媚声
鈴木の謎の敗北宣言を最後に部室に再びだらけた空気が戻ってきた。
俺はパイプ椅子に深く背中を預けて天井のシミを見つめた。
三人の馬鹿馬鹿しい雑談をBGMにしながら俺の思考は再び隣の席の氷の美少女へと引き戻されていく。
雨宮澪イコール猫宮ちゅん。
俺を罵倒した「死ね」という殴り書きの筆跡。
彼女のカバンに揺れていた俺のお手製である内臓むき出しウサギ。
そして昨晩の行動を聞いた時の明らかな動揺と頬の染まり具合。
状況証拠は真っ黒だ。
俺の中では完全に彼女が愛する推しであると確定しかけていた。
……いや待てよ。
本当にそうか?
俺は少し冷静になって頭の中の情報を整理し直してみた。
「なぁ宇津見。昨日のちゅんちゃんの配信見たか。あのバイオハザードのゲーム実況最高に可愛かったよな」
山田が唐突に猫宮ちゅんの話題を振ってきた。
「ああ。ゾンビにビビって泣き叫んでる声が鼓膜に幸せだったな」
俺は適当に相槌を打ちながら脳内で雨宮の姿と昨晩のちゅんの声を重ね合わせてみる。
無理だ。
どう考えても絶対に結びつかない。
「ちゅんちゃんマジで天使だよな。あの甘えた声で『リスナーさん助けてぇ』とか言われたら全財産スパチャしたくなるぜ」
山田が限界オタク特有の早口で熱弁を振るう。
全くもってその通りだ。
猫宮ちゅんは極度の寂しがり屋でリスナーに甘えまくる純度百パーセントの天使なのだ。
対する雨宮澪はどうだ。
『は?なんで私があんたなんかに文字を書かないといけないのよ。意味わかんないんだけど。気持ち悪い』
『次変なこと言ったら本当に殺すから』
思い出すだけで寿命がゴリゴリと削られるような暴言の数々。
あんな親の仇に向けるような冷酷な目をする女があの天使の声を出すはずがない。
人間の多面性という言葉で片付けるにはあまりにもキャラクターの乖離が激しすぎるのだ。
冷静に考えれば別の可能性だって十分にあり得る。
たとえばあの手紙。
確かに筆跡は似ていたかもしれないがたまたま字の癖が似ているだけの全くの別人という可能性はゼロではない。
あの内臓むき出しウサギだってそうだ。
猫宮ちゅんが俺のプレゼントを親友である雨宮に譲ったのかもしれない。
あるいは事務所のスタッフが持ち帰ってそれを雨宮が偶然手に入れたという線だってある。
昨日の動揺した態度も単にキモい男子に突然休日の予定を聞かれて生理的嫌悪感からパニックになっただけかもしれない。
俺の希望的観測が勝手に全ての事象を都合よく結びつけてしまっているだけではないのか。
そうだ。まだ確定したわけじゃない。
俺はただの痛い勘違い野郎になっている可能性がある。
もし俺が「お前が猫宮ちゅんだろ」なんてドヤ顔で指摘して全くの別人だったらどうなる。
社会的な死どころか物理的に東京湾に沈められるかもしれない。
背筋にゾクッと冷たいものが走った。
「おい宇津見。聞いてるか。来週のちゅんちゃんの記念配信絶対にリアタイするぞ」
山田のやたらとでかい声で俺はハッと我に返った。
「あぁ、もちろん全裸待機だ」
俺は親指を立て、山田にそう返しつつ心の中で静かに誓った。
早とちりは絶対に禁物だ。
俺にはもっと確固たる決定的な証拠が必要だ。
明日からの学校生活で俺は雨宮澪をさらに深く慎重に観察しなければならない。
彼女が本当に俺の推しなのかそれともただの氷の悪魔なのか。
この身の安全を最優先に確保しつつ真実を暴くための隠密行動を続けるしかないのだ。
翌日の放課後。俺は一人で図書室の奥深くにある郷土史コーナーの影に身を潜めていた。
なぜこんなカビ臭い場所にいるのかといえば単純にクラスの陽キャたちの放つ眩しい光から逃避するためだ。静寂に包まれたこの空間は俺のような日陰者にとって最高のオアシスである。
しかし今日はいつもと少し状況が違った。本棚の隙間から見える窓際の席にあの氷の美少女こと雨宮澪が一人で座っていたのだ。
彼女はハードカバーの分厚い本を広げて静かにページをめくっている。窓から差し込む夕日が彼女の長い黒髪を透かして恐ろしいほど絵になっていた。ただ本を読んでいるだけなのにそこら辺のアイドル顔負けのオーラを放っている。近づくことすら許さない絶対零度の空気がそこにはあった。
やはり彼女があの甘えん坊でポンコツな猫宮ちゅんであるはずがない。昨日の部室で出した結論は正しかったのだと俺は再び自分を納得させようとした。
だが神様は俺にこれでもかと試練を与えたいらしい。開け放たれた窓から突然強い突風が吹き込んだ。バタンという爆音とともに風圧で窓が勢いよく閉まる。静まり返っていた図書室に心臓が止まるかと思うほどのけたたましい音が鳴り響いた。
俺の肩もビクッと大きく跳ね上がった。しかしそれ以上の信じられない現象が目の前で起きたのだ。
「ひゃんっ!?」
窓際の席から鼓膜がとろけそうなほど高くて甘い悲鳴が聞こえたのだ。それは完全に昨晩の配信でバイオハザードのゾンビに襲われた時の猫宮ちゅんの断末魔と一言一句同じイントネーションだった。
俺は自分の目を疑った。あの氷の美少女が両手で頭を抱え込んで机に突っ伏しガタガタと震えている。強がって耐えるでもなく舌打ちをするでもない。完全に小動物のような怯え方だった。
数秒後。自分がやってしまった致命的なミスに気づいたのか雨宮が恐る恐る顔を上げた。そして周囲をキョロキョロと見渡す。その目はうっすらと涙ぐんでおり普段の冷酷さなど微塵もない。俺は息を止めて本棚の影に完全に同化しようと努めた。
ここで目でも合ったらそれこそ俺の命がない。しかし無情にも彼女の視線が本棚の隙間から覗いていた俺の目とバッチリ交差してしまった。
時間が完全に停止した。雨宮の顔からスッと血の気が引き信じられないほどのスピードでいつもの絶対零度の表情へと切り替わる。いや普段よりもさらに温度が低い。殺気という言葉では生ぬるいほどのどす黒いオーラが彼女の全身から立ち上っていた。
彼女は無言のまま席を立ちズカズカと俺の隠れている本棚に向かって歩いてきた。逃げなければ。本能が警鐘を鳴らしているのに足が床に縫い付けられたように全く動かない。俺の目の前まで迫った雨宮は本棚にドンッと手をついた。いわゆる壁ドンというやつだがそこにラブコメ特有の甘い空気など一切存在しない。あるのは純粋な暴力へのプレッシャーだけだ。
「……いまの聞いた?」
地鳴りのような低い声が鼓膜を震わせる。彼女の顔が鼻先が触れそうなほど近い。至近距離で見る彼女の顔は息を呑むほど美しかったがそれ以上に恐ろしかった。
「な、なにも聞こえませんでした」
俺の声は完全に裏返っていた。雨宮は俺の目を射抜くように数秒間睨みつけるとチッと小さく舌打ちをした。
「もし誰かに言いふらしたらあんたの机の中に毎日呪いの藁人形を入れるから。わかった?」
呪いの藁人形というチョイスがいかにもオカルトチックで彼女らしいが今の俺にそれを笑う余裕はない。彼女の目が本気すぎて背筋が凍りつく。
「はい。絶対に誰にも言いません。雨宮様の仰せの通りに」
俺が狂ったように何度も頷くと彼女はフイッと顔を背けて足早に図書室から出ていった。残された俺はその場にへたり込み荒い息を吐き出した。冷や汗が止まらない。
確定だ。さっきまでの疑念は完全に吹き飛んだ。
あの悲鳴あの怯え方そしてその直後の完璧すぎる隠蔽工作。雨宮澪は間違いなく猫宮ちゅんである。推しと同じ空気を吸っているという感動よりも真実を知ってしまったことによる命の危機の方がはるかに大きい。俺の学園生活は推しの最大の秘密を握るという最も危険なステージへと突入してしまったらしい。




