考察厨
手元にある「死ね」と書かれたルーズリーフの切れ端を俺はそっと丁寧に筆箱の奥底に仕舞い込んだ。
傍から見ればただの悪口が書かれた呪いのメモ帳にしか見えないだろうが、俺にとっては違う。これは推しが直筆で書いてくれた神聖なアイテムであり、同時に彼女の正体を裏付ける決定的な証拠品なのだ。
心臓は未だに肋骨を突き破りそうなほどの勢いで早鐘を打っている。今すぐにでも机を叩いて、お前が猫宮ちゅんなのかと問い詰めたい衝動に駆られたが、俺は必死に理性を総動員してその気持ちを抑え込んだ。
もし万が一にも人違いだった場合俺は完全に社会的に死ぬ。何よりこの確信に近い疑問は一旦胸の奥深くに秘めておくべきだと本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
だがどうしても少しだけ探りを入れたかった。昨晩、俺の愛するVTuberである猫宮ちゅんは三時間にも及ぶ深夜の雑談配信をしていた。あの甘ったるい声でリスナーに愛を囁き続けていたのだ。
もし隣に座るこの雨宮澪が本当に猫宮ちゅんなら昨晩は間違いなくパソコンの前に座って配信をしていたはずである。俺は極度の緊張でカラカラになった喉を潤すように、一度深く息を飲み込んでから再び隣の席の絶対零度に向かって恐る恐る口を開いた。
「あ、あのさ。雨宮さんは昨晩何してたの?」
言葉が口から出た瞬間に取り返しのつかないことをしてしまったと強烈に後悔した。
普段全く話しかけてこないどころかまともに目も合わせないキモい男子が突然昨晩の個人的な予定を聞いてくるのだ。客観的に見ても完全な事案発生レベルの不審者である。
案の定雨宮のペンを動かしていた手がピタリと止まりゆっくりと首だけがこちらに向けられた。その視線には先程ルーズリーフを叩きつけられた時以上の、明確な殺意が込められていた。
「は?きも」
冷たく短くそして俺の脆弱な心臓を容赦なく抉るような鋭すぎる一言だった。当然の反応だ。俺だって逆の立場なら間違いなくスマートフォンを取り出して警察に通報しているか大声で助けを呼んでいる。
教室の温度が一気に五度くらい下がったような錯覚に陥り、俺は滝のような冷や汗を流してただ俯きかけた。
しかし雨宮は完全に俺を無視して前を向くわけではなく、何かを言いかけるように僅かに桜色の唇を震わせた。
「ぷ……」
微かな音が彼女の口から漏れた。ぷ?なんだそれは。
だが彼女はハッとしたように一度口を硬くつぐみ、急に落ち着きなく視線を泳がせた。
そしてあろうことかあの氷の美少女として学園中に名高い雨宮澪の白い頬がほんのりと赤く染まったのだ。俺は自分の目を疑った。クラスのトップカーストにいる男子たちが束になって告白しても眉一つ動かさずに冷酷に切り捨ててきたあの彼女が、目に見えて動揺しているのだ。
「……荷物を整理してたの」
彼女は視線を斜め下に逸らしたまま少し早口でそう言い捨ててプイッとそっぽを向いてしまった。明らかに動揺を隠して嘘をついている人間の態度だ。
普段の完璧で隙のない彼女からは到底想像もつかないほど不自然な言い訳だった。そのあまりにも予想外で可愛らしい反応に俺の極限まで張り詰めていた緊張の糸がほんの少しだけ緩んでしまったらしい。
俺は脳の検閲と口のフィルターを全く通さずに、何となく思ったことをそのまま空気も読まずに口に出してしまった。
「雨宮さんって部屋汚いの?」
深夜に荷物の整理に追われているということは普段から片付けができておらず、足の踏み場もないような部屋に住んでいるのではないかという純粋すぎる疑問だった。だが次の瞬間俺は自分の浅はかな失言を死ぬほど後悔することになる。
空気が完全に凍りついた。時間が止まったかのように錯覚するほどの静寂の後で、雨宮がゆっくりと再びこちらを振り向く。その顔には信じられないことに誰もが魅了されるような美しい笑顔が張り付いていた。
だが目は全くこれっぽっちも笑っていない。深海の底よりも暗く絶対零度よりも冷たい瞳が俺の命を確実に刈り取るように真っ直ぐに見据えていた。
「何か言った?」
地を這うような恐ろしいほど低い声だった。完璧な笑顔のまま放たれたその短い言葉には一切の人間らしい感情がこもっておらず純粋な恐怖だけが俺の全身の細胞を支配した。
俺は全力で首を横に振った。
首の骨が折れるかと思うほどの勢いだった。
「な、なななんでもないです独り言です」
声が裏返って情けない音が出た。
しかし背に腹は代えられない。
ここで少しでも反抗的な態度をとれば俺の学園生活は物理的に終わる。
雨宮は数秒間、その恐ろしい笑顔のまま俺を見つめていた。
俺の寿命がゴリゴリと削られていく音が聞こえる。
やがて彼女はスッと真顔に戻った。
「……あっそ。次変なこと言ったら本当に殺すから」
彼女はふいっと前を向き再び自分の机に視線を落とした。
助かった。
俺は机に突っ伏して深々と息を吐き出した。
制服のシャツの中は冷や汗でびっしょりだ。
氷の絶対零度は伊達じゃない。
あの威圧感は完全に裏社会のそれだった。
画面の向こうで「リスナーさん大好きちゅっちゅ!」とか言っている甘えん坊の猫宮ちゅんと同一人物とは到底思えない。
だが先ほどの露骨に動揺した態度。
そしてカバンに揺れる俺の手作り内臓むき出しウサギ。
状況証拠は完全に黒だ。
雨宮澪イコール猫宮ちゅん。
このとんでもない方程式が俺の中で確固たるものになりつつあった。
キーンコーンカーンコーン。
絶妙なタイミングでチャイムが鳴り、担任の教師が教室に入ってきた。
朝のホームルームが始まる。
俺は教科書を開くふりをしながら、横目で隣の席の雨宮を観察することにした。
「おーい、宇津見ー。まだ授業中じゃないから教科書出さなくていいぞー」
直接正体を問い詰めるような野暮な真似はしない。
もし人違いだったら完全に社会的に死ぬし、本当だったとしても絶対に嫌われる。
だから俺は秘密を胸に秘めたまま彼女を観察することにした。
愛する推しの真の姿を知ってしまったリスナーとして、彼女の生態を見守る義務がある気がしたのだ。
雨宮は頬杖をついて退屈そうに黒板を見つめている。
相変わらず近寄り難いオーラを放つ完璧な美少女だ。
しかしその時だった。
雨宮の左手が机の下でこっそりと動いた。
「宇津見ー?」
彼女の指先がカバンについているあの猟奇的なウサギのキーホルダーをそっと撫でたのだ。
しかもただ撫でるだけではない。
親指の腹でウサギの飛び出た内臓部分を愛おしそうに何度も何度もすりすりしている。
気のせいか口元がほんのわずかに緩んでだらしなくなっているように見えた。
「どうした宇津見。変な顔だぞ」
「先生!それいつものことでござるよ!」
間違いない。
彼女はこのキモカワグッズを本気で気に入っている。
あの熱狂的な手紙に書かれていた「毎日持ち歩きたいくらい愛おしい」という言葉は決して嘘ではなかったのだ。
俺の胸にじわじわと温かいものが広がっていく。
現実の彼女は恐ろしく冷たい。
一歩間違えれば社会的に殺される危険すらある。
だが俺の作ったグッズを誰にも見えないところでこっそりとあんなにも大切に愛でてくれている。
その事実だけで俺の心は救われたような気がした。
「先生の話聞いてるかー?」
俺は静かに決意した。
彼女が猫宮ちゅんであるという秘密は絶対に墓場まで持っていく。
そして最古参の厄介リスナーとして、現実世界でも彼女を密かに推し続けようと。
俺と隣の席の氷の美少女による歪で危険な日常が今ここから始まろうとしていた。
「宇津見。後で職員室来てな?」
「え?あ、はい。ん?」




