歪んだ日常
コメント欄はやはり『そいつ許せねえ』『ちゅんちゃんを怒らせるなんて万死に値する』という俺への殺害予告で埋め尽くされていた。
普通ならここで恐怖のあまり泣き叫んでパソコンの電源を引っこ抜くところだ。
俺も最初はそうだった。
胃がキリキリと痛み全身の毛穴から冷や汗が噴き出していた。
しかし怒りに任せて俺への愚痴を早口でまくしたてるちゅんの声を聞いているうちに俺の脳内で何かがパチンと弾けたのだ。
待てよ。
これってすごくないか。
あの何十万人もの登録者を抱える超人気VTuberが今この瞬間俺のことだけを考えているのだ。
俺が昼間に放ったたった一言が彼女の心を激しく揺さぶり家まで持ち帰らせて配信のネタにまで昇華されている。
つまり彼女の感情のベクトルは今完全に俺一人に向いているということだ。
コメント欄の何万という有象無象のリスナーたちは俺が作り出した彼女の怒りにただ便乗して踊らされているにすぎない。
『ほんとにあいつムカつく!今度会ったら絶対に痛い目見せてやるんだから!』
画面の向こうの天使が俺に向けて牙を剥いている。
その事実がとてつもなく甘美な蜜のように俺の脳を侵食し始めた。
口角が勝手に吊り上がっていく。
気持ち悪い笑顔が顔に張り付くのが自分でもわかった。
こういうのも悪くないな。
いやむしろ最高かもしれない。
俺はかつてないほどの高揚感に包まれながら震える手でスマートフォンを手に取った。
そしていつもの文芸部のLINEグループを開いた。
【文芸部(裏)】
俺:なぁお前ら。
俺:もし自分の推しが数万人の前で自分の悪口を言ってたらどう思う?
俺:しかもめっちゃ怒ってて自分のことしか考えてない状態。
俺:これって実質俺への私信みたいなもんじゃないか?
送信ボタンを押して数秒後。
通知音が連続して鳴り響いた。
山田:は?
佐藤:きも
鈴木:きっしょ
山田:宇津見ついに頭おかしくなったか
山田:ちゅんちゃんの配信見ろよ今めっちゃ怒ってて可愛いぞ
俺:いやだからその怒ってる対象がもし俺だったらって話だよ
佐藤:だとしたらお前は全リスナーの敵だろ
佐藤:というかその発想が普通にきもい
鈴木:ただの厄介リスナーの思考回路でござる
鈴木:推しに認知されたいあまりに攻撃されることに喜びを見出している
鈴木:控えめに言ってきもい
山田:きも
佐藤:きもいな
俺:お前ら冷たすぎないか
俺:究極の愛の形かもしれないだろ
山田:ない
佐藤:ない
鈴木:病院行け
仲間たちからの容赦ない罵倒の嵐。
しかし今の俺にはその言葉すら心地よいBGMにしか感じられなかった。
彼らは何も知らないのだ。
今画面の中で怒り狂っている天使の視線の先にいるのがこの俺だということを。
優越感と背徳感が入り混じったドロドロの感情が俺の胸を満たしていく。
俺はスマートフォンの画面を閉じて再びパソコンのモニターに向き直った。
そこにはまだ怒りが収まらずに俺への文句を言い続けている愛しの推しの姿がある。
明日も学校で彼女に会える。
そう思うと俺の心は不思議なほどに穏やかになっていた。
しかし今はただ淡々と日々の授業を消化するだけの無味乾燥な時期である。
俺はいつものように学校へと向かっていた。
しかし今日の俺の足取りはどこか宙に浮いているような奇妙な軽さがあった。
教室の扉を開ける。
見慣れたクラスメイトたちの喧騒が鼓膜を打つ。
そして窓際の席にはすでに登校している雨宮澪の姿があった。
いつもと変わらない日常の風景だ。
彼女は文庫本を開き、周囲に絶対零度のオーラを撒き散らしている。
昨日までの俺ならこの時点で胃を痛めながら息を潜めて自分の席に向かっていただろう。
だが今の俺は違う。
彼女が放つ冷気すらも俺にとっては推しからの特別なファンサービスに他ならないのだ。
俺は堂々と自分の席に座り鞄を机の横に掛けた。
「おはよう雨宮さん」
俺は極めて自然にそしてかつてないほどの穏やかな笑顔で彼女に挨拶をした。
雨宮の肩がピクリと動きゆっくりとこちらを向く。
その瞳には昨日俺を威圧した時と同じ深い氷の光が宿っていた。
「……は?」
地を這うような低い声だ。
親の仇に向けるような冷酷な視線が俺を射抜く。
「昨日あれだけ言ったのにまだ私に話しかけるんだ。死にたいの……?」
彼女の吐き捨てるような言葉が俺の鼓膜を震わせる。
あぁこれだ。
これなのだ。
昨日の夜に数万人のリスナーに向けて俺の悪口を言っていたあの口が今は俺一人に向けて直接罵倒を放っている。
画面越しの電子音ではない生の推しの声帯から放たれる俺への強烈なメッセージだ。
俺の脳内で未知の物質がドバドバと分泌されるのを感じた。
「いや今日はいい天気だなと思って」
俺は全く怯むことなくさらに口角を上げてみせた。
雨宮の眉間に深々とシワが寄る。
彼女は明らかに困惑していた。
昨日まで少し睨めばカエルのように縮み上がっていたキモい陰キャが今日はなぜか余裕の笑みを浮かべて自分の罵倒を受け止めているのだ。
「……ほんとに気持ち悪いんだけど。頭おかしくなったんじゃないの」
彼女は心底嫌悪感を露わにして再び文庫本に視線を戻した。
しかし俺は見逃さなかった。
彼女がページをめくる指先が微かにリズムを崩しているのを。
俺というイレギュラーな存在が彼女の完璧な日常にほんのわずかな波紋を起こしている証拠だ。
一時間目のチャイムが鳴り古文の退屈な授業が始まる。
黒板の前で教師が呪文のように抑揚のない声で教科書を読んでいる。
平和で退屈などこにでもあるありふれた学校生活だ。
しかし俺の隣には登録者数十万人を誇る俺の最推しが座っているのだ。
彼女が時折ノートにシャープペンシルを走らせるカリカリという音すらも俺にとっては極上の音楽だった。
俺はノートの端に意味のない落書きをしながら隣の席の絶対零度を横目で観察し続けた。
たまに彼女と視線がぶつかりそうになると激しく睨みつけられる。
その度に俺の心は満たされていった。
この歪で完璧な日常を俺は誰にも邪魔させない。
そう心に誓いながら俺は静かに授業を受け流した。




