ゲート災害補償局・損害査定課(仮採用)
今日は仮採用されて初出勤の日。
二十七歳でようやく決まった仕事だった。
これを逃せば、次はない。
胸ポケットには、配属通知の紙。
角が潰れないように、きっちりと専用の透明クリアファイルに挟んである。
紙は、丁寧に折れ目が付いていて、文字も整っていた。
整っているものを見ると落ち着く。
彼はそういう種類の人間だった。
――配属通知(仮採用)
氏名 :十文字 正
所属 :災害対策庁 ゲート災害補償局 損害査定課
配属形態:仮配属(見習い)
勤務地:第三区 現地統括支部(巡回・現場同行)
職務 :ゲート由来損害の分類・査定、補償金算定、証憑確認補助、現場計測・記録
着任日:*月*日
紙の下部には、小さく注記があった。
※現場同行中における行動規程
・査定官は、現場の「安全確保が宣言されるまで」危険区域へ進入してはならない。
字面だけで、胃の奥が冷える。
仮採用の身、最も気を付ける内容だと十文字は胸に刻んだ。
“第三区” の字面だけでも、喉が少し乾く。
そこはゲート災害が最も多い管轄のひとつ。
紙の上では整っているが、紙が指している先は “秩序が崩れる現場” だと、彼は知っている。
スーツの襟を指で直し、眼鏡のフレームを中指で少し持ち上げる。
母からもらった眼鏡は、古いせいかレンズが白く濁り、はっきりと世界を映さない。
他人の表情、視線がわからない。
逆にそれがよかった。
また指が勝手に動く。
癖だった。
「……今日からよろしくお願いいたします」
声から不安が現れる。
自信はない、それでも練習した敬語は正しく発せられた。
背筋は良い。
しかし腰は低い。
礼儀は崩れない。
とはいえ目の奥は落ち着かず、どこに視線を置けばいいのか分からない。
人の表情も、場の空気も、彼には読めない。
代わりに数字は読めた。
数字だけは、読める。
そういう “偏り” が、彼の輪郭を作っていた。
車内で上司が資料を叩く。
ゲート由来、損害の区分、補償金算定の手順、証憑の優先順位。
項目が並び、係数が並び、例外が並ぶ。
紙の上の秩序は、十文字の呼吸を整えるが、同時に “秩序が崩れる現場” へ連れていく。
この世界において、災害とは自然だけを指さない。
これは数年前、空に巨大な穴が開いたことが始まりだった。
それは誰かが開けたわけではない。
何かが、何のために、開けたかもわかっていない。
ある日、突如として都市の上空に “時空の歪み” として現れた。
通称 “ゲート”。
向こう側は、地球のルールが適用されない。
空気の匂いすら異なる “異界”。
そこから最初に降ってきたのは、謎の生物だった。
獣でも人でもない、関節の向きも皮膚の質も違うもの。
銃で止まらず、爆発で散らず、しかしそれらは確かに “壊れる”。
壊れた先、灰のような粉や、黒い塊や、青緑の液体が残った。
人体への影響は『無い』と発表されているが、本当のところは解明されていない。
そんな中、それらは研究され、加工され、そして “使える” と判明した。
未知の素材を加工した際には、エネルギーが発生することも分かった。
燃料でも電力でもない、別種の新たな動力。
その出力は装備を動かし、装備は人間の限界を押し上げる。
“攻略者” と呼ばれる者たちが、その時代の顔になるまで時間はそうかからなかった。
前線に立ち、開いたゲートへ踏み込み、出てくるものを食い止めつつ、持ち帰れるものを持ち帰る。
人間は、気が付けば世界の変化に慣れていた。
それでも、災害は時間とともに増え続ける。
ゲートは不規則にどこにでも現れ続け、規則的に閉じていく。
開けば異界生物が飛び出し、飛び出せば街が壊れる。
街が壊れれば、人が壊れる。
壊れた後、必要なものは数字だった――
「――先に言っとくぞ。現場で “正しさ” は振り回すな」
上司は言う。
「それが正しい数字だとしても、人に刺さる言い方すると相手もお前も地獄を見る」
「承知いたしました」
「承知してない顔だな」
「……承知いたしました」
返事は丁寧で、しかし顔は固い。
固いまま、眼鏡を上げる。
白く濁った眼鏡を上げる。
上司は、それを癖だと理解しつつ、現場では誤解になると知っている。
現場は、遠目には普通の災害だった。
道路が割れ、建物の角が欠け、焦げた匂いが風に混じる。
ただ、空気が薄く、喉の奥に金属の甘さが残る。
吸うたび、舌が痺れる感じがする。
ゲート災害特有の匂いは、慣れない者の胃を冷やし、慣れた者の肩を硬くする。
封鎖線の向こうには人がいた。
救助班、回収班、封鎖班。
そして――攻略班。
攻略者たちは、現在世界の “当たり前” の顔をしていた。
近代的な全身を覆うフルアーマー機構。
関節と背面に筋力補助のフレームが走り、装甲の継ぎ目から小さな駆動音が漏れている。
衝撃を散らす外殻と、身体を支える内骨格が一体になっている。
彼らは、攻略のメインとなる銃器を手に担いでいた。
主武装である標準戦闘小銃――しかし、それだけではない。
背中には、身体に不相応な長物が固定されている。
重機みたいなフォルムの大型銃器。
銃身が異様に長く、マガジンも分厚い。
普通の人間が背負うには重すぎるはずのそれを、補助フレームが当然のように支えている。
足元には、ホルスターに収まった小拳銃。
そして、ブーツの外側に沿うように、超振動ブレードが一本。
銃が最強ではない世界で、最後に頼れる刃を彼らはお守りのように携えていた。
そんな強い者が当然の顔で立っている。
そういう時代だ、と彼も知っている。
だからこそ余計に自分の存在が浮いている。
スーツは場違いで、手帳は武器にならず、眼鏡は見えているようで見えていない。
「おい、数字屋?」
声が飛んできた。
フルフェイスのヘルメットを外しながら、ひとりの攻略者が近づいてくる。
装甲の首元に汗が光り、補助フレームの駆動音が近づくほどに大きくなる。
笑顔は軽いのに、雰囲気は軽くない。
こちらに投げられた言葉は、挨拶の形をしているが、序列の宣告でもあった。
「初めて見る顔だなぁ」
「……見習いでございます」
「見習いかよ。 じゃあ役立たずだなぁ」
「……申し訳ございません」
「いや謝るなよ。 勉強のためにもっと仕事増やしてやるって。な?」
冗談の形をした刃だった。
“被害が増える” ことを、平気で口にできる世界。
その刃は、現場を生きる者の鈍さでもあり、時代の常識でもある。
彼は反射で眼鏡のフレームを上げた。
その動作だけが、彼の逃げ道だった。
周囲はそれを “取り乱していない” と受け取り、本人はそれで息を繋いでいる。
上司が前に出た。
「黙ってろ。こいつはこいつで必要だ」
「必要? 領収書拾いが?」
「俺らがいないと、被害者は二回死ぬ」
上司の言葉は刃を止めるための刃だった。
攻略者は肩をすくめて去った。
その背中の向こうで、別の一人が小さく頭を下げた。
「……すみません、注意しておきます」
その声は、本当に謝っているように感じた。
謝っているのに、謝る相手が違う気もして、しかしそれを受け入れる。
彼は返し方が分からず、ただ、丁寧に頭を下げるしかなかった。
丁寧さしか、持っていない。
丁寧さだけが、彼をこの場所に立たせている。
現場でやることは単純だった。
壊れたものを数える。
失われたものを分類する。
それを数字にする。
上司がメジャーを投げた。
「測れ。角から角。写真撮れ。証憑取れ。聞き取りは俺がやる」
「承知いたしました」
しゃがみ込み、スーツの膝が汚れる。
だが規則は汚れない。
数字は汚れない。
彼はメジャーを伸ばし、一生懸命にメモを取る。
しばらくして――最初のミスが出た。
ミスは小さな音も立てずに出る。
出た後に、上司の声が落ちる。
「おい。何だその計算」
「……申し訳ございません」
手帳を開き式を直す。
単位を揃える。
眼鏡を上げる。
焦る。
焦ると数字が崩れる。
崩れると上司の声が大きくなる。
周囲の救助の音と、上司の怒声が重なって、彼の世界は訂正だらけになる。
「違う! 単位を! 合わせろ!」
「承知いたしました」
「承知する前に直せ!」
彼は直す。
直したと思っていたところを再度直す。
周囲では担架が通り、瓦礫が運ばれ、救助犬が走る。
その横で、彼は “正しい数字” だけにしがみつく。
――昼、現場で二回直した。
――夜、戻って三回直した。
夜の三回は、机の上での闘いだった。
現場の音が消えた後に残るのは、数字と記録だけで、そこでは逃げ道が少ない。
上司は机の上で容赦なく詰め、十文字は式と単位を直し続ける。
ただ、その作業は、いつか変わる可能性がある――という話を上司はぽつりとした。
写真の自動読取、寸法の自動推定、区分の候補提示。
ゲート由来の損害は特異すぎて簡単にはいかないが、それでもこのうち何割かは機械に移せるかもしれない、と。
移せるなら、怒鳴る回数も減る。
怒鳴られる回数も減る。
けれど、最後に責任を取るのは人間だ――だから今は、直せ。
そういう言い方だった。
上司の机に提出すると、三十秒だけ沈黙があって。
「……今回は通す。次は無いと思え」
初回はそれで終わった。
通す、という言葉が合格でもあり、執行猶予でもある。
帰り道、スーツに残った匂いが消えない。
現場の薄い空気が肺の奥に残る。
十文字は眼鏡を上げる。
ぼんやりとした視界は変わらない。
それでも、上げる。
――これが仕事だ。
そう理解した瞬間、胃の奥が冷えた。
*
二回目は、少しだけ “現場” が見えてきた。
見えてきた、というより見えてしまった。
数字の前に人がいることを、否応なく理解した。
彼は車内で資料を読み込み、計算の手順を頭の中に並べた。
並べれば落ち着く。
落ち着けば、ミスは減るはずだ。
減らさなければ、次は無い。
まだ仮採用だ。
現場は前回より小規模だった。
住宅街の一角。
道路が裂け、塀が倒れ、ガレージが潰れている。
そこで泣いている人がいた。
怒鳴る人もいた。
上司の言った “刺さる” が、分かった。
刺さるのは言葉だけではなく、存在そのものでもある。
彼は、彼らには刺さらないように言葉を選ぼうとした。
選ぼうとして、間違えた。
「……証憑は、ございますでしょうか」
そう言った瞬間、被害者の顔が固まった。
被害者は救助班から腕に包帯を巻かれていた。
指先が震えている。
その目の前で、彼は “証憑” と言った。
正しい。
正しいが、正しいだけだった。
上司がすぐ割り込む。
「すみません、こちらで確認します。今は休んでください」
被害者は頷く。
頷き方が、疲れている。
上司は十文字を横へ引っ張った。
「今のは刺す」
「……申し訳ございません」
「謝る相手が違う。現場の人間に刺すな。刺したら数字が腐る」
数字が腐る、という言い方が妙に残った。
腐る。
確かに、腐る。
感情が混じると、数字は嘘になる。
嘘になった数字は、次の被害を生む。
だからこそ、十文字は余計に数字にしがみつく。
しがみつき方が、また刺さる。
十文字は視線を逸らし、眼鏡を上げた。
その動作で呼吸を整える。
整える、というより “整っているふり” をする。
社会不適合の者が身に付けた、唯一の社会的動作だ。
二回目のミスは、別の場所で出た。
単価の年度。
基準の年度を取り違えた。
「お前、これ去年の単価じゃねぇか」
上司の声が低くなる。
低い声の方が怖い。
「……申し訳ございません。修正いたします」
修正して、提出して、また修正して。
夜中にようやく “……通す” が出た。
通す、という言葉が褒め言葉に見え始めたのが、自分でも嫌だった。
*
三回目から八回目まで、もう “失敗” でしか記憶していない。
三回目、区分を混ぜた。
四回目、言い方で刺した。
五回目、単位を間違えた。
六回目、写真が足りなかった。
七回目、見積もりが甘かった。
八回目、上司の指示を聞き漏らした。
怒鳴られる。
そして謝る。
直し、通し、眠り、起きる。
また眼鏡を上げる。
次の現場へ行く。
その繰り返しの中で、攻略班の顔だけが少しずつ固定されていった。
彼らはここら一帯が管轄だった。
最初に笑って馬鹿にしてきた男。
黙って後ろに立ち、いつも腕を組んでいる女。
そして、小さく謝った、あの人。
他にも数人が、交代勤務のように入れ替わる。
名前は一人も覚えていない。
苦手だった。
知ったところで意味はない。
彼らはいつも前に出る。
彼はいつも後ろで数字を取る。
世界の役割分担は、綺麗に分かれていた。
――次は、気が付けば九回目。
*
九回目もいつも通りだった。
車内は狭く、エンジンの熱と紙の匂いが混ざっている。
運転席の上司は資料の束を片手で叩き、現場の手順を頭の中に並べ直していた。
区分、係数、例外、証憑――紙の上の秩序は整っている。
整っているほど、向かう先の “崩れた秩序” が輪郭を濃くする。
助手席の十文字は、背筋を崩さず座っていた。
スーツの襟、ネクタイの位置、鞄の置き方。
すべてが乱れないように揃えられている。
眼鏡のフレームを中指で押し上げる癖も、いつも通りだった。
「……今日で九回目ですね」
十文字が小さく言う。
上司は鼻で笑い、前方の道路に視線を残したまま訊いた。
「忘れ物は?」
十文字の指が胸ポケットへ伸び、次いで鞄の留め具へ触れる。
動きは早いのに結論が遅い。
整えられた中で、ひとつだけ穴が空いている。
「……申し訳ございません。――の書類が、ございません」
丁寧な敬語が、車内の空気だけを冷やす。
上司の眉間が寄った。
怒鳴るより低い声が出る。
「はぁ」
現場で必要な携行書類。
受領用、照合用、確認用。
どれかが欠ければ、その場で秩序が崩れる。
上司は短く言った。
「取りに戻れ。今すぐ。走れ」
十文字は、丁寧に頷く。
「承知いたしました」
「俺は待たない。先に入る。現場で合流しろ」
路肩に車を寄せ、十文字を降ろす。
ドアが閉まり、背中が遠ざかる。
車は再び走り出した。
しばらくして、現場へ車を乗り入れる。
この仕事も、現場が三千回を超えたあたりから数えるのをやめた。
近づくにつれ、匂いが変わる。
焦げ、鉄、乾いていない血。
ゲート災害特有の “薄い空気” が喉の奥を撫で、舌に金属の甘さを残す。
慣れたはずの匂いが、今日は少しだけ新しい角度で刺さった。
道路の先には、壊れた車両が見える。
横転し、付近は焼け跡。
ガラス片を踏むタイヤが音色を奏でる。
規模は大きいが、人影は薄かった。
頭を動かし、いつもの目印を探した。
封鎖線、テープ、車両バリケード、誘導員、警告標識。
だが、見当たらない。
今日の現場は封鎖済みのはずで、攻略班が抑えている――そう聞いていた。
だから、封鎖線が無い理由を、作業漏れとして考えてしまう。
速度を落とし、路肩に車を止めた。
封鎖班を探し、配置を確認し、手順通り進めるよう依頼する。
そのつもりでドアを開け、薄くなった外の空気を吸い込む。
吸うと喉の奥が冷えた。
「――ふぅ」
周囲を見回しながら、歩き出した。
封鎖線が無い。
やはりどこにも無い。
誘導員もいない。
そもそも作業員がいない。
もう少しだけ様子を見る。
足元の砂利が、微妙に揺れていた。
というより、一方向に引かれている。
そこで、初めて立ち止まった。
立ち止まった瞬間、自分の身体が前へ寄るのを感じる。
気持ちの問題ではない。
重心が勝手に移動する。
服の裾が、風とは違う方向へ引っ張られた。
顔を上げる。
空気が歪んでいる。
さっき視界の端で蜃気楼のように揺れていたものが、今ははっきりと見える。
歪みは、揺れではない。
穴だった。
輪郭が地面と同化する――地獄の入り口を彷彿とさせるほどに巨大で禍々しい、穴。
ゲート。
見えた時には、すでに時が遅かった。
初めての誤情報だった。
封鎖済みという前提が、間違っていた。
上司は踵を返す。
車へ戻る。
戻る――はずだった。
一歩目が踏めない。
靴底が地面を掴まない。
砂利が前へ滑り、脚がそれに連れていかれる。
身体が、引っ張られる。
風ではない。
意思でもない。
現象だ。
上司は無線機を叩いた。
叩きながら叫ぶ。
「こちら損害査定課! 現場状況を――!」
返事はない。
雑音だけが返る。
その雑音さえ、吸い込まれていくように薄い。
上司は腕を伸ばす。
近くの車両に手を掛けようとする。
だが距離が縮まらない。
縮まるのは、ゲートとの距離だけだった。
足元がもう一段、引かれる。
砂利が跳ねる。
息が詰まる。
耳が詰まる。
視界の端で、攻略班の装備が見えた。
脱ぎ捨てられた胸部プレートは割れ、肩の装甲が捻じれ、筋力補助フレームがむき出しになっている。
焼けた関節部のアクチュエータ、ケーブルが千切れ、駆動音の代わりに細い火花が散っている。
地面に突き刺さる大型の重火器が、傾いたまま震えていた。
強いはずの者たちの苦戦がそこにはあった。
理解が追いつく前に、身体が浮き上がる。
落ちることなく持ち上げられる。
次の瞬間、空気が裏返った。
*
「く、――くぅ!!」
一瞬の静寂の裏側で、突如聞こえてくるのは戦争の音だった。
上司は落下の恐怖を押し殺す。
身体が宙に放り出され、背中から異界の地にたたきつけられた。
「ぅ、ぐうぅ……」
周りには、彼を気遣う余裕はない。気付く余裕もない。
異界で目立つフルアーマーが、薄い空気の中で鈍く光った。
装甲の継ぎ目から筋力補助フレームの駆動音が漏れ、踏み込みのたびに関節が短く鳴る。
標準戦闘小銃の連射音が切れ目なく耳を劈き、
マズルフラッシュが瞬き、薬莢が弾け、硝煙が薄い空気に溶ける前に散る。
隊員たちは縦横無尽に移動していた。
止まれば死ぬと知っているからだ。
左右へ滑り、謎の植物の影へ落ちる。
膝を沈め、半歩で角度を変え、肩で反動をいなしながら射線を変える。
異界生物の腕が伸びれば、撃ちながら身を捻って軌道を外す。
弾をばら撒くのではなく、動きの中で曲芸を披露している。
補助フレームがそれを可能にしていた。
反動を吸い、姿勢を戻し、次の一歩を押し出す。
――それでも、劣勢だった。
敵は、たったの一体。
人型に近いが人ではない。
人に虫を被せたといった方がわかりやすいかもしれない。
強靭な外骨格を持ち、虫のような甲殻、張り出した肩、長い腕。
関節は逆向きに曲がり、黒ずんだ皮膚が甲殻の隙間から見え隠れする。
複眼が光り、牙が不規則に動いている。
走りながら、避けながら、撃ちながら、弾は当たっている。
だが、止まらない。
甲殻に弾かれて火花が散り、貫通した弾があっても致命にならない。
青緑の体液が飛び、飛んでも勢いは変わらない。
敵の回復が攻撃を上回る。
距離を取った隊員が、弾を補充する仲間の時間を稼ごうと援護する。
両腕の衝撃吸収機構を機関銃に設置し、先端の脚部から短い支柱を伸ばして地面をロックする。
銃身が太く、給弾部が無骨で、撃ち始めると空気そのものが震えた。
低い咆哮のような連続音が鳴り響き、同時に地が揺れる。
重火器の弾が帯になり、甲殻に叩きつけられる。
粉塵が跳ね、甲殻の表面が削れていく。
一瞬だけ、押し返した。
押し返したはずだった。
されど、敵が “折れる” ことはなかった。
対象を変更し、変更した瞬間にはもう眼前。
機関銃を支えるはずの支柱は砕け、ロックした脚が外れる。
「くそが――」
砲手の身体は横へ跳ね飛ばされた。
重火器が地面に叩きつけられ、金属の塊が火花を散らしながら転がっていく。
ヘルメットの側面が欠け、装甲の継ぎ目から血が滲む。
すかさず仲間が近距離で仕掛けた。
銃を捨てるのではない。
撃ちながら詰め、撃ちながら角度を取って、最後の数歩で “刃” に切り替える。
ブーツの外側から超振動ブレードが抜かれる。
光は短い。
動きも短い。
距離が詰まった瞬間、甲殻の隙間――関節の根元を狙う。
正しい判断だった。
銃で抜けないなら、隙間を裂く。
そして、ナイフが入った――はずの瞬間、敵の反応速度はそれまでも上回る。
「うそ、でしょ――」
虫を払うように腕が振られ、それだけで隊員の身体が宙に浮き上がる。
浮いたまま回転し、地面に落ちる前に何かが折れる音がした。
――陣形がじわじわと崩れていく。
避けたはずの腕が頬を掠め、ヘルメットがひび割れる。
「痛ぇ……」
撃ち続けたはずの銃が、いつの間にか手を離れ、薬莢だけが虚しく跳ねる。
連射音が途切れ、闘える攻略班が減っていく。
死の恐怖が、射撃のリズムの合間に淡々と差し込まれた。
上司の喉が勝手に鳴る。
怖い。
怖すぎる。
目の前の現象が、理解より先に命の終わりを提示してくる。
上司は後退しようとして、遅れて自分が “視線の中心” にいることに気付いた。
「まずい……」
武器がない。
フルアーマーもない。
あるのは無線機と手帳だけだ。
秩序を支える道具はあっても、秩序が壊れる瞬間に身を守る道具がない。
場違いの存在に異界生物の頭が、ほんの少しだけ傾いた。
狙いを定める動き。
「え――なんでここに数字屋が」
彼ら攻略班に、周りに気を配る余裕はなかった。
気付いたときには間に合わない。
小拳銃を撃つが、効かない。
「くそっ! 逃げろ数字屋!」
声は聞こえるが、動けない。
恐怖が身体を硬直させ、視界は涙で滲んでいく。
肺が冷える。
腰が抜けている。
胸の奥が、音もなく潰れる予感がする。
ここに来るまでの短い走馬灯が、並んだ。
封鎖線はどこだ――という自分の判断。
誤情報を疑えなかった自分の判断。
そして、車から降ろした十文字の背中。
――あいつは、ここにいなくてよかったな。
空気が裂ける音。
上司は力強く目を閉じる。
瞬間、上司は “死んだ”。
*
――痛みが、来ない。
まだ、息ができる。
瞼の力を弱め、恐る恐るゆっくりと目を開ける。
目を開けた時、生きていることを実感した。
世界がある。
身体を無茶苦茶に触るが、傷はない。
そして――目の前に、スーツの背中があった。
――十文字 正。
そこには、彼が立っていた。
いつものように背筋が良く、場違いなほど丁寧な立ち姿。
その彼が、異界生物と自分の間に立っている。
一撃を、受け止めている。
腕を、掴んでいる。
何が起きたか脳が追い付かない。
「お前、な、なんで――」
「……申し訳ございません」
聞き飽きた言葉。
しかしこの前線で、その言葉だけが妙に懐かしく感じた。
「……合流が遅れました」
喉からは、情けない空気が漏れる。
その残滓だけが、胸の内側で震えていた。
異界生物は吠え、腕を引き抜こうとする。
甲殻の関節が軋み、空気が裂ける。
十文字は化け物を前にしているにも関わらず、視線を上司に向けていた。
何故か、様子をうかがっていた。
「あぁあぶない!」
目の前で暴れる敵の攻撃が、十文字に降り注いだ。
しかし、すべてが空を切る。
当たらない。
見ることなく、避けたように見えた。
「……は?」
変な声が出る。
「……すみません、気が利きませんでした」
眼鏡をあげた十文字は、掴んでいた腕を離すと同時、同じ腕で振り払うようにその拳を異界生物の腹部に撃ち込んだ。
触れた瞬間、背後の空気が爆ぜる。
粉塵が帯になって跳ね上がり、巨体が後ろへ吹き飛んだ。
あれだけ優位を取っていた異界生物が、軽々しく空を舞っている。
「向こうで対応します……」
攻略班の生き残りは、呆然と立ち尽くす。
あの口の悪かった男も、何が起きているのか理解ができなかった。
指先で襟を整え、ネクタイの位置を直す。
乱れた線を戻そうとする。
その動きが、戦場に似合わないほど丁寧で――同時に、恐ろしく速かった。
遠くでは異界生物が着地する。
粉塵が跳ね、甲殻が地面を抉る。
次の瞬間、十文字の姿はもうそこになかった。
目が追いつかない。
攻略班の誰も追いつけない。
音だけが残る。
空気が破裂する音。
石が弾ける音。
甲殻が叩かれる鈍い音。
そして、衝撃だけが重なっていく。
巨体が空中で翻弄され、地面に戻る “権利” を奪われている。
甲殻に亀裂が走り、青緑の体液が雲散する。
粉塵が舞い、遅れて音が追いすがる。
回復は、間に合わない。
右、背後、左、上。
どの方向から殴ったのか、殴ったのかすら分からない。
ただ、異界生物が破壊されていくという結果だけが積み上がっていく。
そして、唐突に世界が静止した。
敵は、ぐったりしている。
その頭を――十文字が、片手でわしづかみにしていた。
人間の手では収まらないはずの頭部が、指の間で軋んでいる。
ぐったりした巨体が、持ち上げられたまま揺れる。
十文字は、もう片方の手で眼鏡のフレームを押し上げた。
白く濁ったレンズで何が見えているのか。
いつもの癖。
息を整えるための動作。
整っているふりをする動作。
「……」
静止状態のまま、指に力が入る。
甲殻が鳴った。
骨のような硬さが、内側から潰れる音がした。
青緑の液体が、重く滴り落ちる。
頭部は形を失い、巨体が糸の切れた人形みたいに崩れ落ちる。
戦闘の終わり、味わうことはもう無いと思っていた安心が訪れた。
攻略班の生き残りは、遅れて息を吐く。
上司である彼も、息を吐き出した。
震えた呼吸だった。
十文字は、何事もなかったかのように上司の方へ歩み寄る。
顔は落ち着いている。
だが、その場に対し似合わなさだけが際立つ。
「……大丈夫、でしょうか」
「あ――いや, ありがとう……十文字、お前は、一体……」
感謝と疑問が交差する。
十文字は眼鏡を上げ、小さく続けた。
「……すみません、規定を破ってしまいました」
その問いは、戦闘より静かに刺さった。
「仮採用は……大丈夫でしょうか……」
彼が気にしているのは規程だった。
思い出すのは、小さく注記された行動規定。
"安全確保が宣言されるまで" 危険区域へ進入してはならない。
その規程を、十文字は今、気にしている。
前線で数人が死んだ。
自分も死んだと思った。
その直後に、目の前の新人は自身の規定違反を気にしている。
「はは……は……」
乾いた笑い。
どっと疲れが押し寄せた。
この世界は力で回る。
だが十文字はなお、規程と査定の順番で世界を整えようとしていた。
そして、ゲートの贈り物が、人間へ及ぼす影響はまだ解明されていない。




