第十話 帰る場所
使者が持ってきたのは、王太子からの親書だった。
内容は簡潔だった。
学術院の調査結果を受け、宮廷薬師局の体制を刷新する。ついては、元次席リーネの復帰を要請する——。
ヴェルトが同席した場で、使者は丁重に書簡を読み上げた。復帰の条件として、次席ではなく薬師局長への昇進が提示されていた。
使者が読み終えるのを待って、私は一つだけ訊いた。
「これは、王太子殿下ご自身のお考えですか」
「はい。殿下の直筆の署名がございます」
署名を確認した。確かに王太子の筆跡だった。
(……追放した相手を、今度は局長として迎えたい。体面を繕うのが上手い人だ)
怒りは、もうなかった。ただ冷静に、この申し出の意味を読む。
王太子にとって、これは「過ちを認める」ことではない。「有能な人材を適切に配置し直した英断」として記録に残すための行動だ。
それはそれでいい。政治とはそういうものだ。
けれど——
◇
「少し、時間をいただけますか」
使者は了承して、領主館の客室で待つことになった。
一人になった診療所で、調合ノートを開いた。最初のページ。宮廷薬師局で書き始めた、六年前の日付。
最後のページ。オルデン領で、昨日書いたばかりの記録。
二冊目のノートも、もう半分が埋まっている。
(……私の仕事は、全部ここに書いてある)
窓の外を見た。
オルデン領の街並みが見える。一月前より活気がある。行き交う人の足取りが速い。診療所の前を通る住民が、窓越しに手を振ってくれる。
「リーネ先生、今日もよろしくー」
(……先生、か)
◇
ナタリアは、薬棚の整理をしながら聞いていた。
「で、どうするの。王都に戻るの」
「ナタリアはどう思う?」
「あたしの意見なんか関係ないでしょ」
「関係あるよ。あなたは私の最初の——」
言いかけて、やめた。
「最初の何よ」
「……最初にマグカップで茶を出してくれた人」
ナタリアが盛大にため息をついた。
「馬鹿じゃないの」
でも目が赤くなっていたのを、私は見逃さなかった。
◇
ヴェルトには、夕方に話した。
領主館の裏庭。二人で並んで、沈む夕日を見ていた。
「王都から、復帰の要請が来ました」
「……聞いています。使者から概要は」
「薬師局長として、だそうです」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
ヴェルトは夕日を見たまま、何も言わなかった。
(……この人は、引き止めない)
それがこの人だ。自分の感情より、相手の選択を尊重する人。たとえそれが、自分にとってどんなに辛い選択であっても。
だから、私から言わなければいけない。
「お断りするつもりです」
ヴェルトの横顔が、わずかに動いた。
「——よろしいのですか」
「よろしいも何も。私にはまだ、ここでやることがある」
「やること」
「新しい調合法の研究はまだ途中です。辺境で持続可能な薬の供給体制を作る——それが、今の私の目標です。王都の薬師局長室からでは、できないことです」
言い訳ではない。本心だった。
でもそれだけではないことも、自分ではわかっていた。
「それに——」
夕日が、山の稜線に沈んでいく。空が橙から紫に変わる。
「ここには、隣で書類仕事をしてくれる人がいるので」
ヴェルトが、初めて私のほうを向いた。
目が合った。彼の目は夕暮れの光を映して、少しだけ潤んでいるように見えた。
「……それは」
「はい」
「——ありがとうございます」
ヴェルトの声が、かすかに震えていた。
彼の手が、そっと私の手に触れた。指先だけ。それだけで、十分だった。
◇
翌朝、使者に返書を渡した。
丁重に、しかし明確に辞退する旨を記した手紙。理由は「辺境における薬学研究の継続のため」。
使者は少し驚いた顔をしたけれど、深く追及はしなかった。
「承知しました。殿下にお伝えいたします」
馬が門を出ていくのを、ヴェルトと並んで見送った。
◇
その日の午後、師匠から最後の包み紙が届いた。
中身は薬草ではなく、一枚の紙だった。師匠の筆跡で、短い一文。
「おまえの薬は、おまえの名前で届くようになった。老いぼれはもう心配していない」
包み紙を裏返すと、もう一行。
「良い領地を見つけたな」
(……見つけた、じゃない。見つけてもらったんだ)
紙を丁寧に畳んで、調合ノートの表紙の裏に挟んだ。
◇
夕方、診療所にナタリアが来た。
「はい、これ」
差し出されたのは、新しいマグカップだった。
「何これ」
「あんた専用。もう客用を使わなくていいってこと」
受け取った。白い陶器の、素朴なマグカップ。
「……ありがとう」
「礼はいいから、明日の調合の準備しなさい。患者、増えてるんだから」
「はいはい」
◇
夜。
診療所の小部屋で、調合ノートの新しいページを開いた。
日付を書く。今日の日付。
その下に——何を書こうか、少し迷った。
窓の外で虫が鳴いている。遠くに領主館の灯りが見える。隣の部屋では、ナタリアがまだ記録を書いている気配がする。
ペンを置いて、マグカップの茶を一口。
(……ああ、そうだ)
ノートに、一行だけ書いた。
「本日の調合——順調」
それだけでよかった。明日も同じことを書く。明後日も。
指先はもう震えていない。この場所で、この手で、薬を作り続ける。
それが、私の選んだ答えだった。
窓の向こうで、オルデン領の夜空に星が瞬いている。王都では見えなかった、静かで、深い光だった。




