。それは、隣で見ていた私が知っています」


喉の奥が詰まった。返事ができなくて、代わりに窓の外を見た。


夕暮れの空が、オルデン領の山並みを橙色に染めている。


(……ここが、私の場所になりつつある)


その実感が、じわりと胸に広がった。


——三日後、学術院から正式な書簡が届いた。


封筒の表に、院長の署名と日付印。そして一行。


「宮廷薬師局に対し、七対三配合薬の即時検証を勧告する」


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