エピローグ 青空の下、再起動した世界で
季節は巡り、東京の街には冷たくも澄んだ冬の空気が満ちていた。
皇居周辺のランニングコースや、高層ビルの谷間を縫うように走る幹線道路。その景色を、俺、相沢健太は愛車となったロードバイクのサドルから眺めていた。
風を切る音と、タイヤがアスファルトを捉える軽快なノイズだけが耳に届く。
息は白いが、身体の芯は熱い。ペダルを踏み込むたびに、大腿四頭筋に心地よい負荷がかかり、全身の血液が循環していくのを感じる。
「ふぅ……」
信号待ちで停車し、ボトルからスポーツドリンクを一口飲む。
以前の俺なら、休日は昼過ぎまで寝ているか、あるいは佐々木美穂の機嫌を取るために、興味くもないショッピングモールに付き合わされていただろう。彼女の荷物持ちとして、ただ後ろをついて歩くだけの休日。
だが今の俺は、自分の意志でハンドルを握り、行きたい場所へ行き、見たい景色を見ている。
この当たり前の自由が、今の俺には何よりも尊く、そして誇らしかった。
あの一件から、半年が過ぎた。
株式会社トヨス・トレーディングでの「公開処刑」事件は、もはや過去の笑い話として語られることすら少なくなった。人の噂も七十五日と言うが、現代社会の情報の消費速度はもっと速い。
早川恭介と佐々木美穂という二つの「バグ」が排除されたシステムは、驚くほど円滑に稼働していた。
俺自身の環境も激変した。
あのトラブル対応(という名の自作自演)での迅速な処理と、その後のセキュリティ強化プロジェクトの成功が高く評価され、俺は異例のスピードで係長に昇進した。給料は上がり、裁量権も増えた。
何より変わったのは、周囲の目だ。
かつては「地味なシステム屋」「便利屋」として軽く見られていた俺だが、今では「頼れる技術者」「危機の際に冷静な判断ができるリーダー」として、他部署からも一目置かれる存在になっていた。
「相沢さん、おはようございます! 週末は走られたんですか?」
月曜日の朝。オフィスに出社すると、隣の席の女性社員が明るい声で話しかけてきた。
彼女は中途採用で入ってきた、システム部の新しいメンバー、橘里奈だ。ショートカットが似合う、快活で聡明な女性だ。
「おはよう、橘さん。ああ、昨日は湾岸エリアまで軽くね。天気も良かったし」
「いいですねぇ! 私も最近ジム通い始めたんですけど、相沢さんみたいにストイックにはなれなくて。今度、継続の秘訣教えてくださいよ」
「秘訣なんてないよ。ただ、自分のメンテナンスを怠ると、あとで高くつくって学んだだけさ」
「あはは、さすが職業病ですね!」
彼女は屈託なく笑う。
その笑顔には、かつての美穂のような「媚び」や「計算」がない。純粋な敬意と親愛が感じられる。
美穂と一緒にいた頃は、常に顔色を窺い、「機嫌を損ねない正解」を探りながら会話をしていた。まるで地雷原を歩くような緊張感があった。
だが今は違う。対等な人間として、自然体で会話ができる。
人間関係とは本来こうあるべきものなのだと、三十歳を目前にしてようやく理解した気がする。
「あ、そういえば相沢さん。例のクラウド移行の件、ベンダーから見積もり届いてます」
「ありがとう。後でチェックしておくよ。……それと、今日のランチ、もし空いてたら駅前の新しいイタリアン行かない? プロジェクトの打ち上げも兼ねて」
「えっ、いいんですか? 行きたいです! あそこのパスタ、気になってたんですよ」
橘さんの目が輝く。
俺は自然に彼女を誘えるようになっていた。下心があるわけではない。ただ、良い仕事をした仲間と、美味しいものを共有したいと思う、健全な欲求だ。
かつての俺なら、「美穂以外の女性と食事に行くなんて、浮気だと疑われるかも」と過剰に自制していただろう。
そんな「呪縛」は、もうどこにもない。
昼休み。
俺たちは陽光が差し込むレストランのテラス席で、ランチセットを楽しんでいた。
話題は仕事のこと、最近観た映画のこと、そして将来のキャリアプランについて。
会話が弾む。彼女は俺の話を真剣に聞いてくれるし、自分の意見もしっかりと言葉にする。
「ATM」でも「保険」でもなく、「相沢健太」という個人を見てくれている実感があった。
ふと、通りの向こうを一台の清掃トラックが通り過ぎていった。
作業員たちが手際よくゴミ袋を回収していく。
その光景を見て、俺の脳裏にふと、過去の記憶がフラッシュバックした。
早川恭介。
風の噂で聞いた話では、彼は今、日雇いの肉体労働を転々としているらしい。
離婚による慰謝料、会社からの損害賠償、そして妻の実家からの違約金請求。膨大な借金を背負い、住所不定のまま、ネットカフェ難民のような生活を送っているそうだ。
かつて高級スーツに身を包み、「俺は選ばれた人間だ」と豪語していた男の末路。
彼が今、この街のどこかで、汗と泥にまみれて働いているかと思うと、因果応報という言葉の重みを感じざるを得ない。
そして、佐々木美穂。
彼女からの連絡をブロックして以来、俺は彼女の情報を意図的に遮断していた。
知る必要がないからだ。
削除したファイルがゴミ箱の中でどうなっていようと、ユーザーには関係のないことだ。
ただ、一度だけ。
先月のことだ。仕事の付き合いで、少し繁華街の外れにある居酒屋に行った時のこと。
帰りにタクシーを拾おうと路地に立った時、見かけてしまったのだ。
派手な、けれどどこか安っぽいドレスを着て、店の前で客引きをしている女性を。
雨上がりの湿った路上。通り過ぎる男たちに声をかけては、無視され、舌打ちされている姿。
厚化粧で隠そうとしているが、その肌の荒れと、表情に刻まれた疲労の色は隠しようがなかった。
かつて「社内の女神」と呼ばれ、透き通るような笑顔で男たちを魅了していた彼女の面影は、そこにはもうなかった。
目が合ったような気がした。
彼女の視線が、俺のスーツ姿に向けられた瞬間、その目が大きく見開かれたように見えた。
「健太くん?」と唇が動いたかもしれない。
助けを求めるような、すがるような、哀れな瞳。
かつての俺なら、その姿を見て心が痛み、手を差し伸べてしまったかもしれない。
だが、その時の俺が感じたのは、驚くほどの「無」だった。
怒りでも、憐憫でも、優越感ですらない。
ただ、道端に落ちている空き缶を見るような、感情の動かない認識。
「ああ、そこに何かあるな」程度の感覚。
俺は視線を外し、やってきたタクシーに乗り込んだ。
バックミラーに映る彼女が、何かを叫びながら追いかけてこようとしたが、すぐに店の黒服らしき男に腕を掴まれ、引きずり戻されていった。
タクシーが走り出し、彼女の姿は夜の闇に溶けて消えた。
それが、俺が見た彼女の最後の姿だ。
「相沢さん? どうしました?」
橘さんの声で、俺は我に返った。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてた」
「もしかして、仕事のトラブルですか?」
「いや、逆だよ。昔のバグが完全に修正されたことを確認してたんだ」
「バグ? システムのですか?」
「まあ、そんなところかな。人生のシステムにおける、致命的な脆弱性がね」
俺が意味深に笑うと、橘さんはきょとんとしながらも、「相沢さんが大丈夫なら、大丈夫ですね!」と笑い返してくれた。
そう、大丈夫だ。
俺の人生というシステムは、再起動を完了し、今はかつてないほど安定して稼働している。
オフィスに戻り、午後の業務に取り掛かる。
モニターには、複雑なコードの羅列が表示されている。
俺はこの無機質な文字の羅列が好きだ。
嘘をつかない。裏切らない。論理的に正しい記述をすれば、必ず正しい結果を返してくれる。
人間関係よりもよほどシンプルで、信頼できる世界だ。
だが、今の俺は知っている。
現実世界もまた、自分の行動次第でいかようにも書き換えられるのだと。
他人に依存し、他人の評価ばかりを気にしていた「バグだらけの自分」を修正し、自分の意志で歩き始めた瞬間から、世界は驚くほど鮮やかに色を変えた。
夕方、定時少し前に部長に呼ばれた。
「相沢くん、来期のプロジェクトだが、君にリーダーを任せたいと思っている。海外支社との共同開発だ。英語も必要になるが、やってくれるか?」
大きなチャンスだ。
以前の俺なら、「自信がありません」「私には荷が重いです」と断っていたかもしれない。あるいは、「美穂との時間が減るから」と躊躇していたかもしれない。
だが、今の俺に迷いはない。
毎週末に通っている英会話スクールの成果を試す時が来た。
「はい、謹んでお受けします。全力でやらせていただきます」
力強く答えると、部長は満足げに頷いた。
「期待しているよ。君は最近、顔つきが変わったな。昔はもっと自信なさげだったが、今は頼もしい限りだ」
「ありがとうございます。……いろいろと、断捨離しましたので」
「断捨離か。それはいいことだ。身軽になれば、より高く飛べるからな」
部長の言葉を噛み締めながら、俺は席に戻った。
窓の外を見ると、東京の空が夕焼けに染まり始めていた。
紫とオレンジが混ざり合う、美しいグラデーション。
高層ビルのシルエットが黒く浮かび上がり、その向こうには一番星が輝き始めている。
スマホを取り出す。
壁紙は、以前は美穂とのツーショット写真だった。
今は、愛車のロードバイクと、その向こうに広がる青い海の写真だ。
連絡先リストを見る。
「M」も「H」もない。不要なデータはすべて削除済みだ。
代わりに増えたのは、趣味の自転車仲間や、仕事で知り合った尊敬できる人たちの連絡先。
そして、橘里奈の名前。
俺はスマホをポケットにしまい、大きく伸びをした。
肩の凝りはない。心に澱みもない。
ただ、明日への希望と、今日を生きる充実感だけがある。
「さて、ラストスパートだ」
キーボードに指を走らせる。
軽快な打鍵音が、俺のリズムを刻む。
かつて俺を苦しめた裏切りも、絶望も、今となっては俺を成長させるための糧だったのかもしれない。
そう思えるほどに、俺は強くなった。
復讐は終わった。
「ざまぁ」という感情すら、もう過去のものだ。
彼らがどこでどうしていようと、俺には関係ない。彼らの不幸を願うことすら、時間の無駄だ。
最高の復讐とは、彼らが二度と到達できないような幸福な人生を、俺自身が送ることなのだから。
俺はエンターキーを強く叩いた。
『Build Successful』
画面に表示された緑色の文字が、俺の新しい人生を祝福しているように見えた。
退社時刻。
俺はオフィスの照明を一部落とし、エレベーターホールへと向かう。
「お疲れ様でした!」
「お先に失礼します!」
すれ違う社員たちと挨拶を交わす。
一人一人と目を合わせ、笑顔を交わす。
誰も俺を「便利な背景」とは見ていない。一人の仲間として見てくれている。
ビルの外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
見上げれば、満天の星空とはいかないまでも、都会の空にもいくつかの星が瞬いている。
俺は深く息を吸い込んだ。
冷たくて、美味しい空気だ。
歩き出す。
足取りは軽い。
向かう先は、馴染みのバーでもいいし、本屋でもいい。あるいは、まっすぐ帰って新しい料理のレシピを試すのも悪くない。
選択肢は無限にある。
ハンドルを握っているのは、俺自身だ。
「いい夜だ」
誰に聞かせるでもなく、俺は呟いた。
その声は、夜の闇に吸い込まれず、確かに俺の耳に届いた。
これが、俺のハッピーエンド。
いや、エンドではない。
ここからが、本当のスタートだ。
俺、相沢健太の人生バージョン2.0。
バグ修正完了。システム正常稼働中。
これより、メインストリームを実行する。
俺は冬の星座に向かって、小さくガッツポーズをした。
そして、輝く未来へと続く大通りを、堂々と歩き出した。




