明日になれば
「……なんで?」
そんな呟きを聞いたのは俺がちょうど靴を履き替えたところで、夕日差し込む下足室でのことだった。振り返れば女が首を傾げている。知らない後ろ姿だ。さして長くもない黒髪をアップにしていて、綺麗なうなじが透けて見えた。
なんの変哲もない、下校時間の風景。
風が入り込んで女の影を揺らした。
女は相変わらず呆然と自分のロッカーの前で佇んでいる。
俺は下足室を後にした。
もう一度「なんで?」と呟く女の声を耳に残して。
*
俺が異常に気が付いたのは、翌日のホームルームでのことだった。
いつものように少し遅れて席に着いた俺は、何の気なく黒板の頭上に掲げられた時計を見上げて、奇妙な違和感に襲われた。
始めは止まっているのかと思った。アナクロじみた針時計はでたらめな時刻を差している。概ね四時十五分。昨日の放課後辺りで電池が切れたか、一晩かけて寿命をすり減らしたか、どちらにせよ気に留めるようなものではない。しかし秒針のないそれが、ガチンと音を立てて分を刻み直すのを見て、俺は自分の片頬が歪むのを感じた。
針は上向きに跳ね上がった。目盛りを正確に読むと、針の形では現在四時十四分。秒針はくるくると左回りに――反時計回りに動き始める。
感心した。やろうと思えば出来るかもしれない程度の、地味すぎる悪戯だった。その小粋な感性に心打たれた俺は、ニヤついているだろう仕掛け人を探して教室を見回した。
が、一人として時計など見やしていない。担任は既に次の授業にでかけ、雑談する奴、呆けている奴、ノートに何やら書き付けている奴、それぞれがいつも通りの朝を過ごしていた。俺は少しだけ落胆して、隣席で寝こけている芝野を揺り起こした。
芝野は迷惑そうに顔を上げる。実に恨みがましい目付きは、もちろん八つ当たりに違いない。俺は楽しい気分のままに話しかけた。
「なあ芝野。友達の少ないお前にはわからんかもしれんが、一応聞いておくとだな。あれは誰の仕業よ」
芝野はますます不機嫌そうに眉を顰めた。
「……何の話。それと携帯の登録件数はお前より多い」
「親戚が多いだけだろうが。まあいいけど。それより時計だよ時計。逆さまになってるだろ?」
「はあ。逆さま。……どこが?」
まだ寝ぼけているのだろう。芝野はぼんやりと口を開けて時計を眺めた。勘の悪い女に妙な憎らしさを感じて、俺は芝野を急き立てた。
「だから、反時計回り。逆転してるの、見てわかるだろ。あれを誰がやったのか聞いてるの。俺は」
だが芝野はそんな俺には呼応することなく訝しげにしている。
「言ってる意味がよくわからない。何か勘違いしてないかお前」
「ああもう。腕時計だしてみろよほら」
俺は芝野の腕を取り、文字盤に指を突きつけた。
「これとは反対に針が回ってるだろ。普通は針は右回りをしていて……ああ?」
しかし俺の目に映ったのは、教室の時計と同じ、逆さに回る針だった。
怪訝そうにしていた芝野は本当に不愉快になったようで、乱暴に俺の手を振り払った。
「なに。お前がやったの? あれ」
まさかと思って聞いてみても芝野は反応せず、机に伏せてしまう。俺は自分の携帯を取り出して、時計の表示をアナログに切り替えた。音もなく描画される秒針は、当然とも言うべきシュールさで左に回る。
俺は首を捻って考えた。
この俺が、不思議の国のアリスかよ。
堪えきれず噴き出す俺に、芝野が一つ小さな舌打ちをした。
*
その比喩が正解に近かったのを知るのに、そう時間はかからなかった。
なにせ登校する度に不可思議な変化があるのだ。
瑣末なことから挙げていくと、時間割が俺の記憶とは違っていたり、パンの納入業者が変更されていたり、俺の机の木目が人面になっていたりした。他にも、保健室の色調が赤で統一され、黒板が観音開きになり、グラウンドに小学校よろしく遊具が設置してあった。
かなりアクロバットなものもある。
ある雨の日、校舎の屋上が取り払われていた。無論教室は土砂降りに晒されて、水捌けの悪い廊下から階段にかけて滝が流れていた。どうやって授業をしたのかというと、俺以外の全員がレインコートを羽織っていた。なんでも、入学の折には必須備品として購入しなくてはならなかったらしい。生徒手帳にも書いてある。が、残念ながら俺はそんなものに目を通したことなどなかったので知る由もない。
別の日。窓という窓からロープが下げられていた。目を凝らさなくてもわかったが、念のため観察すると、どうやら上下階の移動手段であるらしい。生徒は自分の教室の真下にたどり着くと、一人一人列を成してロープをよじ登っていく。一階の連中も律儀にロープを手に取り窓を乗り越え教室に入る。流石に馬鹿らしくなって中央玄関に向かうと、施錠されていた上に張り紙がしてあった。
――横入り危険!
不思議なことにそれらは、翌日には全く正常に、元通りになっているのだ。昨日のことなど誰も覚えておらず、また気が付きもしない。最初の日に見つけた時計は当たり前に時計回りに戻っていた。
異常だけが何食わぬ顔で潜んで消える。
なぜ俺だけが自覚できるのか。その疑問は後回しにして、俺は心からこの事態を楽しんでいた。
笑う以外の術が見つからなかったのではなく、楽しまなければ損と思ったのが正しい。
だからこの時、俺は廊下でヒステリックに叫ぶ女を無視しようと思った。
極彩色の油絵が壁中に描かれた廊下で、女は奇抜な髪形の数学教師相手にがなりたてていた。声ばかりが響いて内容はわからない。ただ周囲の注目は相当に惹いているようで、野次馬が集まりだしていた。またぞろ面白いことがあるのかと、俺はそのうちの一人に話しかけた。
「何事?」
「桐山がマツシゲに言いがかりをつけてる」
なるほど、そのままだ。
変な髪型のせいで人相が変わっているが、あの嫌らしい半笑いは数学教師マツシゲ独特の表情だった。詰め寄っているのは桐山と呼ばれた女である。
「どんな言いがかりよ?」
「んー、なんか、昨日まではそんな髪型じゃなかったのに、だって。マツシゲずっとああなのにね」
俺はとりあえず笑っておいて、女をよく観察することにした。
桐山はよほど興奮しているのか、ほとんどくっ付くようにしてマツシゲに迫っている。気が強いのだろう。横から見る限りでは、一度も視線を逸らしていない。自分の正しさを確信しているようでいて、逆に不安を押し隠そうと強がっているようにも見えた。
俺はある予感を抱いて考える。
もしここで桐山の味方をしたなら――。
想像するまでもない。
何も変わらないだろう。
仮に桐山が俺と同様、この事態を自覚しているとしても、それがわかるだけだ。
解決する手段などないし、第一俺は楽しんでいる。桐山の様子からして、俺とは意見が平行線だろう。不毛な話し合いを持つ気にはなれなかった。
それでも俺は、境遇だけなら俺と同じかもしれない桐山に同情した。
「マツシゲ先生、あれっすよ。桐山さん、先生がちゃんとした髪型なら格好良いって言いたいんですよきっと!」
マツシゲは一旦真顔になったが、すぐに口元を吊り上げた。わざとらしく毛先を撫でながら桐山を流し見る。
「そうかあ。でも先生はこれが一番似合うと思って、十年前からずっと――」
「だから、そんな変な髪型なんて一度もしてこなかったじゃないですか!」
笑いに沸きかけた観衆を桐山の金切り声が掻き消した。半端な助け舟は失敗だったらしい。といっても俺は別に後悔するわけでもなく、ただ黙って桐山を見ていた。
「大体おかしいんですよ、ずっと! 校則がいきなり変わってたり、体育館が鏡張りにされてたり、私が誰かの彼女になってたり……。この廊下だって、みんな変に思わないの!? ありえないじゃない! おかしいよ、絶対おかしいよ……」
ついに泣き崩れ、桐山は座り込んだ。友人らしき女生徒が駆け寄って「大丈夫だよ」と的外れな慰めをかける。マツシゲは困惑しているのかオロオロとして周りを見回していた。
ともあれ、桐山の問題は解決しなくともこの場の騒ぎは治まるだろう。散らばりだした野次馬がそれを示していた。あとは保健室にでも連れて行かれて、適当な処置を教師がして終わりだ。早退させられるか寝かしつけられるか。いずれにせよいつもと同じように、明日になれば誰もが忘れている話だった
俺を除けば。
こみ上げてくる笑いを抑え付けて俺は足早に立ち去った。楽しくて堪らなかったからだ。背後からは嗚咽混じりの桐山の呟きが聞こえる。「なんで……?」とのそれはいつかの繰り返しのようで、振り返ると桐山の綺麗なうなじが黒髪の隙間からわずかに覗いた。
*
その翌日、耳まで真っ赤にした芝野が朝一番で俺に囁いた。
――腹に、俺の子がいるという。
端的に言って、奇想天外だった。
「お前の子です。責任は……頼むよ」
「はああっ!? ざっけんじゃねえぞ! 手前がどこの誰に股開こうが知ったことじゃねえが、俺が種付けた覚えはねえ!!」
俺が机を叩きつけると教室は静まり返った。芝野はそれこそ初めて見せる――傷ついた顔で俯いた。
周りからわらわらと女共が湧き出してきて俺を睨みつける。それらの口から罵詈雑言が垂れ出る前に、俺は思い切り机を蹴り飛ばした。
芝野の肩が震える。すがるような目が俺に向けられた。
「だって、お前が無理矢理、したんじゃないか」
泣き出すのを我慢しているのか、しゃくりあげながら訴える芝野の空言を俺は完全に無視した。なぜなら、俺には芝野と寝た記憶などないからだ。仲は確かに悪くはないが、断じてそういう関係ではない。芝野とは――青いと笑ってくれて構わない――男女関係なく付き合える相手だと、俺は思っていた。
だから、こんな生臭い冗談に俺を巻き込もうとする芝野が許せなかった。事情があるなら先に相談してくれれば、狂言にでも何にでも付き合うというのに。
俺が歯噛みした瞬間、視界が回転した。
横合いに殴りつけられたとわかったのは、無様に転がった俺のツラに唾が吐きかけられたからだ。
這いつくばったまま顔を上げると、クラスでも目立つ、爽やかスポーツ野郎の橋本の軽蔑しきった眼差しが目に入った。
「糞が」
それは俺の台詞だ。
身体を起こそうとする俺の腹に今度は足蹴りが入る。膝の力を奪う重い蹴りだった。続けざまにもう一撃。息を吐いたところに鳩尾を狙われた。
こいつ。爽やかなのは見せ掛けだけのドS野郎だったか。
呼吸が出来ず丸まる俺は、薄笑いを浮かべてキックの体勢を取る橋本と、俺に覆い被さる影を見た。
鈍い音がする。耳元で一つ苦し気に呻く声が聞こえた。
痛みではなく体重を感じる。鼻腔に入り込む髪と香水の匂いは芝野のものだ。
誰かが悲鳴を上げる。甲高く耳障りなそれが尾を伸ばしきると、どよめきと狼狽した呻きが場に取り代わる。
だが俺の意識は一つ所から動かない。眼前で、芝野が痛みに耐えていた。
俺が目を見開いているのに気が付くと、明らかに無理をして芝野は笑顔をつくる。
「……大丈夫。混乱してるだけだろ。知ってる。わかってるから」
駆けつけてきた担任が群がる女共を押し退けて芝野を俺から引き剥がした。
それでも芝野は俺から目を離さず、
「信じてる」
慈母のように微笑んだ。
重苦しい空気の生活指導室に、芝野の無事が知らされた。
身重ということもあって、芝野は念のため病院に搬送されていたが、母子ともに強打の影響は受けなかったとのこと。
学年主任は長く嘆息すると、俺に正座を解くように伝えた。
何から説教すべきか迷ったのだろう。
少し間をおいて、学年主任は俺に命の大切さをとうとうと語りだした。
俺はもちろん聞き流している。端から存在していない生命など気にかけるつもりはなかった。
ただ頭には芝野の言葉とあの表情があって、下手な怪我をしなくてよかったと、これは心から安堵した。
生活指導室で学年主任の戯言を聞いているのは俺一人だった。爽やか野郎の橋本はお咎めなし……というわけでもなく、事情を慮って別室で聴取をされている。俺の観点で言えば悪いのはでしゃばったそいつだけだった。それなりの処分がくだされるだろう。
この頃になると俺の頭は冷えていて、大体の事情は推察できるようにはなっていた。
何の問題もない。これも、例の『異常』の枠内に収まる出来事だ。今までにないパターンではあるが、昨日の桐山は言っていた。
――私が誰かの彼女になってたり
つまりはそれだけの話。桐山の体験が一日遅れで俺を襲ったわけだが、確かにこれには気が滅入る。目に見えづらい変容に牙を剝かれるのはたまったものではい。
しかしながら――。
俺は学年主任の左手に目を向けた。小指には年季の入ったリングがはめられていて、童貞と噂されていたこの男にはまったく似つかわしくないものだった。今朝、担任が同じデザインのものを付けていたのを俺は見逃していなかった。
「先生。うちの担任とはどうですか。いえ、変な意味ではなく、これからの自分の姿勢として、参考にしたいと思いまして」
そう言うと主任はとたんに顔を崩して、のろけ付きで結婚生活での心がけをまくし立てだした。この場においては不謹慎な話題だったが、もとが生徒想いのこの男、親身な気持ちになったのだろう。
俺は心の中でニヤつきながら、真摯に頷いてみせる。
そう。注意深くさえあれば、こんな風にも楽しめるのだ。
悪くない変化と言えた。
トイレに行くと嘘をついて指導室を抜け出した俺は、階段に座り込んで肩を落とす橋本を見つけた。
俺と同じように抜け出て、呼び出された親がくるまで一息いれているのだろうか。
幸い橋本は俺には気付いていない。
俺は静かに背後まで近寄って、橋本の頭の上から囁いた。
「糞変態が」
背骨と垂直になるように狙いを付けて、押すように蹴り落とした。
意外に、派手な音はしなかった。
ゴムの塊を何度も叩きつけるような、鈍い響き。
踊り場まで転がったそれは、最後に壁に頭を打ち付けて動かなくなった。
いやいや大変だね、キミ。でも安心しろよ。どうせ明日になれば――。
「元通りだろ? ははっ」
俺はヒラヒラと手を振って、別れの挨拶をした。
帰って寝れば、元通り。
*
朝一番。教室では、不機嫌な芝野が出迎えてくれた。昨日の雰囲気はどこへやら、俺が珍しく愛想よく話しかけてもぶっきらぼうに受け流す。
「ガキはどうだ。いい名前が思いつかなくて困ってる。俺とお前のから一字とると誰も呼んでくれそうになくてなぁ」
「……あ? 何の話」
安心させてくれる返答だった。
橋本の姿はなかった。が、俺は今朝階段に奴の死体がないことを確認している。芝野の様子からしても俺の読みは間違っていない。そのうち元気なツラを見せてくれるだろう。
俺は安穏とした心持ちで椅子に座り込み、ホームルームが始まるのを待った。
しばらくして、チャイムではなく絶叫が聞こえた。
すぐ近く、壁を隔てた廊下側だ。飛び出していく野次馬に紛れて廊下を覗くと、桐山がへたり込んでいた。また妙な物を見つけたのだろうか。腰を抜かしているようで、両手で何とか身体を支えている。せっかくだからと一番良い席に陣取ると、桐山の目の前に戸惑った様子の橋本がいた。
ただし、まともな形ではない。
まず制服は滅多らに汚れているし、ボタンを逐一掛け違えている。
少し背が低いなと思えば、足が折れているのか上手く直立できていない。
肩は右側がずり下がっていて、右手は力なく垂れ下がっているせいで妙に長く見えた。
しかし何よりも、首。
産まれたてでもまだマシと言えるくらいに座っていない。
呼吸する度にぐるぐる回るそれは、明らかに背骨と繋がっていなかった。
しかし不思議なことに――ちゃんと、生きていた。
ゴウゴウと重苦しい呼吸音を立てながら、桐山に話しかけている。
「な、何かしたか、ォおお俺?」
橋本は唾液と痰で詰まりながらも桐山に喋りかけている。桐山に歩み寄ろうとして転び、起き上がろうとして倒れこんだ。
誰一人手を貸そうとしない。それどころかみんなして、桐山を見ていた。何を驚いているんだろう。そんな呟きすら聞こえてくる。
桐山は声も出せずに後ずさり、俺の足元で行き止まる。瞬間跳ねるが、俺の顔をみて――ちゃんとした人間の顔だと認識して、俺の足を掻き抱いた。
「た、たすけ――」
助けて? それは、どっちを?
俺は聞くこともしないで、代わりに桐山の両肩に手を置いた。
「よくわからんけど、橋本。俺、この子保健室に連れてくから、先生に言っといて」
橋本は多分頷いたのだろう。頭を振り回して、教室に這い寄っていった。
廊下に擦り付けられた血が、まるでナメクジの這った跡のようだと俺は思った。
「あ、あ、あ……」
まだ動転している桐山の肩から手を離し、俺はしゃがみこんで目線を合わせた。
「大丈夫? 立てる?」
桐山は口を半開きにして首を左右に振った。いつか見た気丈な雰囲気とは正反対で、つい優しい気分になってしまう。
橋本の惨状が想定外過ぎて、俺自身混乱していたのだろう。気が付けば俺は桐山に肩を貸していた。ショック状態の桐山は素直に身体を預け、黙りこくっていた。
桐山は思いのほか軽く、女史特有の柔らかさがあった。半ば抱きかかえるようにしても文句一つ言わない。悪戯心が湧かないでもないが、するべき会話も思いつかず、俺は黙って桐山を運んでいた。
途中、昨日の階段に差し掛かる。朝は綺麗なものだった階段にはところどころ血痕が付着し、橋本の登校の跡が残されていた。
どうやら俺が見つけた法則は一部だけだったらしい。悪いことをしたかなと思ってはみても、今更俺に出来ることなどない。溜息が出た。
「どうしたの……?」
桐山が不安さを滲ませて聞いた。いつの間にか自分を取り戻していたらしい。
「いや、別に。たいしたことじゃない」
「よかった。重いのかなって」
「定型文かよ。軽いとしか言えなくなる」
桐山は少し笑って、俺から身体を離した。
「一人で歩ける」
「そ。んじゃ気をつけて。階段でこけると洒落にならない」
俺は簡単に挨拶をして桐山に背を向けた。
「ねえ」
「何?」
「もしかして、私のこと知ってるの?」
突然の問いかけに少し考えこんだ。俺が桐山に一方的な面識があるだけで、会話したこともない。なにかボロでも出したかと不安になるが、心当たりはなかった。
「知ってるもなにも、一組の人でしょ? 顔はわかるよ」
「それはそうなんだけど……」
どこか納得がいかないように桐山はうつむいた。
俺を仲間だと思っているわけではないだろう。ただ勘がいいのか、誰でもいいから不安をぶちまけたいのか。
心の中でやましさが首をもたげた。
手助けをしたい気もする。しかし――。
桐山に向き直ると、あいつの這い跡が目に入った。
俺は自分の行為を告白する気にはなれなかった。
「前にマツシゲに言いがかりをつけているのを見た。それだけ」
「そう……。ごめんね、変なこと言って」
「いや、慣れてる」
桐山との会話はそれきりだった。
橋本の足に添え木を当ててやると、なんだか動きやすくなったと感謝された。
芝野は相変わらず素っ気なく、一連の出来事に興味もないらしい。
俺はといえば、少し疲れを感じている。楽しめるか楽しめないかはおいといても、この事態に食傷気味なのかもしれない。
いっそ桐山に告白して協力してみるかと考えるが、どうやったって柄ではない。なら結論は様子見しかなかった。
ただし、しばらく休みたい気分だった。
幸い来週の頭に連休があり、今日からサボれば一週近く寝て過ごせる計算になる。
俺は鞄を取り、誰にも言わず教室を出た。
*
それから数日が経った朝、電話の音で目が覚めた。
寝ぼけ眼で画面を見ると、芝野結衣と表示されている。そういえばこいつ名前だけは女らしかったなあと、下らない感想が間延びした。起き抜けはいつもこうで、特に夜更け過ぎまで遊んだ朝は目覚めるのが億劫に思えてくる。だがあまり連絡を寄こさない人間からの着信に興味を惹かれたのと、長々と鳴る着信音に根負けして、結局は通話ボタンを押した。
その結果として俺は駅ビルのオープンテラスで芝野と向い合せに座っていた。
異常事態の解説をしてやるという芝野は、開口一番に簡潔に告げた。
「異常はね、解決したんだよ。もう何も起きない」
「はあ?」
「言葉通りの意味」
「……わかるが。何でお前がそれを? てえか、なんで? 俺が休んでる間に何が?」
「桐山が決着をつけたんだ。たった一人で」
芝野が語るところによると、全校生徒すべてが俺と同じ状況にあったらしい。
つまり、明らかに異常が起きているのに周囲は何の反応もない。ごく当たり前に、異常を当然として生活している。
これはおかしいと訴えかけても、仲の良い友人ですら自分を狂人扱いする始末。酷い苦境に置かれても家族すら助けにはならず、一歩も部屋から出ない生徒もいたそうだ。
その状況が変わったのが三日前のこと。桐山が宣言をしたそうだ。私が謎解きと解決をしてみせるから、と。
「桐山がどうやったのかは知らない。ただ、上手くはいったみたい。学校でみんなして肩を抱き合い涙を流してた」
そっちのが異常だと思うがな。
俺は独り言を呑み込んだ。
「謎解きは正直、理解が難しい。あたしはSFは苦手で――」
平行世界だとか次元のうねりだとか、そんな単語が飛び交っていたそうだ。俺はそれなりに教養があるので、芝野が思い出しながら語る内容を、なんとなくだが理解できてしまった。
平行世界というのは交わらない縦糸が何本も並んでいるようなものだという。それが今回は何らかの拍子で絡まってしまった。桐山がやったのはみんなの移動してしまった糸をつまんで、解きほぐしたということだろう。簡単に言えば。
「しかしまあ……あれだな。一言でいえば、壮大でチープだ。あと馬鹿らしい」
俺の感想に芝野は同意したようで、まったくだと頷いた。
「あたしはちょっと惜しい気もしたけど。お前が顔を真っ赤にして告白してくるシーンなんて、今後見れそうにない」
「なんだそりゃ。おい詳しく教えろ」
「ふふっ、今日付き合ってくれたら話してやるよ。でもその前に――」
芝野はそう言って俺の手を取った。
振り払おうかと思ったが、たまには悪くないかと思い直す。芝野がどんな表情をしているのかを確認しようとした俺は顔をあげた。
誰もいなかった。
ゴウッと重い風が吹いて、視界が塗り替わる。
気が付けば俺は一人で教室の席に座っていた。
いや、一人ではない。背後から肩を掴まれている。
「その前に聞きたいんだが」
唾液と痰で詰まったような男の声がする。ゴウゴウと音を立てひどく聞き取りづらい。
俺はその声に聞き覚えがあるように思えたが、そいつがここにいるわけがないと否定したくてたまらなくなった。
「なんでお前は、あんな酷いことができたんだ?」
肩ごしの影が、折れ曲がった首を振り回していた。
*
飛び起きる。
異様に寝汗をかいている。シーツを剥ぐと、まだら模様に汗染みが出来ていた。
ベッドから降りる気力も湧かず、俺はうなだれた。
夢にしてはあまりに酷い。残滓を振り飛ばそうと頭を振るが、嫌な気分は抜けなかった。
閉め切った部屋は暗く、空気が淀んでいる。窓でも開けるかとベッドから這い出た際に携帯を蹴っ飛ばしてしまい、その拍子に画面が点灯した。
画面には芝野結衣の名前。着信のあと、いくつかの通知。
『たすけて』
汗まみれでも、背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
血糊のついた階段を駆け上がる。ところどころ落ちている塊は、もしかすると肉片かもしれない。そいつが這ったであろう痕跡はどこまでも続いているように思えた。
芝野に何があったのかは知らない。
だから別にこの肉片の持ち主が悪役というわけでもないが、夢の記憶と相まって第三者的な被害妄想が膨れ上がる。
肉片を思い切り蹴飛ばすと嫌な音を立てて壁に付着した。
もちろん俺は夢と現実を混同などしていない。
夢で会った芝野はただの幻だ。
俺はサボってる間は殆ど寝腐っていたし、遊びにいくのも深夜。学校の知り合いになど顔を合わせていない。
ただなんとなく芝野の手が。
ほんのわずかに触れ合ったあの手の感触を、俺は忘れることはできなかった。
教室の扉を乱暴に開けた。
そこではクラスメートたちが裸体を晒し、絡み合い、艶めかしい嬌声を上げている。黒板には自習の二文字。授業用の大型液晶には、学年主任と担任が映し出されていた。
俺は、何を見ているのだろう。
理解している筈なのに心が追いつかなかった。
「……芝野。芝野は?」
それでも俺の足は教室に踏み入るのをやめなかった。声が震えるのを自覚しながらふらふらと歩く。誰も俺のことなど気にしていない。夢中で喘いでいるだけだ。
不意に俺の腕が引き寄せられた。撫でるような指使いに粘着質な嫌悪を感じながらも、その温かさには覚えがあった。
「待ってた」
芝野はほとんど半裸のまま俺の手を抱きしめた。
「芝野、お前――」
「子どもが欲しいんだ。だから、ねえ――」
俺は芝野の濡れた声を最後まで聞けなかった。腕を振り解き、突き飛ばし、わけのわからない叫びをあげた。
もつれる足を無理やり動かして、俺は逃げ出した。
なんで。
なんでこんなことになったのか、わからなかった。こんなものをこれ以上見ていられない。拳を握り締めると、べた付いた液体が音を立てた。
俺は桐山のクラスに走った。
桐山ならこんなものに巻き込まれていない筈だった。そう、真っ当な感覚で、俺と現実を共有し、この事態を打開すべく手を取り合えるのだ。その筈だ。その筈なんだ。
俺は桐山を捜した。
――教室にはいなかった。
助けてくれと頼みたかった。
――下足室は靴が散乱しているだけだった。
俺が悪かったと謝りたかった。
――中央玄関を出た。
桐山が落ちてきた。
*
驚く間もなく、俺は赤黒く染められる。
桐山の頭が弾けるその一瞬、目が合った。
虚ろな目は俺を見ていなかった。
……俺は桐山の死体を眺めている。
黒髪が解け、うなじが変わらず綺麗だった。
それを見ていると、ふと下らない考えが浮かんだ。
明日になれば。
このひしゃげた桐山も、何食わぬ顔で登校してくるのだろうか。
俺は笑おうとした。
なのに笑えなかった。
いつまでも笑えなかった。




