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哲学の崩壊

 俺はひたすら手元のノートに無意味な渦巻き模様を描き続けていた。隣の席から発せられる絶対零度のプレッシャーを完全にシャットアウトするための苦肉の策だ。

 彼女は愛しのVTuber猫宮ちゅんではない。ただのクラスメイトであり俺たち底辺オタクをゴミ虫のように見下す冷酷な氷の美少女こと雨宮澪なのだ。そう自分に強く言い聞かせながら俺はひたすら気配を消すことに全力を注いでいた。


 黒板にチョークが打ち付けられる単調な音が教室に響いている。平穏な授業風景だ。しかし俺の席の周辺だけは完全にシベリアの永久凍土と化していた。俺は決して隣を見ない。視界の端に彼女の美しい黒髪が揺れるのが見えても絶対に意識を向けないのだ。

 三次元の恐怖の化身と二次元の天使は別物である。その崇高なオタク哲学を貫徹するためにはこの徹底した無視が必要不可欠だった。

 しかし俺のそのささやかな抵抗はどうやら隣の氷の魔王の逆鱗に触れてしまったらしい。


 「ねえ」


 突然横から地を這うような低い声が聞こえた。俺の肩がビクッと大きく跳ね上がる。幻聴だ。これは絶対に幻聴だ。俺は決して振り向かないぞ。ノートの渦巻き模様をさらに濃く塗りつぶしていく。


 「ちょっと。無視とかいい度胸してるじゃない」


 幻聴ではなかった。完全に俺に向かって話しかけてきている。しかも声のトーンが普段よりもさらに一段階低くてドスが効いている。ゆっくりと錆びついたロボットのように首を動かすとそこには頬杖をつきながら俺を汚物でも見るかのような冷たい目で見下ろす雨宮の姿があった。


 「前と違ってやけに冷たいじゃん?」


 彼女は鋭い視線を俺に突き刺しながらそう言い放った。前と違うというのはおそらく図書室での一件やこれまでの俺の挙動不審な態度のことを指しているのだろう。あの時は怯えきってペコペコしていたのに今日は急に見えない壁を作って完全に無視を決め込んでいる。それがクラスの頂点に君臨する彼女のプライドを無意識に傷つけたかあるいは単純に不快だったに違いない。


 ここで重要なのは雨宮自身は自分が猫宮ちゅんであるという最大の秘密が俺にバレているとは微塵も思っていないということだ。図書室で悲鳴を聞かれた時も俺がただの偶然だと思って震え上がっていると信じ込んでいるはずだ。だからこそただのキモい陰キャが急に生意気な態度をとったことが純粋に気に食わないのだろう。

 ここで俺は無難な返しをしてすぐにこの場をやり過ごさなければならない。「体調が悪いだけです」とか「考え事をしていました」とか適当な言い訳を並べて平謝りすれば彼女もそれ以上は突っ込んでこないはずなのだ。


 しかし極度の緊張と二次元と三次元を切り離そうとする脳内のバグが俺の言語中枢を狂わせていた。俺の口から出たのは想定していた謝罪とは全く別の言葉だった。


 「冷たいって...雨宮さんほどじゃないよ?」


 しかもあろうことか俺は顔に引きつった愛想笑いまで浮かべてしまっていた。自分でも何を言っているのか全く理解できなかった。なぜ俺は笑顔で煽ってしまったのだ。


 言葉を発してからコンマ一秒で全身の血の気が引いていくのがわかった。頭の中で非常ベルがけたたましく鳴り響く。俺は今とんでもない失言をした。学校一の美少女であり誰もが恐れる氷の絶対零度に向かってお前の方が冷たいだろと真正面から喧嘩を売ってしまったのだ。しかも最高に気持ち悪い笑顔付きで。


 教室の空気が一瞬にして凍りついた。周囲のクラスメイトたちのざわめきすら遠のいていき世界から音が消え去ったような錯覚に陥る。

 雨宮の美しい顔からスッと一切の感情が消え去った。


 「は?」


 鼓膜を直接氷の刃でえぐられるような恐ろしい声だった。そのたった一文字に込められた純度百パーセントの怒りと殺意が俺の全身を貫く。彼女の瞳の奥には北極の氷山よりも冷たくて鋭い光が宿り完全に俺の命を刈り取るモードに入っていた。


 「ひぃ……」


 俺の口から情けないカエルのような悲鳴が漏れた。肺から空気が根こそぎ奪われ喉がカラカラに乾いていく。怖い。ただただ純粋に怖い。画面の向こうでリスナーに愛を囁くあの可愛い生き物とは完全に別の次元に存在する恐怖の化身がそこにいた。


 「あんた今なんて言った?もう一回私の目を見て言ってみなさいよ」


 雨宮がゆっくりと体をこちらに乗り出してくる。その顔は息を呑むほど美しいが今の俺にとっては死神の宣告にしか見えない。彼女から漂うフローラルなシャンプーの香りが今は死へのカウントダウンを知らせるお香の匂いにしか感じられなかった。


 「いいえ。なんでもありません。これは私のただのくだらない独り言でございます」


 俺は必死に首を横に振って机の上に身を縮こまらせた。これ以上彼女の視線を受け止めたら本当に心臓が停止してしまう。


 「ふーん。そう。次変なこと言ったら本当にその口縫い付けるから」


 雨宮は吐き捨てるようにそう言うと再びプイッと横を向き、頬杖をついて教科書に視線を落とした。しかし彼女の机の下では両手で制服のスカートがギリギリと強く握りしめられているのが見えた。明らかにまだ怒っている。完全に特大の地雷を踏み抜いてしまった。俺の崇高なオタク哲学は開始早々にして最悪の形で崩壊し俺の命の灯火は風前の灯となっていた。


 午後の授業がどうやって終わったのか全く記憶にない。俺はひたすら黒板の木目と同化することだけを考えていた。

 隣の席からは相変わらず絶対零度の冷気が漂い続けている。

 生きた心地がしなかった。

 放課後のチャイムが鳴った瞬間、俺は誰よりも早く教室を飛び出した。

 部室に寄る余裕すらない。

 後ろから氷の魔法で射抜かれる前に一目散に自宅へと逃げ帰った。


 自室のドアを閉めてようやく肺いっぱいに酸素を吸い込む。

 ここは安全だ。

 現実の理不尽な暴力も氷の美少女も存在しない俺だけのサンクチュアリである。パソコンの電源を入れていつものゲーミングチェアに深く腰掛ける。

 

いつの間にか時計の針は夜の八時を回ろうとしていた。

 今日は推しである猫宮ちゅんの雑談配信が予定されている日だ。

 三次元でどれだけ絶望を味わおうと二次元の天使はいつでも俺たちを優しく包み込んでくれる。

 それがVTuberという存在の尊さだ。


 俺は今日学校で犯した致命的なミスをすべて忘れるために配信の待機画面を開いた。

 『こんちゅん!みんなのアイドル猫宮ちゅんだよー!』

 定刻通りに愛らしい声がヘッドホンから流れ込んでくる。

 画面の中ではピンク色の髪をした可愛い猫耳の女の子がピョコピョコと動いている。

 これだ。

 俺が求めていたのはこの圧倒的な癒しなのだ。

 昼間のあの恐ろしい雨宮澪の顔がすーっと脳内から消えていくのを感じる。


 『今日もみんないっぱいコメントしてね!ちゅんリスナーさんのことだーいすきっ!』


 甘ったるい声にリスナーたちの歓喜のコメントが滝のように流れていく。

 俺も限界オタク特有の長文コメントを打ち込もうとキーボードに手を伸ばした。

 しかし今日の天使はどこか様子がおかしかった。


 『……でもね聞いてよみんな。今日ちゅんすっごくムカつくことがあったの』


 突然ちゅんの甘い声にドス黒い不機嫌さが混じった。

 画面の猫耳アバターもぷくっと頬を膨らませて怒っているモーションに変わる。


 『学校……じゃなくて。まぁその、知り合いにねすっごくキモい男がいるの。普段はネズミみたいにコソコソしてるくせに今日急に生意気なこと言ってきてさ!』


 俺のキーボードの上で指がピタリと止まった。

 嫌な予感がする。

 それも、とてつもなく嫌な予感が。


 『しかもねヘラヘラ笑いながら「お前の方が冷たい」みたいなこと言ってきたんだよ!マジでありえなくない!?あいつ絶対いつか呪ってやるんだから!』


 全身の毛穴からブワッと冷や汗が噴き出した。

 間違いない。

 それ俺のことだ。

 あの氷の美少女は三次元での怒りをそのまま二次元の配信に持ち込んでリスナーに愚痴り始めたのだ。

 俺が必死に構築しようとしていた二次元と三次元の壁が音を立てて崩れ去っていく。

 コメント欄は『ちゅんちゃんを怒らせるなんて許せない』『そいつ俺がボコボコにしてやるよ』といった同情と怒りの声で溢れかえっている。


 俺は推しに呪いをかけられ何万人ものリスナーからネットリンチの標的にされている状態だ。

 俺の愛する癒しの時間は完全に地獄の公開処刑場へと変貌してしまった。

 オタク哲学なんてものは現実の女子高生の怒りの前には無力だったらしい。

 俺は胃の痛みに耐えながらただ画面の前で震えることしかできなかった。

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