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婚約破棄された令嬢ですが、私の調合がないと王宮は回りません  作者: 渚月(なづき)


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第六話 隣の書類仕事

書き写しの作業は、三晩かかった。


毎晩、ヴェルトは仕事を終えた後に来て、私の隣に座った。余計な会話はほとんどない。ただ、ペンの音と、たまに紙をめくる音。必要なときだけ、確認の声を交わす。


「ここの数字、〇・七三ですか」


「〇・七八。三と八は似ているから、私の字が悪い」


「いえ、読めます。確認しただけです」


そういう夜が三回。


最終日、全ページの転写が終わったとき、時刻は深夜を回っていた。


「——終わりました」


「お疲れさまでした」


ヴェルトが、完成した書類の束を揃えて、角を叩いて整えた。その手つきが丁寧で、まるで壊れ物を扱うようだった。



学術院への提出は、行商人に託すことにした。王都の学術院に直接持ち込むのは、今の私には危険すぎる。


けれど行商人の手を経由するということは、途中で紛失や妨害のリスクがある。


「写しを二部作りましょう」


ヴェルトの提案だった。


「一部は学術院へ。一部は私が領主館の金庫で保管します。万が一、途中で失われても記録は残る」


「……そこまで考えてくれるんですね」


「当然です」


彼の声には力みがなかった。当然のことを当然にやる——それがこの人の在り方なのだと、もう知っていた。



提出の準備を進める一方で、日常の診療も続いていた。


新しい調合薬のおかげで、重症だった患者の回復が目に見えて進んでいる。ナタリアは毎日の経過を記録し、私と突き合わせる。


「傷の治りが早い患者と遅い患者がいるわ。条件の違いは?」


「栄養状態だと思う。薬だけでは限界がある。食事の改善と並行しないと」


「それ、領主に言った?」


「言いました。来週から、診療所の隣に簡易の食堂を作る計画が動いています」


ナタリアが目を丸くした。


「早いわね、あの人」


「記録を見せれば動いてくれる人だから」


「記録ね」


ナタリアが意味ありげに笑った。何が面白いのかわからなかったけれど、追及はしないことにした。



平穏は、長くは続かなかった。


ある朝、領都の門に見慣れない馬車が止まっていた。宮廷の紋章入りの、黒塗りの馬車。


「王都から視察官が来ています」


ヴェルトの声は、いつもより硬かった。


「視察官?」


「辺境領の衛生状況を確認する、という名目です。実際は——」


「監視、ですね」


彼は無言で頷いた。



視察官は、中年の男だった。宮廷薬師局の所属ではなく、内務省の役人。慇懃だが目が笑っていない。


診療所を巡回し、薬棚を確認し、患者の記録を求めた。すべて「通常の手続き」だと言いながら、目は棚の薬瓶のひとつひとつを舐めるように見ている。


(……何を探している?)


観察する。仮説を立てる。


視察官の目が止まったのは、新しい調合薬の瓶だった。ラベルに「オルデン領方調合・治癒促進薬」と記してある。


「これは——宮廷の処方箋にない薬ですね」


「はい。この領地で独自に開発したものです」


「独自に? 薬師局の認可は」


「辺境領の薬師が領内向けに調合する薬に、薬師局の認可は法的には不要です」


私は法令集の条文を、そらで引用した。昨夜、三度目の読み返しで暗記しておいてよかった。


視察官の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「……なるほど。では、この薬の調合記録を見せていただけますか」


「どうぞ」


見せたのは、学術院提出用に転写した「写し」の一部だ。原本ではない。


(……原本は、決して渡さない)


視察官はしばらく記録を眺め、何かをメモし、丁寧に返した。


「結構です。報告書にまとめます」



視察官が去った後、ヴェルトが私の隣に来た。


「記録の写しを見せましたね」


「ええ。原本は見せていません」


「わかっています。……よく準備していましたね」


「準備は裏切らないから」


ヴェルトが少し黙った。それから、小さな声で言った。


「あなたがこの領地に来てくれて、よかった」


不意打ちだった。


返す言葉を探しているうちに、彼はもう歩き出していた。背中が、夕日の中で少し赤く染まっている。


(……よかった、か)


胸の奥で、何かが小さく温まった。名前をつけるのは、まだ早い気がした。



その夜、行商人から伝言が届いた。


学術院への書類は、無事に受理されたという。日付印が押され、正式な「提出済み」の記録番号が発行された。


記録番号を確認した瞬間、指先から力が抜けた。


(……通った)


これで、私の調合法が「いつ」「誰によって」開発されたかは、公的に証明される。たとえ宮廷薬師局がどう主張しようと、学術院の日付印は覆らない。


ノートに記録番号を書き写す。手が震えたけれど、今度は嬉しさからだった。


——けれどその同じ夜、ナタリアが息を切らせて駆け込んできた。


「リーネ、大変。隣の地区で熱病が広がってる。患者が一晩で二十人」


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