第六話 隣の書類仕事
書き写しの作業は、三晩かかった。
毎晩、ヴェルトは仕事を終えた後に来て、私の隣に座った。余計な会話はほとんどない。ただ、ペンの音と、たまに紙をめくる音。必要なときだけ、確認の声を交わす。
「ここの数字、〇・七三ですか」
「〇・七八。三と八は似ているから、私の字が悪い」
「いえ、読めます。確認しただけです」
そういう夜が三回。
最終日、全ページの転写が終わったとき、時刻は深夜を回っていた。
「——終わりました」
「お疲れさまでした」
ヴェルトが、完成した書類の束を揃えて、角を叩いて整えた。その手つきが丁寧で、まるで壊れ物を扱うようだった。
◇
学術院への提出は、行商人に託すことにした。王都の学術院に直接持ち込むのは、今の私には危険すぎる。
けれど行商人の手を経由するということは、途中で紛失や妨害のリスクがある。
「写しを二部作りましょう」
ヴェルトの提案だった。
「一部は学術院へ。一部は私が領主館の金庫で保管します。万が一、途中で失われても記録は残る」
「……そこまで考えてくれるんですね」
「当然です」
彼の声には力みがなかった。当然のことを当然にやる——それがこの人の在り方なのだと、もう知っていた。
◇
提出の準備を進める一方で、日常の診療も続いていた。
新しい調合薬のおかげで、重症だった患者の回復が目に見えて進んでいる。ナタリアは毎日の経過を記録し、私と突き合わせる。
「傷の治りが早い患者と遅い患者がいるわ。条件の違いは?」
「栄養状態だと思う。薬だけでは限界がある。食事の改善と並行しないと」
「それ、領主に言った?」
「言いました。来週から、診療所の隣に簡易の食堂を作る計画が動いています」
ナタリアが目を丸くした。
「早いわね、あの人」
「記録を見せれば動いてくれる人だから」
「記録ね」
ナタリアが意味ありげに笑った。何が面白いのかわからなかったけれど、追及はしないことにした。
◇
平穏は、長くは続かなかった。
ある朝、領都の門に見慣れない馬車が止まっていた。宮廷の紋章入りの、黒塗りの馬車。
「王都から視察官が来ています」
ヴェルトの声は、いつもより硬かった。
「視察官?」
「辺境領の衛生状況を確認する、という名目です。実際は——」
「監視、ですね」
彼は無言で頷いた。
◇
視察官は、中年の男だった。宮廷薬師局の所属ではなく、内務省の役人。慇懃だが目が笑っていない。
診療所を巡回し、薬棚を確認し、患者の記録を求めた。すべて「通常の手続き」だと言いながら、目は棚の薬瓶のひとつひとつを舐めるように見ている。
(……何を探している?)
観察する。仮説を立てる。
視察官の目が止まったのは、新しい調合薬の瓶だった。ラベルに「オルデン領方調合・治癒促進薬」と記してある。
「これは——宮廷の処方箋にない薬ですね」
「はい。この領地で独自に開発したものです」
「独自に? 薬師局の認可は」
「辺境領の薬師が領内向けに調合する薬に、薬師局の認可は法的には不要です」
私は法令集の条文を、そらで引用した。昨夜、三度目の読み返しで暗記しておいてよかった。
視察官の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……なるほど。では、この薬の調合記録を見せていただけますか」
「どうぞ」
見せたのは、学術院提出用に転写した「写し」の一部だ。原本ではない。
(……原本は、決して渡さない)
視察官はしばらく記録を眺め、何かをメモし、丁寧に返した。
「結構です。報告書にまとめます」
◇
視察官が去った後、ヴェルトが私の隣に来た。
「記録の写しを見せましたね」
「ええ。原本は見せていません」
「わかっています。……よく準備していましたね」
「準備は裏切らないから」
ヴェルトが少し黙った。それから、小さな声で言った。
「あなたがこの領地に来てくれて、よかった」
不意打ちだった。
返す言葉を探しているうちに、彼はもう歩き出していた。背中が、夕日の中で少し赤く染まっている。
(……よかった、か)
胸の奥で、何かが小さく温まった。名前をつけるのは、まだ早い気がした。
◇
その夜、行商人から伝言が届いた。
学術院への書類は、無事に受理されたという。日付印が押され、正式な「提出済み」の記録番号が発行された。
記録番号を確認した瞬間、指先から力が抜けた。
(……通った)
これで、私の調合法が「いつ」「誰によって」開発されたかは、公的に証明される。たとえ宮廷薬師局がどう主張しようと、学術院の日付印は覆らない。
ノートに記録番号を書き写す。手が震えたけれど、今度は嬉しさからだった。
——けれどその同じ夜、ナタリアが息を切らせて駆け込んできた。
「リーネ、大変。隣の地区で熱病が広がってる。患者が一晩で二十人」




