第七話 調合炉の火
隣の地区の熱病は、私たちの予想を超える速度で広がった。
三日で患者は五十人を超え、診療所はベッドが足りなくなった。ナタリアと私は交代で眠り、交代で調合し、交代で患者を診た。
◇
「これ、ただの熱病じゃないわ」
ナタリアが、患者の容態記録を私に突きつけた。深夜の診療所、二人ともまともに眠れていない。
「通常の解熱薬が効いていない。熱が一度下がっても、半日で戻る」
「……見せて」
記録を読む。患者の年齢、症状、投薬後の経過。目を凝らして、パターンを探す。
(……これは)
前世の記憶がまた、頭の隅で明滅した。
「ナタリア、患者の住んでいる地区を地図で見せて」
地図を広げる。赤い印が集中しているのは、先月井戸の浄化を行った地区の——さらに下流。
「水だ。感染経路は水。しかも、上流から何かが流れてきている」
「何かって?」
「まだわからない。でも仮説は立てられる。調べに行く必要がある」
◇
翌朝、ヴェルトと共に上流を調査した。
川沿いを半日かけて遡ると、山際に古い廃坑があった。坑道の入口から、薄い黄緑色の水が滲み出ている。
「……鉱毒か」
ヴェルトが呟いた。
「廃坑は十年以上前に閉じたはずですが、地下水脈と繋がっていたのか」
水を採取して、診療所に持ち帰った。
◇
調合炉に火を入れ、採取した水の成分を分析する。この世界に化学分析の概念はないけれど、薬師の「鑑定調合」という技術で代用できる。特定の試薬と反応させ、色の変化で成分を推定する方法だ。
試薬を三種類。順番に滴下。
一つ目——変化なし。
二つ目——わずかに白濁。
三つ目——鮮やかな青紫色に変わった。
「……やはり」
鉱毒の一種だ。ゆっくりと体に蓄積し、免疫を弱らせる。解熱薬が効かないのは、熱病そのものが問題なのではなく、体の抵抗力が奪われているからだ。
「治療法は?」
ナタリアの声が緊張している。
「解毒が先。熱を下げるだけでは根本的な解決にならない。鉱毒を体から排出する薬が必要」
「そんな薬、作れるの」
「——作る」
◇
調合炉の火を絶やさず、三日間。
解毒薬の調合は、これまでで最も難しい仕事だった。鉱毒に対応する成分を持つ薬草を領内で探し、配合を一から設計しなければならない。
前世の知識がヒントになった。キレート療法——重金属を体外に排出する治療法の原理を、この世界の薬草に置き換える。
失敗。調整。失敗。微調整。
三日目の夜明け、ようやく安定した解毒薬が完成した。
「——できた」
器に入った液体は、淡い金色をしていた。
◇
最初の投与は、最も症状の重い患者に行った。
六時間後、熱が下がり始めた。今度は戻らなかった。
十二時間後、患者が自分で水を飲んだ。
ナタリアが、黙って涙を拭いた。
「……効いてる」
「効いてるね」
私も少し泣きそうだったけれど、まだ四十九人いる。泣くのは後だ。
◇
一週間かけて、全患者に解毒薬を投与した。死者は出なかった。
廃坑からの汚染水は、ヴェルトが領主権限で水路を付け替えて対処した。三日で工事を終えたのは、この人の実行力の賜物だった。
「応急処置です。根本的には、廃坑そのものを封じる必要がある」
「それには予算と人員が要りますね」
「王都に申請するつもりです。疫病の記録と汚染の証拠を添えて」
ヴェルトの目に、静かな決意があった。
◇
けれど——同じ頃、王都では別の問題が起きていた。
行商人がもたらした噂。宮廷薬師局が、新しい万能薬の開発を発表したという。セレスティーヌの名前で。
そしてその万能薬の配合が——七対三。
師匠が「失敗する」と警告した、あの配合比率だった。
(……やはり、あの人は私のノートの通りに作ったんだ)
七対三では、短期的には効果が出る。でも長期保存ができない。時間が経つと成分が分離し、最悪の場合——毒性が出る。
私はそれを知っている。師匠もそれを知っている。
けれどセレスティーヌは、知らない。
(……このまま黙っていれば、あの人は自滅する)
一瞬、そう思った。
でも。
七対三の薬が流通すれば、飲むのは一般の人々だ。患者だ。何も知らない人たちが、毒性のある薬を処方される。
(……それは、許容できない)
調合ノートを開いた。新しいページに書く。
「七対三配合の危険性について——学術院への緊急報告書」
これは復讐ではない。これは、薬師としての義務だ。
——報告書を書き終えたとき、窓の外が白んでいた。
机の上に、いつの間にか毛布がかけてあった。ヴェルトの字で「風邪をひきます」と書かれたメモが、毛布の端に挟んであった。




