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婚約破棄された令嬢ですが、私の調合がないと王宮は回りません  作者: 渚月(なづき)


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10/10

第十話 帰る場所

使者が持ってきたのは、王太子からの親書だった。

内容は簡潔だった。


学術院の調査結果を受け、宮廷薬師局の体制を刷新する。ついては、元次席リーネの復帰を要請する——。


ヴェルトが同席した場で、使者は丁重に書簡を読み上げた。復帰の条件として、次席ではなく薬師局長への昇進が提示されていた。


使者が読み終えるのを待って、私は一つだけ訊いた。


「これは、王太子殿下ご自身のお考えですか」


「はい。殿下の直筆の署名がございます」


署名を確認した。確かに王太子の筆跡だった。


(……追放した相手を、今度は局長として迎えたい。体面を繕うのが上手い人だ)


怒りは、もうなかった。ただ冷静に、この申し出の意味を読む。


王太子にとって、これは「過ちを認める」ことではない。「有能な人材を適切に配置し直した英断」として記録に残すための行動だ。


それはそれでいい。政治とはそういうものだ。


けれど——



「少し、時間をいただけますか」


使者は了承して、領主館の客室で待つことになった。


一人になった診療所で、調合ノートを開いた。最初のページ。宮廷薬師局で書き始めた、六年前の日付。


最後のページ。オルデン領で、昨日書いたばかりの記録。


二冊目のノートも、もう半分が埋まっている。


(……私の仕事は、全部ここに書いてある)


窓の外を見た。


オルデン領の街並みが見える。一月前より活気がある。行き交う人の足取りが速い。診療所の前を通る住民が、窓越しに手を振ってくれる。


「リーネ先生、今日もよろしくー」


(……先生、か)



ナタリアは、薬棚の整理をしながら聞いていた。


「で、どうするの。王都に戻るの」


「ナタリアはどう思う?」


「あたしの意見なんか関係ないでしょ」


「関係あるよ。あなたは私の最初の——」


言いかけて、やめた。


「最初の何よ」


「……最初にマグカップで茶を出してくれた人」


ナタリアが盛大にため息をついた。


「馬鹿じゃないの」


でも目が赤くなっていたのを、私は見逃さなかった。



ヴェルトには、夕方に話した。


領主館の裏庭。二人で並んで、沈む夕日を見ていた。


「王都から、復帰の要請が来ました」


「……聞いています。使者から概要は」


「薬師局長として、だそうです」


沈黙が落ちた。長い沈黙だった。


ヴェルトは夕日を見たまま、何も言わなかった。


(……この人は、引き止めない)


それがこの人だ。自分の感情より、相手の選択を尊重する人。たとえそれが、自分にとってどんなに辛い選択であっても。


だから、私から言わなければいけない。


「お断りするつもりです」


ヴェルトの横顔が、わずかに動いた。


「——よろしいのですか」


「よろしいも何も。私にはまだ、ここでやることがある」


「やること」


「新しい調合法の研究はまだ途中です。辺境で持続可能な薬の供給体制を作る——それが、今の私の目標です。王都の薬師局長室からでは、できないことです」


言い訳ではない。本心だった。


でもそれだけではないことも、自分ではわかっていた。


「それに——」


夕日が、山の稜線に沈んでいく。空が橙から紫に変わる。


「ここには、隣で書類仕事をしてくれる人がいるので」


ヴェルトが、初めて私のほうを向いた。


目が合った。彼の目は夕暮れの光を映して、少しだけ潤んでいるように見えた。


「……それは」


「はい」


「——ありがとうございます」


ヴェルトの声が、かすかに震えていた。


彼の手が、そっと私の手に触れた。指先だけ。それだけで、十分だった。



翌朝、使者に返書を渡した。


丁重に、しかし明確に辞退する旨を記した手紙。理由は「辺境における薬学研究の継続のため」。


使者は少し驚いた顔をしたけれど、深く追及はしなかった。


「承知しました。殿下にお伝えいたします」


馬が門を出ていくのを、ヴェルトと並んで見送った。



その日の午後、師匠から最後の包み紙が届いた。


中身は薬草ではなく、一枚の紙だった。師匠の筆跡で、短い一文。


「おまえの薬は、おまえの名前で届くようになった。老いぼれはもう心配していない」


包み紙を裏返すと、もう一行。


「良い領地を見つけたな」


(……見つけた、じゃない。見つけてもらったんだ)


紙を丁寧に畳んで、調合ノートの表紙の裏に挟んだ。



夕方、診療所にナタリアが来た。


「はい、これ」


差し出されたのは、新しいマグカップだった。


「何これ」


「あんた専用。もう客用を使わなくていいってこと」


受け取った。白い陶器の、素朴なマグカップ。


「……ありがとう」


「礼はいいから、明日の調合の準備しなさい。患者、増えてるんだから」


「はいはい」



夜。


診療所の小部屋で、調合ノートの新しいページを開いた。


日付を書く。今日の日付。


その下に——何を書こうか、少し迷った。


窓の外で虫が鳴いている。遠くに領主館の灯りが見える。隣の部屋では、ナタリアがまだ記録を書いている気配がする。


ペンを置いて、マグカップの茶を一口。


(……ああ、そうだ)


ノートに、一行だけ書いた。


「本日の調合——順調」


それだけでよかった。明日も同じことを書く。明後日も。


指先はもう震えていない。この場所で、この手で、薬を作り続ける。


それが、私の選んだ答えだった。


窓の向こうで、オルデン領の夜空に星が瞬いている。王都では見えなかった、静かで、深い光だった。


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― 新着の感想 ―
王太子は逃げ勝ちかぁ。 でも、本来なら王家が理不尽でも簡単には崩れない事を考えるとある意味現実味のある結果ですね。
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