第二話 辺境の煮出し水
乗合馬車が三日かけて辿り着いた場所は、地図の端に小さく記された名前の通りの土地だった。
オルデン領。
王都から見れば辺境も辺境。街道は途中から未舗装に変わり、最後の一日は馬車の揺れで腰が悲鳴を上げた。
◇
領都の門をくぐった瞬間、鼻の奥に薬草の匂いがした。甘いものではない。煮詰めすぎた、焦げに近い苦い匂い。
街路には人影がまばらで、すれ違う住民の顔色がどれも悪い。目の下に濃い隈。乾いた唇。歩幅が狭く、足を引きずるように歩いている。
(……疫病、というほどではない。でも慢性的に何かが足りていない)
前世の記憶が、頭の片隅で小さく点滅した。この既視感。ビタミン欠乏と慢性脱水の複合症状に似ている。
けれど、この世界にビタミンという概念はない。だから私はまず、自分の目で確かめる必要がある。
◇
領主館は、思ったよりも質素だった。
石造りの二階建て。壁には蔦が這い、門扉の蝶番が少し錆びている。王都の宮殿を見慣れた目には地味に映るけれど、手入れはされている。庭の植え込みは刈り揃えられ、玄関の石段に泥はない。
(……限られた人手で、できることをやっている場所だ)
門番に名乗ると、少し待たされた後、奥から足音が近づいてきた。
「宮廷薬師局の——元、でしたか」
低い声だった。落ち着いているけれど、どこか疲弊の色がにじんでいる。
長身の男性が、門の内側に立っていた。日に焼けた肌、前髪が片目にかかる黒髪。軍服ではなく簡素な執務服を着ているが、手にある剣だこが隠せていない。
ヴェルト。オルデン領の領主だと、後から知った。
「薬師を探していると、街道筋の掲示で見ました」
「……掲示を出したのは半年前です。まさか王都から応じる方がいるとは」
彼の目が、私の小さな革鞄に一瞬だけ止まった。荷物の少なさに何かを察したのか、それ以上は訊かなかった。
「領内の状態を見ていただけますか。案内します」
余計な詮索をしない人だった。それが、ありがたかった。
◇
案内されたのは、領都の中心にある診療所だった。
扉を開けた瞬間、あの苦い匂いの正体がわかった。煮出し水だ。薬草を鍋で煮て、その汁を飲ませている。
「——これを、患者に?」
思わず足が止まった。
診療所の奥から、赤毛を短く切った女性が出てきた。そばかすだらけの頬、袖をまくった腕。目つきが鋭い。
「誰ですか、この人」
ヴェルトではなく、私を見ている。
「王都から来た薬師です」
「宮廷の?」
女性の声に、はっきりとした警戒が混ざった。
(……まあ、そうだろうな)
辺境に宮廷の人間が来て、歓迎されるはずがない。王都は地方に薬の配給を渋り続けてきた。それは私も知っている。
「宮廷は関係ありません。今は、ただの薬師です」
「ただの薬師が、この煮出し水の何がわかるの」
鍋の中を覗いた。三種類の薬草が、区別もなく一緒に煮込まれている。煮出し時間が長すぎて、有効成分の大半が壊れているのが匂いでわかる。
でも、今ここで指摘すれば、この人の矜持を傷つける。限られた知識と材料で、必死にやってきたのだ。それは見ればわかる。
「……少しだけ、試させてもらえませんか。同じ薬草で、別の煮方を」
鞄から調合ノートを取り出した。
女性が眉をひそめた。ヴェルトは何も言わず、腕を組んで壁に背を預けた。
◇
翌朝。
私は診療所の調理場を借りて、最も基本的な調合から始めた。
薬草の仕分け。煮出し温度の管理。抽出時間の調整。前世の知識で言えば中学生の理科実験レベルの作業だけれど、この世界では「調合」と呼ばれる専門技術になる。
三種の薬草を別々に処理し、抽出液を順番に合わせていく。
最後に、小さな陶器の器にひとすくい。色は澄んだ琥珀色で、あの焦げた匂いはない。
「……飲んでみて」
自分でまず一口含んでから、女性に差し出した。
彼女が半信半疑で受け取り、口をつけた。
数秒。
「——苦くない」
目が少し大きくなった。
「同じ草なのに」
「煮方と順番を変えただけです。成分を壊さないように」
説明は最小限にした。理論を語るより、結果を見せるほうが早い。
女性が器の中をじっと見つめている。長い沈黙だった。
「……あんた、名前は」
「リーネです」
「——ちょっと待ってなさい」
彼女は奥の棚から、自分のマグカップを二つ持ってきた。そこに今作った薬湯を注ぎ、ひとつを私に押しつけた。
「あたしはこの領の診療医よ。名前は明日教える。まず腕を見せて」
意味がわからなかったけれど、マグカップの重みがあたたかかった。
◇
その夜、ヴェルトが診療所に顔を出した。
「領の薬草の在庫を、明日見ていただけますか」
「はい。……在庫表はありますか」
「簡易なものしか」
「それで十分です」
彼は小さく頷いて、出ていこうとした。扉に手をかけたまま、少しだけ振り返る。
「——遠くから、ありがとうございます」
それだけ言って、静かに扉が閉まった。
◇
窓の外で虫の声がする。王都では聞こえなかった音だ。
借りた小部屋のベッドに腰かけて、調合ノートを膝に開く。最後のページの数式を、もう一度なぞった。
(……ここでなら、まだやれることがある)
指先が、少しだけ震えていた。安堵なのか、緊張なのか、自分でもわからない。
けれど、目を閉じても涙は出なかった。代わりに、明日の調合の手順が浮かんでいた。
薬草の在庫表。あの苦い煮出し水。住民たちの顔色。
——全部、ノートに書き留めよう。
ペンを取ったとき、ふと気づいた。
革鞄の底に、出立の朝にはなかったものが入っている。小さな紙包み。中身は、宮廷薬師局でしか手に入らない高純度の触媒粉だった。
包み紙の隅に、見覚えのある筆跡で一言。
「忘れ物」
——それは、あの人の字だった。




