第三話 誰かの筆跡
オルデン領に来て十日が経った。
私の朝は、薬草の仕分けから始まる。陽が昇る前に診療所の裏手に出て、前日に乾燥させた薬草の状態を確認する。湿度、色、香り。指で茎を折ったときの音。すべてがノートに記録されていく。
◇
「リーネ、また日の出前から起きてたの」
赤毛の診療医——ナタリアは、十日かけてようやく名前を教えてくれた。彼女は私の調合を毎日観察し、質問し、時に口論になりかけ、それでもマグカップの茶を欠かさなかった。
「薬草は朝の湿度で品質が変わるから」
「それ、昨日も聞いた」
「大事なことだから二回言う」
ナタリアが鼻を鳴らした。けれど口元が少しだけ緩んでいるのは、もう知っている。
◇
調合の成果は、少しずつ目に見える形になっていた。
煮出し水の改良だけで、患者の顔色が変わり始めている。完治ではない。でも、正しく抽出された薬湯は体の芯まで届く。住民たちが「苦くない薬」と呼んで、自分から診療所に来るようになった。
(……小さな一歩。でも、確実に)
ヴェルトは毎日のように報告を聞きに来た。といっても大げさなものではない。夕方、診療所に立ち寄って、その日の患者数と薬の消費量を確認する。私が数字を読み上げると、黙って頷いてメモを取る。
「触媒粉の残量が心配です。王都でしか精製できないものなので」
「手配を試みます。ただ——」
ヴェルトの声が、わずかに曇った。
「王都との取引は、最近滞っています」
それ以上は言わなかった。けれど、意味はわかる。辺境領が王都から薬の原料を買うには、宮廷薬師局を通すしかない。そして今、その薬師局の実権を握っているのは——
(……あの人だ)
名前を思い浮かべるだけで、胃の奥が冷たくなる。金髪碧眼、完璧な微笑。侯爵令嬢セレスティーヌ。私の後任として宮廷薬師局の次席に収まった女。
そして私から、すべてを奪った人。
◇
その報せは、思いがけない形で届いた。
月に一度、領都に来る行商人が、王都の薬局街で仕入れた薬を持ってきたのだ。ヴェルトが辺境でも手に入る範囲の薬を買い付ける——その荷の中に、一通の書簡が紛れていた。
宮廷薬師局の公式通達。新しい解熱薬の処方箋が全国の薬局に配布された、という告知だった。
私は通達を読み、処方箋に目を通し——手が止まった。
(……これは)
呼吸を整える。もう一度、最初から読み直す。
解熱草の配合比率。鎮痛樹皮の前処理手順。仕上げの温度管理。ひとつひとつの数字が、私の調合ノートに書かれたものと寸分違わない。
違うのは、処方箋の末尾に記された名前だけだった。
「考案者——宮廷薬師局次席セレスティーヌ」
指先が冷たくなった。
(……私の処方だ)
間違えるはずがない。この配合は、二年かけて試行錯誤した末にたどり着いたものだ。失敗の記録も成功の記録も、全部ノートに残っている。日付入りで。
でも、宮廷の調合記録室にある公式な記録は——私が追放されたとき、あの部屋に置いてきた。
(……書き写されたんだ。私の記録が、あの人の筆跡で)
手が震えそうになったので、ノートを閉じて膝の上に置いた。深く息を吸う。
怒りではない。もっと冷たいもの。自分の仕事が、名前ごと消されていく感覚。
◇
「顔色が悪いわよ」
ナタリアが、マグカップを差し出した。
「少し、考えることがあって」
「あんたが考え込むと長いのは知ってる。でもまず飲みなさい」
薬湯を一口含む。自分が作った味だ。苦くない。
「……ナタリア、ひとつ訊いてもいい?」
「なに」
「この領では、薬の処方を記録するとき、日付を入れる習慣はある?」
「当たり前でしょう。日付のない記録なんて、記録じゃないわ」
その通りだ、と思った。
日付のない記録は、記録ではない。
——そして、私のノートには日付がある。すべてのページに。
◇
その夜、小部屋の灯りの下で調合ノートを最初から読み返した。
二年分の試行錯誤。何度も失敗した配合。温度を一度変えたら効果が倍になった日。煮出し時間を三十秒縮めたら分離が起きた日。すべてに日付がある。
(……これは証拠になる。いつか、必ず)
でも、今は使うときではない。辺境の一薬師が宮廷に異議を唱えたところで、握り潰されるだけだ。
必要なのは、もっと確かなもの。
(……観察して、仮説を立てて、検証して、証拠を揃える。いつもやってきたことと同じだ)
ノートの新しいページを開いて、今日の日付を書いた。
その下に一行。
「王都処方箋との照合記録——開始」
ペンを置いたとき、窓の外から領主館の方角で灯りが揺れているのが見えた。ヴェルトもまだ起きているらしい。
(……この領地のために、やれることをやろう。まずは、目の前の患者から)
復讐ではない。ただ、正しいことを正しいと証明したいだけだ。
——けれど、あの処方箋の裏に透ける筆跡の違いを、私は忘れないだろう。




