第1話 出会いは、嵐の夜に
ゴウウウウ……ッ!
叩きつけるような暴風に、古い教会の梁が悲鳴を上げる。
聖女の、私の魔力に引き寄せられた魔物たちが、もうすぐそこまで迫っている。
私に残された時間は、あと僅かだ。
ここはアルヴォラーダ王国の最果て、国境の断崖――ディヴィザ岬。
聖女としての最後の時。
私は祭壇に祈りを捧げる代わりに、奥の部屋に打ち捨てられた石像の隣に腰掛けていた。
この石像は三百年の昔、破滅の龍から国を救った英雄ジークフリードの記念碑らしい。
彼自身は相打ちで亡くなったと聞いている。
「もうすぐね。今まで私の話を聞いてくれてありがとう」
そう言って、石像の腕を撫でる。
室内があまりに寒いからだろうか。
人の体温のような温かさを感じる錯覚を覚える。
◇◆◇
王都で聖女として祭り上げられた私。
王家の血筋を取り込みたい父であり、神官長でもある男の婚姻話を断った。
――それだけで、命を狙われた。
婚姻話のあった夜。
父と王子が話す教会と王家が隠し続けてきた英雄にまつわる秘密。
私に聞こえたのは「封印」「不老」「石化」、その三つの単語だけだったけれど、まさか人を殺してまでも守らねばならないほど重い秘密だというのだろうか。
追手は騎士。身体能力では絶対に勝てない。
けれど、私には魔力がある。
切りつけられそうになったところを防御壁で防ぎ、閃光で目をくらませ、王都の裏道を縫いながら、屋根を伝い、下水道に潜る。
騎士は速い。だが、甲冑の重さと夜の市街では、細い屋根伝いの逃走は追えない。
そこまでしても勝算は完全ではない。
それでも、生き延びるためには全てを賭けるしかなかった。
どれほど祈ろうと、神は何も応えない。
精神が磨耗しきった頃、この教会を見つけたのが十日ほど前。
しかし今日、私の魔力に引き寄せられた魔物に見つかってしまった。
捕まる前になんとか教会に逃げ込み、今は張られた結界でしのいでいる。
それもほどなく終わるだろう。
◇◆◇
この石像は私の他愛ない話や愚痴を聞いてくれる、唯一の友人だった。
何も応えない神の代わりに、せめて人の形をしたものに話しかけることが私の心の救いだった。
その時。
パリンッ……!
ついに結界が叩き割られたようだ。
ドオォォンと、奥の部屋まで届く教会の入り口の重い扉が倒れる音に思わず体が竦み、制御を失った魔力が漏れ出す。
壁に、床にと散った白い光は、弾かれて中空でキラキラと霧散していく。
無機物は、聖女の魔力を受けつけない。
そんな当たり前の常識を、今更になって思い出す。
当然、彼の石像だって――。
そう思っていた瞬間、信じられない光景が飛び込んできた。
「……え?」
空中を舞う私の魔力が、石像の中へと吸い込まれていく。
それはまるで乾いた砂が水を飲むように。
魔力を弾かない石像。
あり得ない。……まさか。
「生きて……いるの?」
『……こせ』
突如、頭の中に直接響く、掠れたノイズのような声。
『……よこ、せ。……もっと……光を……!』
それは人の言葉というより、暗闇の底で渇ききった者の、悲痛な叫びだった。
幻聴じゃない。
彼は死んでなどいなかった。何かしらの理由で封印され、ずっと飢えていたんだ!
だが、無情にも時間は待ってくれない。
バタンッ!
部屋のドアが蹴破られ、異形の魔物たちが雪崩れ込んで来た。
牙の隙間から湿った息を漏らし――まるで笑っているように見える。
「ここまで、ね……」
『よ……こ……せ』
私の諦めを否定するかのように、またあの声が脳を揺らす。
神様は一度だって私を見てくれなかった。
でも、この人は違う。
この人だけは、私の力を「欲しい」と言ってくれている。
この人が私の味方になるなんて保証はどこにもない。
だがわずかな可能性でも助かる道を選ぶのであれば。
――最後に縋るべきは神じゃない、こっちだ!
石像の後ろに回り込み、その背中に両手を当てた。
「欲しいってのならあげるわ!全部持っていきなさい!!」
両手が昼間の太陽のように輝き、私の全ての魔力が、奔流となって石像へ流れ込む。
やがて全てを出し尽くし、私は糸が切れたように床へへたり込んだ。
息が荒く、腕の震えも止まらない。
なんとか這いながら石像の前に回るが……何の変化もない。
やはり、駄目だったのか。
神はいない。
……奇跡なんて、最初から信じるべきじゃなかった。
「ははっ、最後に信じたものも、これか。私の生きた意味はいったい何だったんだろう……」
ポタリ、ポタリと涙が床に落ちる。
眩しさに目を細めていた魔物たちもすでに立ち直っている。
魔物たちが、うねるように床を踏みしめながら一歩一歩私に迫る。
顔を上げた私が見たのは、ゆっくりと振り上げられる鋭い爪だった。
(もう……どうでもいいわ)
私が目を閉じた瞬間、
バゴォッ!
肉を砕くような音が響く。
痛みはなかった。
恐る恐る振り返ると――先ほどまでの石像がなくなり、代わりに錆びついた鎧に身を包んだ大柄の男が立っていた。
彼はゆっくりと右手を上げ、群がる魔物たちに向ける。
剣など要らないと言わんばかりの無造作な動作。
次の瞬間、彼の手から極大の魔力が迸った。
閃光が部屋を埋め尽くし、魔物たちも、壁も、夜の闇さえも――すべてが光に飲まれた。
ふうっ、と大きなため息をつき、男は呆然とする私の前に跪いた。
「……すまない、助かった」
錆びた篭手から伸びる無骨な指が、私の頬の涙を不器用に拭う。
その瞳は、暗闇から解放されたばかりで、まだ焦点が定まらないほど強く揺れていた。
「ようやく三百年の夜が終わった。……起こしてくれて、心から感謝する」
「あ……」
「もう泣くことはない。俺は君に起こされた。なら、この命は君のために使おう」
彼は跪いて私の手を恭しく取り、甲に唇を寄せた。
それは愛ではない。命を拾われた騎士が、新しい主に捧げる――誓い。
英雄に跪かれている現実を、私は信じられずにいた。




