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救われた聖女の幸福

作者: 榎本モネ



 リズが目を覚ますのは、いつも夜明けより少し早い時間だった。

 東向きの小窓から差し込む光は弱く、壁に貼りついた湿気を追い払うには足りない。古い屋敷の北端、使用人部屋としても放置された区画に割り当てられたこの小部屋は、朝になっても薄暗いままだった。


 寝台と呼ぶにはあまりに粗末な木枠の上で、リズは身を起こす。軋む音が響くたび、誰かに聞き咎められないかと息を潜める癖が、すでに身体に染みついていた。


 窓の外から聞こえるのは、鳥の声と、遠くの馬車の音。それらはすべて、この屋敷とは無関係な世界の営みのように思えた。


 リズは洗面桶に残った冷たい水で顔を洗い、ひび割れた鏡を一瞥する。淡い栗色の髪は手入れされることもなく、肩のあたりでばらばらに跳ねている。目の下には薄い影が落ち、年相応の柔らかさはどこにもなかった。


 ――今日も、始まる。


 それは希望でも決意でもなく、ただの事実だった。


 階下へ降りると、すでに朝の準備は始まっていた。

 とはいえ、それはリズのためではない。


「遅いわね」


 冷たい声が背中に刺さる。

 義母――この屋敷の女主人は、香油の匂いをまといながら、広間の中央に立っていた。まだ食卓に並ぶ料理は半分も揃っていないが、彼女の視線はすでに不機嫌に曇っている。


「申し訳ありません」


 反射的に頭を下げる。理由はどうあれ、謝罪が先だ。

 義母は鼻で笑い、顎で指示を出す。


「ユーフィリアのドレスがまだ整っていないでしょう。朝食の前に、裾をもう一度確認しなさい。それから床。昨日、埃が残っていたわ」


「はい」


 返事をしてから、顔を上げないまま動き出す。

 床の埃など、夜のうちに何度も拭いた。それでも「残っている」と言われれば、残っているのだ。


 妹のユーフィリア――正確には、父の私生児であり、義母の連れ子である少女は、すでに食卓の椅子に腰かけていた。淡い色のドレスに身を包み、焼き菓子をつまみながら、退屈そうにあくびをしている。


「ねえ、お姉さま」


 わざとらしい声で呼ばれ、リズは手を止めた。


「何でしょう?」


 返事をすること自体が、許されているのかどうか一瞬迷う。


「今日の髪、変じゃない? ここ、ちょっと跳ねてる」


 指差された先は、完璧に整えられた編み込みだった。

 跳ねている場所などない。


「……直します」

「もういいわ。どうせあなたにやらせると余計おかしくなるもの」


 くすくすと笑う声。

 それに同調するように、父が新聞から顔を上げた。


「朝から騒がしいな」

「リズがまたのろのろしているだけですわ」


 義母の言葉に、父はちらりとリズを見る。

 その視線には、怒りも関心もなかった。ただ、邪魔なものを見る目だった。


「お前は本当に要領が悪い。ユーフィリアを見習え」

「……はい」


 その言葉を、何百回聞いただろう。

 母が生きていた頃、父はこんな口調ではなかった――そう思い出そうとしても、記憶はもう曖昧だ。


 朝食は、妹と両親が先に取る。温かいスープと柔らかなパン。果物と蜂蜜。

 リズが食卓に呼ばれることはない。残り物を皿にまとめ、台所の隅で立ったまま口に運ぶ。

 何も食べられない日々よりはマシだ。


 屋敷の仕事は尽きない。

 洗濯、掃除、倉庫整理、義母の雑用。


「人前に出る必要はないでしょう」


 義母はそう言って、外出を禁じた。理由は明白だった。この屋敷の「娘」として、リズは存在しないことにされている。

 近隣の貴族の集まりにも、妹だけが連れて行かれる。リズは窓辺から、馬車が去るのを見送るだけだ。


 昼下がり、指先の皮がむけるほど水仕事をしたあと、ようやく一息つく時間が訪れる。

 それは休憩ではない。ただ、次の命令が来るまでの空白だ。


 リズは中庭の隅に腰を下ろし、膝を抱えた。

 陽は当たらず、風も冷たい。それでも、屋内よりは息がしやすい。


 ――私は、ここにいていいのだろうか。


 ふと、そんな考えが浮かぶ。答えは出ない。考えること自体が、無意味だと分かっている。

 母が亡くなったあの日から、リズの居場所は失われた。

 父の視線は妹だけを追い、義母の言葉は常に棘を含んでいる。


 叩かれる理由は、いつも些細だった。

 床に水滴が残っていた、返事が少し遅れた、視線が気に入らない。

 昨日もそうだった。腹の虫が悪かった義母は、突然怒鳴り、リズを突き飛ばした。

 床に倒れ、肩を打ち、息が詰まる。


「その顔が気に入らないのよ」


 リズの顔は紫色の瞳以外は、母の生き写しだ。それが気に喰わない義母は何度も何度もリズを折檻した。

 何度蹴られても、リズは声を上げない。叫べば、さらに酷くなると知っているからだ。

 ただ、耐える。それが、ここで生きる唯一の方法だった。


 夜。

 屋敷が静まり返る頃、リズは再び小部屋に戻る。


 身体は重く、指先が震えている。

 それでも、今日一日をやり過ごしたことに、どこかほっとしている自分がいた。


 ――いつか、ここから出られたら。


 思うだけなら、許されるだろうか。

 そんな淡い願いは、すぐに胸の奥へ押し込める。


 希望は、持たない。

 期待は、裏切られる。


 それを、リズはもう知っていた。


 小窓の向こうで、月が雲に隠れる。

 屋敷は変わらず、灰色のままだった。



 その日、屋敷に来客があると告げられたのは、昼を少し回った頃だった。


「教会の……使者?」


 義母は聞き返し、手にしていた扇子を止めた。

 報告に来た使用人は、落ち着かない様子で何度も頷く。


「それと……王宮からの方も、ご一緒だそうです」


 一拍の沈黙。

 次の瞬間、空気が変わった。


 父は椅子から腰を浮かせ、義母は音を立てて立ち上がる。

 教会と王宮。その二つが並ぶこと自体、この屋敷にとって異常だった。


「……何の用かしら」


 義母の声は慎重を装っていたが、瞳の奥にはかすかな動揺が浮かんでいる。

 一方、父は眉をひそめる。

 思い当たることがないわけではないが、どれも表に出していい話ではなかった。


「ユーフィリア!」


 義母はすぐに声を張り上げた。


「はい?」


 明るい返事とともに、ユーフィリアが姿を現す。

 淡い色のドレスを揺らし、状況をよく理解しないまま首を傾げる。


「教会の方がいらっしゃるの。身なりを整えなさい」

「教会? どうして?」

「いいから。急いで」


 義母はそれ以上説明せず、使用人に指示を飛ばす。

 ユーフィリアは不思議そうにしながらも、すぐに奥へと連れて行かれた。


 そのとき、父がふと思い出したように言った。


「……あの娘は?」


 義母の動きが、一瞬止まる。


「リズのことですか」

「今日は、姿を見ていないが」


 短い沈黙。

 義母は扇子を畳み、何事もなかったように言った。


「さあ。どこかで掃除でもさせているのでしょう。あの子は放っておいて構いません」


 昨日は虫の居所が悪く、リズをひどく痛めつけた。血を流し気を失ったあの娘は、使用人に命じて地下倉庫に放り込んでいる。

 義母が何食わぬ顔をしていると、それ以上、追及しなかった。もともと、リズの所在など、日常的に気に留める対象ではないのだ。


 ほどなくして、正面玄関が開かれた。


 教会の正装に身を包んだ中年の男。その後ろに控える数名の従者。

 そして、ひときわ目を引く若い男が一人。


 王宮の紋章を胸元に佩いたその青年は、年若いながらも凛とした佇まいをしていた。

 淡い金色の髪、澄んだ青の瞳。視線は鋭いが、押し付けがましさはない。

 その立ち姿は、幼い頃に語られる物語の中の王子を、そのまま現実に連れてきたかのようだった。


「ようこそお越しくださいました」


 父が深く頭を下げ、義母も作り笑顔を浮かべる。


「このような屋敷へ、わざわざ……」

「本日は、神託に基づき参りました」


 教会の使者は前置きを省き、静かに告げた。


「神託、ですか?」


 義母の声がわずかに上ずる。


「はい。――こちらの家に、聖女がおられると」


 その言葉が落ちた瞬間、義母と父の表情が固まった。

 だが、次の瞬間には、まるで理解したかのように目を輝かせる。


「まあ……!」


 義母は胸元を押さえ、息を弾ませる。


「聖女……それは、なんという光栄でしょう」

「確かに、この屋敷には……神に祝福された子がおります」


 父もすぐに言葉を重ねる。

 ちょうどそのとき、身支度を整えたユーフィリアが戻ってきた。

 髪は丁寧に結い上げられ、装飾も増えている。


「もしかして……私のこと、ですか?」


 控えめな声だったが、期待は隠しきれていなかった。


「ええ、きっとそうよ」


 義母は即座に肯定する。


「この子は特別ですの。素直で、愛らしくて……」


 父も頷く。


「神に選ばれるに相応しい娘です。ユーフィリアが聖女に違いない」


 教会の使者は、しばらく黙ってその様子を見ていた。

 やがて、静かに首を振る。


「……いいえ」


 場の空気が、目に見えて張り詰める。


「神託に示された名は、ユーフィリア様ではありません」

「ユーフィリアではない……?」


 義母の声が、わずかに硬くなる。


「こちらの家におられる――リズ様です」


 一瞬、理解が追いつかなかった。


「……誰のことですか」


 義母は、ゆっくりとそう尋ねた。

 教会の使者は、淡々と答える。


「この屋敷の長女、リズ様です」


 父は思わず声を上げた。


「冗談でしょう。あの娘が……?」

「神託に誤りはありません」


 即答だった。


「――ですが」


 義母が口を挟む。


「あの子は、今この場にはおりませんの」


 教会の使者の視線が鋭くなる。


「不在、とは?」

「体調が優れず、部屋で休ませております」


 即座に返された言葉は、あまりにも滑らかだった。


 その横で、第3王子ヴィルフレッドは、屋敷の奥へと視線を巡らせていた。

 華美な調度品の陰、行き届かない壁の染み、微妙にずれた使用人たちの態度。

 この屋敷には、何かが欠けている――いや、隠されている。


「我々は、リズ様に直接お会いする必要があります」


 ヴィルフレッドの声は静かだったが、拒絶を許さない響きがあった。


「少しお待ちください」


 義母は笑顔を崩さぬまま、一歩引く。


「すぐに、確認いたしますわ」


 そう言って、使用人に目配せをする。

 その視線には、明確な焦りがあった。


 神託に名を呼ばれた娘は、ここにいない。

 それが偶然であるはずがないことを、誰もが感じ始めていた。


 屋敷の均衡は、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。



 義母が席を外してから、屋敷の空気は張り詰めたままだった。

 応接室で待つ間、教会の使者は無言で背筋を伸ばし、父は落ち着かない様子で何度も喉を鳴らす。

 ユーフィリアだけが状況を呑み込めず、所在なさげに母の背中を見送っていた。


「……本当に、長女は体調不良なのですか」


 沈黙を破ったのは、ヴィルフレッドだった。

 問いは穏やかだったが、その視線は逃げ道を許さない。


「ええ、ええ。昨夜から少し熱があるようで」


 父が慌てて頷く。


「もともと体の弱い子でして」


 その言葉に、教会の使者がわずかに眉を動かした。

 義母が戻ってきたのは、その直後だった。表情は整えられているが、歩調がわずかに早い。


「……使用人に確認させましたが、部屋にはおりませんでしたわ」


 父が目を見開く。


「なに?」

「どうやら、朝から姿が見えないようで」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が一段冷えた。


「それは、どういうことですか」


 ヴィルフレッドの声は低く、はっきりしていた。


「体調不良の娘が、所在不明だと?」

「……大げさですわ」


 義母は笑みを浮かべようとしたが、口元が引きつっている。


「もともと、あの子は勝手に隠れる癖が……」

「癖?」


 教会の使者が遮る。


「神託を受けた者の所在を、“癖”で済ませるおつもりですか」


 義母は言葉に詰まった。沈黙が応接室を満たす。

 その中で、ヴィルフレッドは静かに立ち上がった。


「屋敷を調べさせてもらう」

「なっ――!」


 父が声を荒げかける。


「殿下、それは…」

「拒否する理由があるのなら、聞こう」


 視線が向けられる。父は、何も言えなかった。


 探索は、表向きは礼儀正しく始まった。

 だが、次第に屋敷の歪みが露わになる。

 使われていないはずの廊下に残る足跡。鍵がかかっているはずの扉。

 そして、地下へと続く階段の前で、義母が露骨に足を止めた。


「その先は……物置ですわ」

「地下倉庫ですね」


 ヴィルフレッドは、静かに頷いた。


「確認する」

「必要ありません!」


 思わず声を荒げた義母は、すぐに口を押さえた。


「……埃だらけですし、殿下のお足を汚してしまいますわ」

「構わない」


 短い返答だった。

 鍵を要求され、義母は震える手で差し出す。

 錆びた音を立てて、扉が開いた。


 地下へ降りる階段は、湿気と冷気に満ちていた。

 光が届かず、壁には古い染みが広がっている。

 ランタンの灯りが、倉庫の奥を照らした、その瞬間だった。


「……いた」


 誰かが、息を呑む音を立てる。


 床に、少女が倒れていた。

 煤と埃にまみれ、まともに身動きも取れない様子だ。髪は乱れ、衣服は破れ、血の跡が乾いて肌に張り付いている。呼吸は浅く、意識があるのかどうかも分からない。


 ヴィルフレッドは、周囲の制止を待たず、真っ先に駆け寄った。

 膝をつき、そっと肩に手を置く。


「……聞こえるか」


 返事はない。

 だが、わずかに指先が震えた。

 生きている。


「医師を呼べ」


 即座に命じる声には、もはや迷いはなかった。

 そのとき、教会の使者が低く呟く。


「――聖女を、このような……」


 ヴィルフレッドは、少女の顔を見つめた。


 これが、リズ。神に選ばれた聖女。

 そして――この屋敷で、打ち捨てられていた娘。


「大丈夫だ」


 初めて、彼女に向けて言葉を落とす。


「もう安全だ。よく……よく、ここまで生きてきた」


 その声は、王子のものではなかった。

 ただ、一人の人間としての声だった。


 リズの睫毛が、かすかに揺れる。


 理解しているのかどうかは分からない。

 それでも、その言葉は確かに、闇の底へ届いていた。


 背後では、義母が崩れ落ち、父は蒼白な顔で立ち尽くしている。ユーフィリアは、その光景に言葉を失っていた。

 そんな3人を、護衛たちが取り囲み、拘束する。


 もう誰の視線も、リズを縛ることはできない。

 地下倉庫に差し込むランタンの光は、弱く、しかし確かだ。

 それは、長い夜の終わりを告げる光だった。



 意識が浮上したとき、最初に感じたのは――匂いだった。


 埃と湿気の混じった地下の空気ではない。

 かすかに甘く、清潔で、鼻の奥を刺激しない匂い。


 次に気づいたのは、柔らかな布の感触だった。


 リズは、すぐには目を開けなかった。

 何かが変わっていることだけは分かる。だが、それを確かめる勇気が、まだなかった。


 ――怒鳴り声は?


 耳を澄ましても、聞こえない。

 扉を乱暴に開ける音も、足音も、命令も。


 代わりに聞こえるのは、遠くで鳴る鐘の音だった。


 ゆっくりと、慎重に、リズは目を開く。


 白い天井。

 柔らかな光。

 知らない部屋。


 一瞬、頭が真っ白になる。


「……っ」


 身体を動かそうとして、痛みに息を詰めた。

 全身が重く、特に背中と腕が軋むように疼く。


「無理をしないで」


 静かな声が、すぐそばから聞こえた。


 視線を向けると、見知らぬ修道女が椅子に腰掛けている。

 穏やかな顔で、リズを見守っていた。


「ここは……?」


 声は、思っていたよりも掠れていた。


「教会です」


 修道女は、はっきりと答えた。


「あなたは保護されました。もう、あの屋敷には戻りません」


 その言葉を、リズはすぐには理解できなかった。


 戻らない。――戻らない?

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。安堵より先に、戸惑いが押し寄せた。


「……私、何か……」


 何か悪いことをしたのではないか。そう続けようとして、言葉が途切れる。

 修道女は首を横に振った。


「何もありません。あなたは、何も間違っていません」


 断言だった。その言葉に、リズの思考が止まる。

 間違っていない。そんなふうに言われたことが、あっただろうか。


 しばらくして、扉がノックされる。


「入っても?」


 聞き覚えのある声だった。

 修道女が頷くと、扉が開く。

 そこに立っていたのは、あの青年――ヴィルフレッドだった。

 正装ではなく、簡素な服装。それでも、立ち姿は変わらず凛としている。


「体調はどうだ」


 問いかけは短く、しかし柔らかい。


「……まだ、少し……」


 正直に答えると、彼は小さく頷いた。


「無理に話す必要はない。ただ、顔を見ておきたかった」


 リズは、彼をまじまじと見た。

 その言葉に、特別な意味があるとは思えなかった。

 けれど、なぜかそれは、リズの人生に長く残る言葉になる――そんな予感だけが、静かに胸をよぎった。


 地下倉庫で見たときの印象は、ほとんど覚えていない。

 ただ、怖くなかった、という感覚だけが残っている。


「……どうして」


 不意に、疑問が口をついた。


「どうして……助けてくれたんですか」


 ヴィルフレッドは、少し考えるように視線を落とした。


「神託があったから、というのは事実だ」


 それから、リズをまっすぐ見て言う。


「だが、あの場所で君を見たとき……放っておく理由は、どこにもなかった。それだけだ」


 簡潔な言葉だった。

 正義を語るでもなく、感情を誇張するでもない。

 それが、かえって胸に響いた。


「君は、ここにいていい」


 静かな声。


「誰にも、否定される理由はない」


 その瞬間、リズの視界が滲んだ。


 泣くつもりはなかった。

 泣いてはいけない、と長く思っていた。


 それでも、頬を伝うものを止められない。


「……泣いて、すいません」

「いいや」


 即答だった。


「それでいい」


 その言葉を最後に、ヴィルフレッドは深くは踏み込まなかった。

 それが、リズにはありがたかった。

 守られることに、まだ慣れていない。優しさは、痛みに近い。


 夜。再び鐘の音が響く。

 リズは寝台の上で、天井を見つめていた。

 身体は痛む。記憶も、まだ整理できない。それでも、一つだけ分かることがある。


 ここでは、殴られない。

 怒鳴られない。

 存在を消されない。


 ――私は、生きていていい。


 そう思えたのは、初めてだった。


 窓の外には、月が出ている。

 地下室とは違う、遮るもののない光。それはまだ遠く、頼りない。

 けれど確かに、リズの上に降り注いでいた。


 ここから、彼女の物語が始まる。

 長い夜を越えた、その先で。



■■■


 聖女リズの一日は、祈りから始まる。


 夜明け前、教会の鐘が低く鳴るころ、彼女はすでに目を覚ましていた。白い寝台の上で上体を起こし、ゆっくりと足を床に下ろす。身を包むのは、聖女用として仕立てられた白衣だ。美しい装飾が刻まれているが、彼女自身はそれを豪華だとは思っていなかった。ただ、清廉であることだけが求められている衣だと感じていた。

 祈祷室へ向かう廊下は長く、音を立てればすぐに反響する。リズは歩幅を小さく保ち、背筋を伸ばして進む。

 視線は前方に留め、壁に掛けられた歴代聖女の肖像画を、彼女が見上げることはなかった。


 祈祷室は静謐だった。香の匂いがわずかに残り、石造りの天井が薄暗い。中央に置かれた祭壇の前で膝をつき、リズは両手を組む。


「今日も……滞りなく、役目を果たせますように」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。それでも、声に出すことで心が落ち着くのは確かだった。


 聖女として迎え入れられてから、三年が経つ。


 教会の中での生活は、規則正しく、過不足なく整えられていた。食事は決まった時間に運ばれ、学びの時間、祈りの時間、癒やしの儀式の時間が、細かく割り振られている。外出は制限され、面会には必ず許可が要る。それでも、リズは不満を抱いたことはなかった。


 午前の治癒の儀は、貴族階級の信徒が中心だ。

 礼拝堂の一角に設えられた簡易の治療室で、リズは一人ひとりの前に立つ。祈り、手を差し伸べ、聖句を唱える。すると、淡い光が生まれ、傷や病が、確かに癒えていく。


「ありがとうございます、聖女様」

「やはり本物だ……」


 そう囁かれる声に、リズは微笑みを返す。感謝されることに、喜びを覚えないわけではない。だが同時に、どこか遠い場所から自分を見ているような感覚もあった。


 昼食後、学問の時間に割り当てられている書庫で、リズは初めて彼と出会った。


 石造りの高い書架の間、陽光が差し込む窓辺に、一人の青年が立っていた。銀に近い淡い金髪。年齢はリズより少し上だろう。聖職者の衣ではないが、騎士とも違う。どこか儀礼めいた、場違いではない服装だった。


「……あの」


 声をかけると、青年はゆっくりと振り向いた。その瞳は、リズと同じ澄んだ紫。だが、そこに浮かんだ感情は、驚きでも畏怖でもなかった。


「聖女リズやな。はじめまして」


 穏やかな声だった。抑揚が不思議で、語尾や言い回しに微妙な柔らかさがある。距離の取り方も、目線の高さも、妙に自然だ。


「俺はリオネル。……まあ、立場の説明したら長なるけどな」


 彼は小さく苦笑し、こう付け加えた。


「教会に属してる者や。ただ、あんさんを拝みに来たわけやない」


 その言葉に、リズはわずかに瞬きをした。


 聖女として迎えられてから、彼女は多くの視線を受けてきた。畏敬、期待、欲望、信仰。

 だが、今目の前にいる青年の視線には、それらがなかった。


「……では、何のために?」

「あんさんが、どんな人か、見てみたいだけや」


 あまりにも率直な答え。

 それは、リズの日常に生じた、最初の小さな歪みだった。



 それ以降、数日に一度、リオネルは書庫に現れるようになった。決して長居はしない。二言三言、書物の内容について話し、時には何でもない雑談を交わす。そのすべてが、聖女としてではなく、一人の人間として接する態度だった。


「不思議に思わへんかったんか?」


 ある日の午後、彼は唐突にそう切り出した。


「何を?」

「聖女の力のことや」


 リズは手を止め、彼を見た。


「治癒は、いつも同じ形で起きているようで、少しずつ違う」


 その言葉に、胸の奥がひそかにざわめく。


 ――考えたことが、なかったわけではない。

 同じ病でも、治る速さが違う。光の強さも、後に残る感覚も違う。

 だが、それを疑問として深く掘り下げることは、これまでなかった。


「……聖女の力は、神の御意思ですから」


 そう答えると、リオネルは首を横に振った。


「そんなん、説明になっとらへんやろ」


 責める調子ではなかった。むしろ、確かめるような声音だった。


「……歴代の聖女は皆、同じ“治癒”を行っているはずです」


 リズの指先が、無意識に白衣の裾を掴む。


「あんさん自身は、どう思うんや?」


 問いかけに、すぐには答えられなかった。


 その日から、リズは祈りの時間の合間に、過去の治癒を思い返すようになった。誰に対して、どのように力が働いたのか。感謝の言葉、向けられた視線、そこに含まれていた感情。

 それらを順に思い浮かべながらも、彼女はまだ、答えを出そうとはしなかった。

 ただ胸の奥に、小さな石のような違和感が落ち、その感触だけを確かめる。


 考えること自体が、許されているのか。


 そう自問しながら、リズは再び祈祷室へ向かった。世界は何も変わっていない。鐘は鳴り、聖歌は響き、彼女は聖女として微笑む。


 それでも、ほんのわずかに、視界の奥――信じてきたものの輪郭が、わずかに曇った気がした。


■■■


 午後の礼拝は、公開治癒を伴うものだった。

 大聖堂の中央には仮設の祭壇が設けられ、左右には長椅子が並ぶ。貴族席と一般席は明確に分けられ、さらに奥には、教会関係者だけが控える場所が設けられていた。天井の高い空間に、ざわめきと期待が満ちていた。


 そのような中、リズは、祭壇に向かう前に庭の小道を歩きながら、静かな時間を楽しんでいた。


 ふと、扉の向こうから、かすかに子どもの声と騒めきが聞こえてくる。

 好奇心に誘われるように近づくと、小さな子どもを抱いた大人たちが列を作って祭壇へ向かっていた。


 この国の子どもは、一歳のときに教会で洗礼を受けることになっている。今日は、その洗礼の日らしい。

 泣く子、笑う子、きょろきょろと周囲を見渡す子。どの子も、まだ小さく、愛らしく、目を輝かせている。


 リズは列に並ぶ親子たちを遠目で眺めた。小さな手を握る親の仕草、目を丸くしてきょろきょろする赤子、泣いて顔をしかめる子、笑顔で周囲を見渡す子。

 そのどれもが無邪気で、目に映る世界すべてを新鮮に感じているようだった。金や赤、青、緑に橙。さまざまな色の瞳が、明るく煌めいている。


 ――小さな奇跡だ。


 声に出すこともなく、リズはそっと見守る。

 笑い声と小さな泣き声が混ざり合い、静かな時間が柔らかく揺れる。


 その光景を目にした瞬間、心の奥がふっと軽くなるのを感じた。

 日常のささやかな温かさ。

 救われるべき存在としてではなく、ただそこにある命としての小さな子どもたち――その純粋な瞬間が、リズの胸を静かに満たした。


 しばらくして、彼女は小さく息をつき、祭壇へ向かう。

 穏やかな心を抱えて、リズは祭壇の前に立ち、司祭の合図を待つ。


 その半歩横には、ヴィルフレッドがいた。白と金を基調とした正装に身を包み、穏やかな表情で前を向いている。

 王子がそこに立つだけで、場の空気が整う。人々の視線は、自然と二人へ集まっていた。


 聖女が立つ位置は、いつもここだった。

 誰かに指示された記憶はない。 立ち位置を決めた覚えも、選んだ覚えもなかった。

 けれど、式典では自然とそうなり、周囲もそれを当然として受け入れていた。


「――聖女リズによる、癒やしの御業を」


 その宣言と同時に、視線が一斉に集まった。祈るような眼差し、すがるような表情、そして、値踏みするかのような沈黙。彼女はそれらを等しく受け止め、祈りの言葉を紡ぐ。

 最初に呼ばれたのは、地方貴族の婦人だった。長年患っていた関節痛を訴え、歩行もままならないという。リズが手を差し伸べ、聖句を唱えると、淡い光が広がる。婦人は息を呑み、やがて膝を折った。


「……痛みが、消えて……」


 歓声と拍手が起こる。司祭は満足げに頷き、次の者を促した。

 二人目は、街の職人だった。古傷が癒えず、腕が上がらないという。結果は同じだった。光は現れ、傷は塞がり、男は涙を流して感謝した。

 ――問題は、三人目だった。

 痩せた少年で、年の頃は十にも満たない。栄養不足と慢性的な病で、咳が止まらないらしい。服装から、貴族であることは察せられた。


 リズは同じように祈り、手を伸ばした。


 光は、確かに現れた。

 ただ、その流れは、どこか定まらない。

 手応えが、途中でほどけていくような感覚があった。


 少年の咳は治まったが、顔色の改善は僅かで、立ち上がるとまだ少しふらついた。光は確かに現れたが、それは、完全な回復と呼べるものではなかった。


「……十分でしょう」


 控えから、司祭の声がかかった。問題はない、という調子だった。

 歓声は起こらなかった。代わりに、ざわめきが広がる。だが、それもすぐに収束した。司祭が前に出て、こう締めくくったからだ。


「聖女の御業は、神の御意思。癒やしの形は、人それぞれなのです」


 誰も異を唱えなかった。

 リズは少年を見つめた。少年は深く頭を下げ、何度も礼を言ってから連れられていく。その背中を見送りながら、胸の奥に、言葉にできない感覚が残った。


 ――私は、何かを間違えたのだろうか。


 そう思ってから、リズは小さく首を振る。


「おつかれさま」


 ヴィルフレッドがリズを優しく労わる。その言葉に、リズは小さく笑みを浮かべた。





 その日の夕刻、書庫でリオネルと顔を合わせた。


「お疲れちゃん」


 彼はそう言って、椅子を勧めた。リズは礼を言い、腰を下ろす。


「今日の治癒、見とったで」


 驚きはしなかった。彼があの場にいること自体は、不自然ではない。


「……どうでしたか」

「成功やろな。教会の定義では」


 しばらく沈黙が落ちる。リズは言葉を選んだ。


「……同じように祈りました。同じように、力は使えたと思います」

「思います、か」


 リオネルは静かに繰り返す。

 それが、今の彼女に言える精一杯だった。

 リオネルはそれ以上踏み込まなかった。ただ、書架に視線を向け、ぽつりと言う。


「"聖女は、常に正しくあらねばならない"……その前提自体が、少し重すぎる気がするな」


 誰かに聞かせるための言葉ではない。独白に近かった。





 その夜、リズは祈祷室で一人、長く跪いていた。

 祈りの言葉は、いつもと同じだった。それでも、胸の内に浮かぶものは、微妙に違っていた。

 救われたはずの場所で、なぜこんなにも、息が詰まるのか。

 答えは、まだ見えない。


 ただ一つ確かなのは――

 彼女の日常は、少しずつ、しかし確実に、形を変え始めているということだった。


■■■


 数日後、リズは司祭長の執務室に呼ばれた。


 大聖堂の奥、普段は立ち入ることを許されない区域にあるその部屋は、静かで、整然としていた。書棚には神学書と年代記が並び、窓辺には柔らかな光が差し込んでいる。威圧感はない。むしろ、落ち着きを与える空間だった。


「座りなさい、リズ」


 司祭長は穏やかに言い、向かいの椅子を示した。その緑色の目は、いつも通りリズを温かく映している。


「先日の公開礼拝、よく務めてくれました」

「身に余るお言葉です」


 リズは膝の上で手を重ね、背筋を伸ばす。


「民の間で、あなたへの信仰はますます高まっています。

 王都だけでなく、周辺の領地からも、治癒を求める声が届いている」


 それは誇るべきことのはずだった――そう、教えられてきた。

 リズは小さく頷いた。


「そこで、です」


 司祭長は一枚の書状を差し出す。


「来月、王城で催される祝典に、あなたにも出席していただきたい」


 王城。その言葉に、心臓がわずかに跳ねた。


「聖女として、国の安寧を祈り、民に姿を見せる。それだけのことです」


 それだけ、と司祭長は言った。だが、リズにはその意味が重く感じられた。


「……私に、務まるでしょうか」

「務まらせます」


 即答だった。


「あなたは救われ、そして立ち上がった聖女だ。その姿は、多くの者に希望を与える」


 その言葉を聞いたとき、リズの胸に浮かんだのは、希望ではなかった。

 ――物語、だ。そうした方が、都合がいい。

 そう思った自分に、彼女は内心で首を振る。疑うのはよくない。ただの言葉の綾だ。


 執務室を出た後、リズは回廊でリオネルと出会った。


「顔色が優れんなぁ」

「少し、緊張しているだけです」


 王城での祝典の話をすると、リオネルは短く息を吐いた。


「いよいよ、やね」

「……何が、でしょう」

「聖女が“聖女らしく”扱われる段階」


 皮肉とも取れる言い方だったが、声は低く、感情は抑えられていた。


「怖いか?」


 リズは考え、正直に答えた。


「怖い、というより……正しくあらねばならない、という気持ちが強くて」

「正しさは、誰が決めるんやろな」


 リオネルはそれ以上言わなかった。


 祝典までの日々は、慌ただしく過ぎていった。

 礼法の指導、衣装の調整、儀式の確認。

 すべてが「聖女リズ」という存在を、外側から固めていく作業のように思える。


 当日、王城の大広間は華やかだった。

 高い天井、色鮮やかな旗、整列する貴族たち。その中心に、白衣をまとったリズが立つ。


 拍手が起こり、視線が集まる。

 その中で、彼女は治癒の祈りを捧げた。

 ――期待されていた通りに、だ。


「さすがは聖女だ」

「これで国も安泰だな」


 称賛の声が、遠くで交わされていた。



 その夜、教会に戻ったリズは、書庫の奥で一冊の古い年代記を見つけた。

 表紙は傷み、題名も薄れている。だが、そこに記されていたのは、過去の聖女たちの簡潔な記録だった。その髪の色や瞳の色などの容姿や好物などの人物像まで記されている。

 リズは、何人かの聖女の肖像画を見比べて、ふと何か違和感を覚えて首を傾げた。だが、その理由を言葉にする前に、視線を落とし、ページをめくる。


「……この方は」


 治癒の奇跡を起こした、とだけ書かれている。その詳細は、驚くほど少ない。


「読んでしもうたんか」


 背後から、リオネルの声がした。


「禁書やない。ただ……あまり参照されへんだけや」


 彼は棚から別の巻を取り出す。


「こっちの聖女は、触れただけで治しはった。別の者は言葉だけや。さらにまた別の者は、特定の条件下でしか力が使えへんかったんや」


 リズはページをめくりながら、眉を寄せる。


「……同じ“治癒”なのに」

「同じ名前で呼ばれとるけど、同じものやない」


 その事実は、静かだったが、重かった。


「教会は、それを問題にしないのですか」

「せえへんな。奇跡が起きるかどうかだけが重要やさかい」


 リオネルは淡々と言った。

 リズは本を閉じる。

 まだ、答えは出ない。だが、疑問は確実に増えていた。


 救われた場所で、救われた聖女という立場を生きること。

 それが本当に、幸福なのかどうか――。


 彼女はまだ、その問いに、名前を与えられずにいた。



 それからの数週間、リズのもとには治癒の依頼が絶えなかった。

 大聖堂の一室は臨時の治療室として整えられ、朝から夕刻まで、人が途切れることはない。

 貴族、商人、兵士、そして貧民街から連れてこられる者たち。順番は、暗黙の了解――身分と立場によって決められていた。

 リズは一人ひとりに向き合い、同じ言葉を唱え、同じ祈りを捧げた。

 疲労はあったが、断ることはなかった。それが聖女の務めだと、疑わなかったからだ。


 だが、結果は一定ではない。


 劇的に回復する者がいる一方で、改善は見られるものの、完治には至らない者もいる。

 その差について、教会は問題視しなかった。


「神の御心です」


 それが、すべてを説明する言葉だった。


 ある日、同じ病を抱えた二人の女性が続けて治癒を受けた。年齢も症状も、ほとんど変わらない。だが結果は違った。一人は歩いて帰り、もう一人は担架で運ばれていった。

 後者の女性は、去り際に深く頭を下げた。


「ありがとうございます、聖女様」


 その声には、失望はなかった。ただ、諦めに近い静けさが、その声には滲んでいた。




 その夜、リズは祈祷室で手を握りしめていた。


 ――同じように祈ったのに。


 考えそうになり、彼女は思考を止める。疑問を持つこと自体が、不敬に思えた。


 祈祷室を出たあと、リズはふと足を止めた。

 夜の回廊は静まり返り、灯りに照らされた壁に、歴代聖女たちの肖像画が並んでいる。

 かつては視線を向けることすらしなかったその顔を、今夜は、ひとつひとつ確かめるように見上げた。


 穏やかに微笑む者。

 凛と前を見据える者。

 どの聖女も、聖女らしく描かれている。


「……あなたたちは」


 声にならない問いが、胸の奥に溜まる。

 同じように祈り、同じように奇跡と呼ばれ、同じように“神の御心”で片づけられてきたのだろうか。


 リズは無意識に胸元を押さえた。

 答えを求めるように――あるいは、許しを乞うように。


 肖像画の中の誰ひとりとして、こちらを見返してはくれない。

 それでも彼女は、しばらくその場を離れられずにいた。



 数日後、リオネルが彼女を中庭に誘った。


「少し、外の空気を吸おうか」


 中庭は静かで、噴水の音だけが響いている。季節は移ろい、花の色も変わり始めていた。


「ここは、俺が好きな場所や。教会内でも滅多にない、季節がわかる場所やな」


 リオネルはそう言って、石の縁に腰を下ろした。


「疲れとるなぁ」

「……自覚は、あります」

「それでも、止まらないんか」


 責める口調ではなかった。ただ事実を述べているだけだ。


「聖女とは、そういう存在だと教わりました」

「教わった」


 リオネルは小さく笑った。


「誰から?」


 リズは答えられなかった。教会、司祭、書物、祈り――すべてが混ざり合っている。


「……ずっと、そうでした」

「せやなぁ。ずっとそうやったな」


 その言葉には、妙な重みがあった。


「……過去の聖女たちも?」


 問いは、気づけば口をついて出ていた。

 リオネルは一瞬、視線を伏せる。


「全員が、同じ形ではないな」


 それ以上は語らなかった。


■■■


 数日後、王城から正式な使者が訪れた。聖女リズへの感謝と、さらなる協力要請。その中には、ヴィルフレッド王子の名もあった。


「……お会いになる必要はありません」


 司祭長は、ためらいもなく、あらかじめ決められていた文言を読み上げるように言った。


「聖女は、政治から距離を保つべき存在です」


 その言葉に、リズは違和感を覚えた。祝典では、あれほど利用されたというのに。



 夜、書庫で再び年代記を手に取った。ページをめくるたび、過去の聖女たちの名前が現れては消える。

 共通しているのは、詳細が語られないこと。治癒の条件も、失敗の記録も、ほとんど残されていない。


「……なぜ」


 問いは、宙に浮いたままだ。

 そのとき、書庫の奥から足音がした。


「探し物?」


 リオネルだった。


「答えを、です」


 自分でも驚くほど、率直な声だった。

 リオネルは何も言わず、ただ隣に立った。

 しばらくして、彼は低く言った。


「見つからない答えもある。それは理解しとるか?」

「……それでも」

「探してしまう、と」


 言葉を継いだのは、彼だった。

 リズは年代記を閉じる。まだ、確信はない。だが、彼女の中で何かが静かに積み重なっている。


 救われたはずの場所で、問いを持つこと。

 それ自体が、彼女の日常に小さな揺らぎをもたらしていた。



 その後しばらく、リズは公の儀式から外されることが多くなった。

 理由は「休養」だった。

 表向きには、聖女の身体を気遣う配慮として説明される。


 だが、その静けさの中で、彼女は一つの願いを抱くようになる。


 ――公式ではない場所で、祈ってみたい。

 それは、衝動に近かった。


 ある夕刻、簡素な外套をまとい、リオネルと共に教会の裏門を出る。

 彼が止めなかったことが、すでに黙認であり、同意でもあった。


 貧民街は、聖堂から歩いてそう遠くはない。

 にもかかわらず、空気はまるで違った。


 石畳は割れ、建物は傾き、窓から漏れる灯りは弱々しい。

 だが、人の気配だけは濃い。


「……ここやったら、誰もあんさんに期待せえへん」


 リオネルが、低く言った。


「奇跡も、象徴も」


 リズは、うなずく。


 最初に声をかけたのは、年若い男だった。

 怪我をした腕を押さえ、戸惑いながらも、彼女を見る。


「……本当に、治せるのか?」


 疑いは、隠されていない。


「はい」


 リズは、名も立場も告げず、祈りを捧げた。聖句と共に、力は、静かに流れる。

 次の瞬間、男は息を呑んだ。


「……動く」


 腕は、完全に癒えていた。

 骨の歪みも、痛みも残っていない。

 男は、何度も頭を下げた。


「ありがとう……ありがとう……!」


 だが、その礼には、畏怖がない。

 神への祈りでも、奇跡への崇拝でもない。


 ただ、誰かに助けられたという、まっすぐな感情だけだった。


 次に癒したのは、咳を続ける老人。その次は、衰弱した子ども。

 少なくとも、その場にいた限りでは、どれもが深く、完全に近い治癒に思えた。


 ――比べるまでもなかった。

 そこには、期待も計算もなかった。

 ただ、「目の前にいる人間」を見る視線だけがあった。


 祈りの言葉は、公的な儀式と変わらない。

 集中の度合いも、同じ。


 なのに――。

 リズの胸が、静かに震えた。


「……ねえ、リオネル」


 帰り道、彼女は声を落とす。


「ここでは、誰も私に“役割”を求めていませんでした」

「求めていたのは?」

「……助けてほしい、だけ」


 その夜、リズは眠れなかった。



 数日後。

 祈りの準備を終え、回廊を歩いていたときだった。


「――だからこそ、あの子は最適なのです」


 聞き覚えのある声が、壁の向こうから漏れる。


「“救われた聖女”という物語は、王権と信仰の結節点になる」


 別の声が応じる。


「ヴィルフレッド殿下との関係性も含め、民衆への影響力は計り知れません」


 リズは、足を止めた。

 名前が、出た。


「本人は、よく努めています。疑いもなく、従順だ」

「ええ。だからこそ――」


 言葉が、少しだけ低くなる。


「――“救われたままでいてもらう”必要がある」


 沈黙。


「聖女が自立してしまっては、困る」


 その一言が、胸に落ちた。

 冷たい音がした。

 祈りのために整えた心が、ゆっくりと崩れていく。


 リズは、声を立てずに踵を返した。

 誰にも見られないように。誰にも気づかれないように。


 その夜。彼女は、初めて思った。

 ――私は、誰のために救われたのだろうか。何のために、救われたのだろうか。


 答えは、まだ出ない。

 けれど。

 祈りの中で、貧民街の人々の視線を思い出す。


 期待でも、崇拝でもない。

 ただ、人を見る目。


 その違いが、胸の奥で、まだ名もつかない感触として残り続けていた。



 祈りの間での治癒は、いつも同じように行われる。

 祈り、触れ、光が満ち、そして癒える。

 聖女としての日々を重ねるほど、その一連の流れは、作業のように身体に染み込んでいった。


 けれど、結果は同じではなかった。


 この違和感を明確に覚えたのは、貧民街でのことだった。

 リオネルとお忍びで抜け出したときだけではない。聖女として食料の配給に同行した帰り道のこと。物陰で咳き込んでいた子どもに手を伸ばした。


 祈りの言葉は短く、儀式と呼べるほど整ってもいなかった。

 それでも、魔力は自然に流れた。水が低きに落ちるように、何の引っかかりもなく。

 熱は引き、荒れていた肺の音も静まった。

 それだけではない。リズの内側に残る疲労が、いつもよりも明らかに軽かった。


「ありがとう」


 子どもは、ただそう言った。聖女様、とも。奇跡、とも言わなかった。

 リズを見上げるその目には、期待も崇拝もなかった。ただ、同じ目線で人を見る色があった。


 胸の奥が、わずかに温かくなる。

 それが何を意味するのか、その時のリズにはわからなかった。


 教会に戻ると、同じ治癒でも様子が違った。

 司祭、修道士、教会に属する人々。

 誰もが敬意を払い、丁重だった。


 それでも、力はどこかで留まった。

 癒えたはずの傷が、完全に消えきらない。

 祈りが足りないわけではない。信仰心が薄いとも思えなかった。


 理由が、わからなかった。


 そんな折、リズは偶然、回廊の影で立ち止まることになる。

 以前、会話が漏れ聞こえていた奥の執務室から、音が聞こえてきた。


「やはり、あの経歴は強い」

「民に伝わりやすい。虐げられ、救われた聖女――わかりやすい」


 淡々とした口調だった。

 そこに哀れみはなく、まして怒りもない。


「救出の時期も、ちょうどよかった。王宮も満足している」

「殿下が関わったのも、大きいな」


 リズは、その場を離れた。

 足音を立てないように、静かに。


 ――時期。


 その言葉が、何度も反芻される。

 胸の奥に、小さな棘のようなものが残った。


■■■


 その日、聖堂の回廊はいつもより静かだった。


 外套の裾を揺らしながら、ヴィルフレッド王子は歩いてきた。

 近衛は距離を保ち、あくまで形式として付き従っているだけだ。


「祈りは終わったかい、リズ」

「はい、殿下」


 名を呼ばれるとき、彼は決して“聖女”とは言わない。それは意図的な配慮だった。

 教会に保護されて三年。ヴィルフレッド王子は折を見てリズに会いに来てくれていた。


「顔色がいい。……安心した」


 その言葉は、報告を求めるものではなく、純粋な安堵に近い。

 リズは小さく微笑み、首を振った。


「ご心配には及びません。皆さまに支えていただいていますから」

「“皆”の中に、私も含まれているなら光栄だ」


 冗談めいた口調。

 けれど、視線は真剣だった。


 王子は、祈りの内容を尋ねない。

 治癒の成果も、信徒の数も。

 ただ、リズの体調と、無理をしていないかだけを気にかける。


「無理はするな。君は……」


 言いかけて、言葉を飲み込む。


「……いや。今日はそれだけだ」


 それで十分だった。

 彼は一礼し、去っていく。背筋はまっすぐで、歩幅は迷いがない。


 回廊に残ったのは、静寂と、わずかな余韻だけだった。


「……優しい方」


 リズがそう口にしたのは、独り言に近かった。


「せやなぁ」


 いつの間にか、柱の影にいたリオネルが応じる。


「王子としては、ほぼ理想形や」


 淡々とした声音。感情の起伏は感じられない。


「ほぼ、ですか」

「“聖女に優しい王子”という役割において、という意味で」


 リオネルは歩み寄り、窓際に寄りかかる。


「彼は、君を人として扱うとる――同時に、国家の象徴としても」


 リズは首を傾げた。


「矛盾していませんか」

「いいや。むしろ、王権というものはそういうもんや」


 リオネルは、外を見たまま続ける。


「教会は奇跡を独占したい。

 王権は……それを“正当なもの”として、手元に置きたい」

「……管理、ですか」

「君の存在が、信仰であり、秩序であり、抑止力でもあるっちゅう話やな」


 言葉は静かだが、鋭かった。


「王子は、君を守っているつもり。

 教会も同じ――守る、という名目で、囲っている」


 リズは、反論しようとして、言葉を探し――見つけられなかった。


「殿下は……そんなふうに考えていないと思います」

「まあ、考えてはないやろうなぁ」


 リオネルは即答した。


「彼個人は、誠実。だからこそ、都合がいい」


 その言い方が、どこか皮肉めいている。


「誠実な人間ほど、構造の一部に組み込みやすい」


 リズは、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

 それは怒りではなく、困惑に近い。


「……リオネルは、殿下が嫌いなのですか」

「いいや」


 彼は、ほんの一瞬だけ笑った。


「好意すらある。少なくとも、教会の連中よりは」


 沈黙が落ちる。


「ただ――」


 リオネルは、リズを見る。


「あんたが“選ぶ側”だという前提が、どこにもないのが気に入らん」


 その言葉は、静かだった。だが、確かに問いだった。


 リズは答えなかった。

 答えを、まだ持っていなかったから。


 祈りの時間が、再び近づいている。

 鐘の音が、遠くで鳴った。


 その音は、いつもと変わらない。

 けれど、リズの胸の内には、確かに残るものがあった。



■■■



 その夜、リズは祈りの時間の合間に、過去の治癒を思い返していた。

 誰に対して、どのように力が働いたのか。

 向けられた視線。言葉に含まれていた感情。

 頭の中で浮かんでは消えていく過去を掘り起こしながら、気づけば、共通点が浮かび上がっていた。


 貧民街の人々は、リズを“人”として見ていた。

 教会の中では、“聖女”や“象徴”として、役割の中に置かれていた。


 ――私への視線、だったのだろうか。

 そう考えた瞬間、胸の奥がひやりとした。


 リオネルに連れられて、身分を隠して赴いた貧民街。

 あのとき、誰も私を「聖女」とは呼ばなかった。

 価値も、役割も、意味も与えず――ただ、そこにいる“人”として見ていた。

 だから、あのとき。力は、迷わなかったのかもしれない。


 もちろん、教会の中で力を使っても、深く癒えたことも多い。

 それでも、……それでも。


 理解してしまったこと自体が、怖かった。

 まだ確信はない。

 けれど、それ以外の共通点を、彼女は見つけられずにいた。


■■■


 数日後、教会の奥で、非公式な会合が開かれていた。


 場所は司祭長の執務室ではない。そこより一段奥、記録係と上級司祭のみが立ち入る小会議室だ。窓は小さく、外の光は届きにくい。


「最近の治癒記録を見ましたか」


 年配の司祭が、羊皮紙を指で叩く。


「貧民街での回復率が、明らかに高い」

「逆に、公式の場では安定しているが、突出しない」

「誤差の範囲では?」

「そう言い切るには、回数が多い」


 空気は張り詰めていなかった。声色も穏やかだ。

 問題視している、というより――調整すべき数値を前にした態度だった。


「聖女本人は?」

「変わりません。従順で、礼儀正しく、指示にも逆らわない」

「では、扱いは難しくない、ということですね」


 別の司祭が静かに言った。


「……環境要因が、無視できない、という見方もできます」


 それ以上の説明はなかった。

 だが、その場にいた誰もが、同じ方向を見ていた。


「具体的には?」

「面会の選別をより厳密に」

「必要なのは、安定です。感動ではありません」


 聖女は、信仰の象徴であって、奇跡の発生源ではない。

 奇跡が均一であることは、管理のしやすさに直結する。


 それが、教会が長く続いてきた理由だった。


「王宮側にも伝えておきましょう」

「殿下は、聖女の負担を気にかけておられる」


 “負担”。

 その言葉は、免罪符のように便利だった。


 会合は、それで終わった。



 その「調整」が始まって、数日後のことだった。


 リズは、治療室で一人の女性と向き合っていた。

 年若い修道女に付き添われ、控えめに頭を下げている。


 症状は軽い。数日前からの頭痛と倦怠感。

 これまでなら、問題なく癒せる範囲だった。


「……聖女様、お願いします」


 女性の声には、切実さよりも遠慮があった。

 “迷惑をかけてはいけない”という種類の緊張。


 リズは、その視線を受け止める。


 ――この人は、私に何を見ている?


 答えは、考えるより先に、形を取ってしまった。

 聖女。役割。正しさ。


 期待ではあるが、願いではない。

 救われたい、ではなく、“救ってもらえるはずだ”という前提。


 リズは、いつものように手を伸ばしかけ――止めた。


 指先に、あの感覚があった。

 魔力が、相手に触れる前に、するりと逸れていく。

 拒まれているわけではない。ただ、届く先が、用意されていない。


 “装置”に向けられた視線。

 そこには、受け取る余地がなかった。


「今日は、祈りだけにしましょう」


 その場の空気が、わずかに揺れた。


「え……?」

「体調が悪いのは事実ですが、命に関わるものではありません。

 十分な休息と、薬草茶で回復するでしょう」


 声は穏やかだった。拒絶ではない。むしろ、親切な助言のようですらあった。

 修道女が戸惑ったように口を開く。


「ですが、聖女様のお力なら……」


 リズは、静かに首を振った。


「今の私では、深くは届きません」


 一瞬の沈黙。


「無理に行えば、形だけの治癒になります。

 それは……この方のためにならない」


 それは、言い訳でも教義でもなかった。

 役割の限界を、そのまま口にしたような言葉だった。


「力は、必要なときに使うものです」


 リズは、はっきりと言った。


「すべてを、奇跡で覆うべきではありません」


 沈黙が落ちる。


 その言葉は、教義から外れてはいない。

 むしろ、節度と謙遜を重んじる聖職者の理想に近い。


 だからこそ――違和感が、はっきりと残った。


 女性は深く頭を下げ、礼を言って去っていった。


 誰も責めなかった。

 誰も、咎めなかった。


 けれど。



 その日の夕刻、司祭長のもとに、短い報告が届いた。


「本日、聖女リズは一件の治癒を見送りました」

「理由は、症状が軽微であり、自然回復が見込めるためとのことです」


 司祭長は、報告書を読み終え、しばらく黙っていた。


「……そうか」


 それだけを言い、紙を伏せる。


 問題行動ではない。

 規則違反でもない。


 だが――。


「まだ、“気づいた”と言うほどじゃないな」


 独り言のように、司祭長は呟いた。


「だが、“考えていない”とも言えなくなった」


 それが、教会の結論だった。


 完全な警戒でも、放置でもない。

 観察段階への移行。



 その夜、書庫でリオネルは何も聞かなかった。

 ただ、リズの顔を見て、少しだけ目を細めた。


「……選んだなぁ」


 リズは、うなずいた。


「ええ」


 それ以上、説明は要らなかった。


 理解してしまった者は、壊すとは限らない。

 声を上げるとも限らない。


 ただ――すべてに応えなくなる。

 その小さな変化こそが、最も厄介な兆しであることを、教会も、王宮も、まだ知らない。


 そしてその数日後。

 ヴィルフレッドは、「聖女が、以前よりも“穏やかになった”」という報告を受け取ることになる。


■■■


 第3王子ヴィルフレッドが、あの救出の場面を思い返すことは、今でもあった。


 血と煤にまみれた地下。

 薄暗い倉庫の奥で、小さく丸まっていた少女。


 ――生きている。


 それを確認したとき、胸の奥に走った安堵は、今もはっきり覚えている。


 彼は、何も知らなかった。

 教会の事情も。王宮と聖女の関係も。

 ましてや、“物語としての価値”など。


 ただ、聖女をお迎えに行くという使命を受けただけだった。

 だから、王子として、聖女のもとへ向かった。


 間に合ってよかった。

 助けられてよかった。


 その感情以外は、何も持たなかった。


 少女が目を開けたとき、こちらを見上げてきたとき、彼は、何も考えていなかった。

 ただ、1人の人間を救えたのだという安堵が胸に落ちた。


 彼女は、救われた。それは疑いようのない事実だった。

 地下で見た、あの怯えた瞳が、今は祈りの中で静かに伏せられている。


 ——これ以上、何を望むというのだろう。


 だからこそ、今のリズの変化を、ヴィルフレッドは“成長”だと思っていた。


 以前よりも穏やかで。

 以前よりも、静かで。

 以前よりも、無理をしない。


 それは、理想的な変化に見えた。

 聖女が穏やかであることは、国にとっての吉兆だ。それは、王の口癖でもあった。


「無理はしなくていい」


 彼は、何度もそう言った。

 それは命令ではなく、本心だった。


「君は、国にとって大切な存在だ」


 それもまた、偽りではない。


 報告書には、こう書かれていた。


「聖女は、安定しています」

「過剰な負担を避け、適切な範囲で力を行使しています」


 問題はない。むしろ、望ましい。

 だから、ヴィルフレッドは頷いた。

 教会も、聖女も、正しく歩んでいるのだと。


 ――正しく。


 その言葉が、胸の奥で、わずかに引っかかる。

 自分は、本当に“正しさ”だけで、彼女を救ったのだろうか。


 あの時。地下で、手を伸ばしたとき。

 何も考えていなかった。ただ、助けたいと思った。

 それだけだったはずなのに。


 今、彼女は、“救われた存在”として、完璧に、そこに在る。

 その在り方が、彼の善意と、あまりに噛み合いすぎていることに、ヴィルフレッドは、まだ、名前をつけられずにいた。


 その日は、予定されていない面会だった。

 ヴィルフレッドは、公務の合間に教会を訪れ、いつもの謁見室ではなく、回廊に面した小さな祈祷室を指定した。

 人目を避けるためではない。ただ、落ち着いて話したかっただけだ。


 リズは、いつも通りだった。

 穏やかで、礼儀正しく、静かに微笑んでいる。

 それが、かえって胸に引っかかった。


「最近、少し変わったね」


 言葉を選びながら、ヴィルフレッドは言った。


「悪い意味じゃない。むしろ……無理をしなくなった」


 彼は、慎重だった。

 聖女に対してではなく、一人の少女に対して。


「以前の君は、すべてを背負おうとしていた。

 今は、ちゃんと息をしているように見える」


 それは、褒め言葉だった。気遣いだった。

 リズは、少しだけ目を伏せる。


「殿下は、それが良い変化だと思われますか?」


 問い返されるとは思っていなかった。

 ヴィルフレッドは、少し考えてから頷く。


「もちろんだ。君は……多くを背負いすぎた。

 救われたあとも、ずっと」


 ――救われたあとも。

 その言葉を、リズは逃さなかった。


「救われた“あと”とは、いつのことでしょう」


 声音は、変わらない。

 ただの確認のようだった。


「それは……」


 言葉に詰まり、ヴィルフレッドは正直に答える。


「君が保護されて、聖女として迎えられたときだ」


 間違っていない。

 事実だ。

 だからこそ、リズは微笑んだ。


「では、その前の私は?」


 空気が、わずかに止まる。

 ヴィルフレッドは、即答できなかった。

 考えたことがなかったわけではない。だが、深く掘り下げたこともなかった。


「……辛い時間だっただろう」


 慰めの言葉。正しい言葉。

 リズは、静かに首を振った。


「殿下は、私が“救われる前”のことを、物語としてご存じです。

 けれど、“そこにいた私”のことは、ご存じではありません」


 責めていない。断じてもいない。

 ただ、事実を置いただけだった。

 ヴィルフレッドは、胸の奥に、鈍い痛みを覚えた。


「私は、殿下に救っていただきました。

 それは、間違いありません。今も、これからも、感謝し続けるでしょう」


 そう前置いてから、リズは続ける。


「ですが……その出来事が、今の私を説明する“理由”として使われるたびに、私は、少しずつ、そこに戻されてしまうのです」


 彼女は、王子を見た。

 聖女としてではない。一人の人間として。


「……救われ続ける役に、押し戻されるのです」


 ヴィルフレッドは、言葉を失った。

 そんなつもりはなかった。縛るつもりも、押し付けるつもりも。

 ただ――守りたかった。


「君を、苦しませたいわけじゃない」


 それだけが、絞り出した言葉だった。

 リズは、ゆっくりと頷く。


「知っています。だから、殿下はお優しいのです」


 そして。


「でも、その優しさは、私を“今ここにいる私”としてではなく、“救われた私”として、見ています」


 それは、断定だった。しかし、非難ではなかった。

 ヴィルフレッドは、何かを言おうとして――やめた。

 この場で反論すれば、それは彼女を説得するための言葉になってしまう。

 それだけは、してはいけない気がした。


「……君は」


 彼は、問いを選び直す。


「今の在り方を、望んでいるのか?」


 リズは、少し考えてから答えた。


「少なくとも、自分で選んでいます」


 その言葉が、決定的だった。


 救った者ではなく、

 導く者でもなく、

 支える者ですらなく。


 彼女は、もう――選ぶ側に立っている。


 ヴィルフレッドは、初めて理解した。


 自分が踏み抜いたのは、彼女の傷ではない。

 彼女の“役割”だった。

 それが、取り返しのつかない一歩だとは、まだ、完全にはわかっていなかった。


 祈祷室を出たあと、ヴィルフレッドはそのまま王宮へ戻らなかった。


 馬車を止めさせ、城外を回らせる。

 考えるための時間が、どうしても必要だった。


 ――救われ続ける役に。


 リズの言葉が、何度も頭の中で反響する。


 彼女は、怒っていなかった。

 責めてもいなかった。

 だからこそ、逃げ場がなかった。


(私は……守っているつもりだった)


 幼いころから、そう教えられてきた。

 弱き者を守れ。正しき力を、正しき形で使え。


 聖女は、国の希望だ。

 だからこそ、傷つけてはならない。


(だが)


 彼女は言った。その優しさが、自分を“救われた役”に戻すのだと。

 それは、王子として否定すべき言葉ではなかった。むしろ、真摯な訴えだった。

 守るという行為が、いつの間にか、彼女の世界を狭めている。


 だから――。


 ヴィルフレッドは、迷いを抱えたまま、結論を選んだ。



 数日後、王子は教会に正式な書簡を送った。

 内容は、穏当で、誰も反対できないものだった。


 ――聖女リズの負担軽減のため、王宮主導の公式行事への参加を、当面控えること。

 ――面会は、教会を通した正式なものに限定すること。


 理由は、明確だ。


 「聖女の意思と尊厳を守るため」。


 それは、正しい判断だった。

 王族として。

 政治的にも。

 倫理的にも。


 教会は即座に同意した。

 表向きは、感謝と称賛を添えて。


 ――殿下は、聖女を深く理解しておられる。

 ――聖女様の静養は、国益にもかなう。


 誰も、異を唱えなかった。


 ただ。



 その知らせを、リズは静かに受け取った。

 書簡は丁寧で、配慮に満ちていた。

 彼女の言葉を尊重した、結果なのだと分かる。

 だからこそ。


(殿下は……距離を取られた)


 会わない、という選択。

 近づきすぎない、という判断。

 それは、彼女を縛らないための行動だった。

 だが同時に――彼女を“理解できない場所”へ置く判断でもあった。


 リズは、祈りの間で膝を折る。


 怒りはない。悲しみも、ほとんどない。

 ただ、確信が深まった。


(殿下は、最後までお優しい)


 だから、踏み込まない。

 だから、確かめない。


 彼は、何一つ、間違っていない。

 それでも。


 それは、救う者の選択だ。並んで歩く者の選択ではない。

 ——私は、役から降りたのだ。


■■■


 その夜、書庫の奥で、リオネルは静かに姿を現した。


「……正しい判断やなぁ」


 リズは視線を落としたまま、静かに頷く。


「ええ。王子が引いた一歩分だけ、教会が整えた安全な距離分だけ……私は、“救われ続ける役”から外れました」


 誰にも責められず、誰にも反逆せず、ただ――選ばれなくなった自由。

 リズは、理解してしまったことの重さを、はっきりと自覚していた。


 灯されたランプの光が、書架の影を長く床に落としている。


 リズは、しばらく黙っていた。

 リオネルも、急かさない。


 やがて、彼女が口を開く。


「……答え合わせを、してもいいですか」


 問いというより、確認だった。

 リオネルは、わずかに目を細める。


「ええよ。あんさんが、もう見えとるなら。

 俺がわかる範囲だけやけどな」


 リズは、ゆっくりと息を吸った。


「聖女は、神託によって選ばれる。そう、教えられてきました。

 けれど、本当は……違うのかもしれません。神託があるのは事実かもしれない。でも――」


 視線を伏せたまま、言葉を続ける。


「力を与えられる子どもには、共通点がある。

 ――紫の瞳という特徴が」


 それは、書庫で歴代の聖女について調べているときに気が付いた共通点だった。すべての聖女が、同じ瞳の色。偶然とは思えない。

 少なくとも、リズは紫の瞳の人物を自分とリオネル以外で、見たことはなかった。


「洗礼は、一歳のとき。全員が、教会へ赴きます。

 その時点で……教会は、誰が“選ばれているか”は、分かる」


 彼女は、そこで一度、言葉を切った。

 目を閉じれば浮かぶ、あの日見た洗礼の様子。子どもたちの煌めく瞳に微笑ましさを覚えていた過去の自分。

 喉の奥に、わずかな渇きを覚える。


「……私も、最初から把握されていた」

「せやな」


 短い肯定だった。それ以上、付け足しはない。

 リズは、膝の上で指を組み直す。


「では、私が……あの家で受けていたことも」


 リオネルは、視線を逸らさなかった。


「知っとったはずや」


 それだけだった。

 怒りは、湧かなかった。

 驚きも、もうなかった。

 ただ、胸の奥で、最後のピースが静かに嵌まる。


「……放置されたのですね」


 問いではない。事実の確認。


「“救われた聖女”として、完成させるために」


 リオネルは、少しだけ苦く笑った。

 彼は、リズのつぶやきに対して静かに言葉を置く。


「物語にするにはな、順番が要るんや」


 リオネルは、淡々と続ける。


「悲劇があって、救いがあって、それを見届ける誰かがおって、初めて“意味のある奇跡”になる。

 早すぎたら、ただの事故や。遅すぎたら、誰も信じん。せやから……頃合いを待った」


 責めるでも、弁明するでもない。

 ただ、事実を並べているだけだった。


「教会も、王宮も、“救われた聖女”という形を選んだだけや。

 それが一番、都合がよかった」


 善悪の評価は、どこにもなかった。ただの説明だった。


「教会にとっては、救われた聖女が健気に民衆を救うっちゅう物語は広告塔にしやすい。従順で流されやすく奇跡を起こす聖女ほど、扱いやすいもんはない。

 王宮にとってはな……」


 リオネルは、少し言葉を選ぶように続ける。


「普通の聖女より、救われて、守られて、前に出ん聖女の方が――国にとって、ずっと“安全”やった」


 リズは、その意味を理解してしまった。


 守るため。

 国を揺らさないため。

 象徴を壊さないため。


 リズは、目を閉じる。


 床の冷たさ。

 痛み。

 声を出せなかった夜。


 それらが、すべて――「聖女リズ」という物語の、前提条件だった。


「……殿下は」


 その名を、彼女は口にしなかった。


「何も知らん。ほんまに、迎えに行くだけやと思っとったはずや」


 だからこそ。


「彼は、あんなにも“正しかった”のですね」


 リオネルは、頷いた。


「役を与えられた中で、唯一、台本を知らん役者や」


 ヴィルフレッドは裏側を知らなかった。王宮としては、聖女という存在をヴィルフレッドの妻として取り込むために、わざわざリズの救出劇へ彼を送り込んだのは間違いない。


 しばらく、沈黙が落ちる。

 リズは、ゆっくりと顔を上げた。


「あなたは」


 紫の瞳が、真っ直ぐに彼を捉える。


「すべて、知っていたのですか」


 問いは、静かだった。責める色は、ない。

 リオネルは、少し考えてから答えた。


「全部、やない。あんさんがここにきて、司祭たちの動きとかあんさんの様子とかを見て、ああ、とは思っとった。

 でも……歴代の聖女のことは、見てきた」


 時間の流れを、彼は当然のもののように語る。


「治癒の形も、深さも、違った。

 誰一人、同じやなかった」


 教会が語る「均質な奇跡」とは、正反対の事実。


「それでも、教会は“同じ”にしたがる。管理するには、その方が楽やからな。

 …先々代の聖女は、それこそあんさんが受けたように、家族から虐待されて保護されとったな」


 リオネルは苦い表情で 「あの境遇も、作りもんやったのかもしれへんな…」とこぼす。

 リズは、小さく息を吐いた。


「だから……私が、すべてを癒さなくなったとき」

「やっと、あんさんが“考え始めた”って、分かった」


 彼女は、少しだけ微笑んだ。

 リズは聖句を唱えることで治癒の力を使える。その効果は、彼女が相手からどう思われているのかによって、左右された。

 歴代の聖女も同じように力の濃淡があったのかはわからない。しかし、それでもリズが与えられるだけでなく、自分で考え、周囲を見て理解するきっかけになった。


「私は、壊そうとは思いませんでした。

 ただ……応えなくなっただけです」


 救われる役を。与えられ続ける役を。

 リオネルは、その言葉を、肯定も否定もしなかった。


「それが、一番、物語を狂わせる」


 リズは、静かに頷く。


「私は、聖女であることを否定しません。

 力があることも、事実です」


 けれど。


「それを、誰のために、どの形で使うかは――もう、私が選びます」


 紫の瞳は、揺れていなかった。

 リオネルは、その姿を見て、ほんのわずかに笑った。


「やっと、自分で立ったな」


 その直後、ふとした間を置いて、リズは首を傾げた。


「……ひとつ、いいですか」

「なんや」

「あなたの話し方」


 リオネルは、わずかに眉を上げる。


「その訛りです。王都の人とも、教会の人とも、違う」


 責める響きはなかった。

 ただの疑問だった。


「……あんさんは、何時からおかしいと思っとったん?」

「ずっと不思議だとは、思っていました」


 リオネルは、小さく笑う。


「これはな、俺が生まれ育った土地の言葉や。

 もう、地図にも載っとらん」


 ランプの光が、彼の横顔に影を落とす。


「隣国との戦争で、324年前に滅びた場所や」


 リズは、息を呑んだ。


 324年。

 彼の姿は、その時間と一致しない。


「……あなたは」


 問いは、最後まで言葉にならなかった。

 リオネルは、あっさりと頷く。


「不老不死や」


 重みを持たせることなく、事実だけを置く。「まあ、不死については、ほんまかわからんけどなぁ…」と言いつつ、リズと同じ紫色の瞳が、遠くを見るように宙へ視線を向けた。


「あんさんのような治癒の力を持つ子は同時には出現せえへん。先代が亡くなると、それを補うように、数年の間に同じような治癒の子どもが産まれとる。

 俺はイレギュラーらしいわ。まあ、長生きしすぎてるだけの話やけどな」


 だから、歴代の聖女を見送り続けてきた。

 誰よりも、奇跡の“差”を知っていた。


「人間は、俺のことを現人神や聖人やゆうて、祀り上げとる」


 リズは、胸の奥が、少しだけ締めつけられるのを感じた。


「……それでも、あなたは」


 声が、わずかに柔らぐ。


「自分を、神だとは思っていない……」

「思えるほど、上手く生きとらん」


 淡々とした答えだった。


「助けられんかった聖女もおる。

 見送るしかなかった人生も、山ほどある」


 永遠を生きる者が背負う、静かな重さ。

 リズは、その横顔から目を離せなかった。


 神ではない。

 裁く存在でもない。

 ただ、見続けてきた人。


 ――だからこそ。

 胸の奥で、何かが、そっと動いた。


「……ありがとうございます」


 何に対する礼かは、自分でも分からない。

 けれど、言わずにはいられなかった。


 リオネルは、軽く手を振る。


「礼を言われることは、何もしとらん」


 そして、静かに続けた。


「選ぶんは、あんさんや。最初から、ずっとな」


 リズは、その言葉を胸に落とす。


 自分は、物語の中の聖女ではない。

 “救われ続ける役”でもない。


 選ぶ者として、ここに立っている。


 その事実に、不思議と――胸の奥が、あたたかかった。


■■■


 朝の礼拝堂は、いつもと同じ匂いがした。

 香と石と、静けさ。


 それでも、リズの中では、何かが確実に変わっていた。


 祈りの言葉は口から出る。動作も、姿勢も、完璧だ。

 けれど――祈りの向かう先が、少しだけ、ずれている。


(……私は、何を願っているのだろう)


 神の名を呼びながら、脳裏に浮かぶのは、澄んだ紫の瞳。

 長い時間を生き、なお「人である」ことを選び続けた男の声。


 そのことに気づいた瞬間、リズは小さく息を詰めた。

 これは、聖女としては――きっと、正しくない。


 昼下がり、書庫。

 昨日と同じ席に、リオネルはいた。


「今日は、祈りが長かったな」


 責める調子ではない。

 ただの観察。


「……分かるのですか」

「あんさん、考えごとしとる時は、祈りの終わりが遅なる」


 そんな癖、知らなかった。

 気づかれていたことに、胸が静かに揺れる。


「迷っとる顔や」


 リズは、否定しなかった。


「聖女として、してはいけないことを……考えてしまいました」

「ほう」


 興味深そうに、けれど深入りせず。


「誰かを、特別だと思うことです」


 声は、落ち着いていた。

 だが、その言葉だけが、書庫の空気を変えた。

 リオネルは、一瞬だけ瞬きをした。


「それは……聖女やなくても、難しい問題やな」

「でも」


 リズは、続ける。


「私は、選ぶと決めました。

 力の使い方も、生き方も」


 視線が、自然と彼に向く。


「……感情も」


 言葉にした瞬間、胸の奥が、すう、と静まった。

 怖さよりも、確かさが勝っている。


 リオネルは、しばらく黙っていた。


 長い沈黙。

 それは、拒絶ではなかった。


「俺はな」


 ようやく、口を開く。


「あんさんに、救われたいとは思っとらん」


 はっきりとした言葉。

 リズは、頷いた。


「……分かっています」

「それでも」


 彼は、続ける。


「一人の人として、並んで歩きたいと思われるんは、悪くない」


 それ以上は、言わなかった。

 けれど、その言葉だけで、十分だった。


 リズの胸に、あたたかなものが灯る。


 恋だと、名づけなくてもいい。

 約束も、未来も、まだ要らない。


 ただ。この人と、共に歩みたい。

 聖女ではなく、物語でもなく、一人の人間として。




 書庫の窓から差す光が、二人の足元を照らす。

 それは、救われた聖女が、初めて「自分で選んだ幸福」へと、歩き出した証のようだった。




まず、この長々とした小説を最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「家族から虐げられていた少女が助けられ、神託によって聖女となる」という定型ストーリーを思い浮かべたときに、「虐待されはじめた時点で、神託で助けられないのかな」と思ったのがきっかけで生まれた物語です。

私自身、王道ストーリーを別の角度から見た話が好きなこともあり、このような形になりました。

リオネルの訛りは現実準拠だとおかしい言い回しなどもあったと思いますが、「この世界だとこういう訛りなんだ」と流していただけたらと思います。

このストーリーだと「私の婚約者は、どうやら婚約解消をしたいらしい」と同じテイストの書き方が合ってるなと思い、固めに書こうと努力したのですが、能力設定や最後のネタバラシに至る伏線は、意図的にぼかしながら書いているため、分かりにくい部分もあったかもしれません。


それでも最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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