サイドストーリー 堕ちた女神と冷たい雨
場末のスナック「ルージュ」の重い扉を開けると、湿ったタバコの臭いと、安っぽい香水の香りが鼻をつく。
深夜二時。ヒールの高いサンダルでアスファルトを踏みしめながら、私はふらつく足取りで路地裏を歩いていた。
冷たい秋雨が、私の肩を濡らす。かつては艶やかだと褒められた黒髪も、今はヘアスプレーで固められ、雨に打たれてゴワゴワになっていた。
「……寒い」
小さく呟いても、誰も上着をかけてはくれない。
一ヶ月前までなら、私が「寒い」と言えば、すぐに相沢健太が飛んできて、自分のジャケットを優しくかけてくれただろう。あるいは、早川恭介がスマートにタクシーを止め、温かい車内へとエスコートしてくれたはずだ。
今の私にあるのは、ビニール傘一本と、客にこぼされた水割りでシミになった安物のドレスだけ。
私は佐々木美穂。二十四歳。
少し前までは、株式会社トヨス・トレーディングの受付嬢として、「清純派の女神」「オアシス」と呼ばれ、社員たちから憧れの視線を集めていた。
それが今では、時給二千円の場末のスナックで、ハゲた親父の自慢話を聞きながら、太腿を撫で回される生活を送っている。
「どうして……こうなっちゃったのかな」
アパートへの帰路、コンビニのガラスに映った自分の顔を見て、私は愕然とする。
目の下にはクマができ、厚化粧が雨で崩れて、まるでピエロのようだ。かつての透明感なんて見る影もない。
これが、私が望んだ「刺激的な未来」だったの?
あの日。全社総会での悪夢。
あれがすべての終わりであり、地獄の始まりだった。
数百人の前で晒された、早川さんとの情事。スクリーンに映し出された私は、自分でも見たことがないくらい淫乱な顔をしていて、健太くんを馬鹿にする言葉を吐いていた。
あの瞬間、会場中の視線が「憧れ」から「軽蔑」へと反転したのを肌で感じた。
まるで鋭利な刃物で全身を切り刻まれるような感覚。
「汚らわしい」「裏切り者」「ビッチ」
声に出されなくても、全員の目がそう語っていた。
会社を追われた後のことは、あまり記憶にない。
ただ、実家の両親が鬼のような形相で東京のアパートに乗り込んできたことだけは覚えている。
厳格な父は、私の頬を力いっぱい引っ叩いた。
『恥さらしが! お前のような娘はもう知らん! 親子の縁を切る!』
母は泣き崩れていたが、私を庇ってはくれなかった。
私の動画は、ネットを通じて地元の友人や親戚にまで広まっていたらしい。田舎の狭いコミュニティでは、噂は光の速さで広がる。「佐々木家の娘が、東京でとんでもないことをしでかした」と。
私は勘当され、実家からの仕送りも止められ、住んでいた小綺麗なマンションも追い出された。
手元に残ったのは、わずかな貯金と、大量のブランド品のバッグや服だけ。
でも、それらも生活費のために質屋に入れた。早川さんに買ってもらったエルメスのバッグも、健太くんが誕生日にくれたティファニーのネックレスも。
全部、二束三文にしかならなかった。
私のプライドと同じだ。
古い木造アパートの鍵を開け、狭いワンルームに入る。
カビ臭い空気が淀んでいる。
布団に倒れ込みながら、私はスマホを握りしめた。
連絡通知はゼロ。
以前なら、LINEを開けば未読が数十件は溜まっていた。遊びの誘い、食事の誘い、健太くんからの心配のメッセージ。
私はそれを選別し、気分が良い時だけ返信する「女王様」だった。
でも今は、誰からも必要とされていない。
ブロックされたり、着信拒否されたり。あるいは、興味本位で「あの動画の件、どうなの?」と聞いてくるデリカシーのない輩だけ。
「……健太くん」
口をついて出たのは、あんなに馬鹿にしていた元彼の名前だった。
地味で、真面目すぎて、退屈な男。
デートはいつもチェーン店の居酒屋か、映画館。プレゼントも実用的なものばかりで、私の欲しいキラキラした世界とは程遠かった。
だから、早川さんのような華やかな男性に惹かれた。
高級レストラン、夜景の見えるホテル、スリル満点の社内での密会。
私はお姫様になりたかったのだ。
健太くんは、そのための「安定した土台」でしかなかった。ATM。保険。キープ。
そう思っていた。
でも、失って初めて気づいた。
その「土台」がどれほど温かく、私を支えてくれていたのかを。
私が風邪を引いた時、深夜でもポカリとゼリーを持って駆けつけてくれたのは誰?
仕事でミスをして落ち込んだ時、朝まで愚痴を聞いてくれたのは誰?
私のわがままを、嫌な顔一つせず聞いてくれたのは誰?
早川さんは違った。
私が会社をクビになった途端、彼は保身に走った。
あの動画の中で「俺が揉み消してやる」なんて言っていたくせに、いざとなったら私を「誘惑してきた女」として扱い、自分だけ助かろうとした。
結局、彼にとって私は「都合のいい穴」でしかなかったのだ。
そして私も、彼を「ステータス」として利用していただけだったのかもしれない。
「……会いたい」
涙が枕を濡らす。
今なら分かる。健太くんのあの穏やかな笑顔が、どれほど貴重なものだったか。
あの日、非常階段で私が言った言葉。
『健太くんはチョロい』
『結婚したら保険金かけて殺しちゃう?』
そんなこと、本気じゃなかった。ただの軽口だった。早川さんとの会話を盛り上げるための、悪い冗談だった。
健太くんも、分かってくれるはずだ。
だって彼は、私に惚れ込んでいたんだから。私が泣いて謝れば、きっと「仕方ないなぁ」って許してくれるはず。
そうよ、彼は優しいから。まだ私のことを好きに決まってる。
私は震える指で、健太くんのLINEを開いた。
アイコンは初期設定に戻っているが、ブロックはされていないようだ。
まだチャンスはある。
『健太くん、久しぶり。元気にしてますか?』
文章を打ち込み始める。
惨めだとは思った。自分からはめ込んで、裏切って、社会的に殺そうとした相手にすがるなんて。
でも、今の私には彼しかいないのだ。
この底辺の生活から抜け出すには、健太くんに救い上げてもらうしかない。
『急に連絡してごめんなさい。私、いま一人暮らしを始めて、小さなアパートに住んでるの。
会社を辞めてから、実家にもいられなくなって……両親とも喧嘩して、家を追い出されちゃった。』
同情を誘う言葉を選ぶ。彼は「可哀想な女の子」に弱い。
『再就職しようとしても、あの動画のことが噂になってて、どこの面接も受からなくて。
今は夜のお仕事を少しだけしてるけど、私には合わなくて、毎日が辛いです。』
正直に書いた。私が今どれだけ辛いか。どれだけ罰を受けているか。
これを見れば、きっと彼は「もう十分償ったよ」と言ってくれるはず。
『ねえ、健太くん。
私、本当にバカだった。健太くんがどれだけ優しくて、私を大切にしてくれてたか、失って初めて気づいたの。
早川さんには騙されてただけなの。無理やり誘われて、断れなくて……。
本当に愛してたのは健太くんだけだったんだよ。信じて。』
嘘を混ぜる。早川さんに騙されたことにする。私が主導していた部分なんて、彼は知らないはずだから。
……いや、知っているのだろうか? あの動画には、私がノリノリで話している声も入っていた。
でも、あれは演技だったと言い張ればいい。男社会で生き抜くために、上司に逆らえなかっただけだと。
『今さら虫がいいって分かってるけど、私にはもう健太くんしかいないの。
一度だけでいいから、会って話がしたいです。謝りたい。
あの頃みたいに、また優しく抱きしめてほしい。
助けて。寂しいよ。連絡待ってます。』
送信ボタンを押す。
心臓が早鐘を打つ。
既読がつかない。深夜だから寝ているのだろうか。
それとも、もう私のことなんて忘れて、新しい彼女と幸せな夢を見ているのだろうか。
……嫌だ。そんなの許せない。
私の健太くんなのに。私が育てた、最高の「優良物件」なのに。
一時間。二時間。
私はスマホを握りしめたまま、まんじりともせず待ち続けた。
雨音だけが部屋に響く。
お腹が空いた。冷蔵庫には水しかない。
もし健太くんとヨリを戻せたら、美味しいご飯を作ってもらおう。彼は料理も上手だった。
肉じゃが、ハンバーグ、オムライス。
ああ、あの頃の当たり前の日常が、今は宝石のように輝いて見える。
ピロン。
通知音が鳴った。
私は弾かれたように画面を見る。
健太くんからだ! 返信が来た!
やっぱり、彼は私を見捨てなかったんだ!
震える手でロックを解除し、メッセージを開く。
そこには、短い文章が並んでいた。
『自業自得って言葉、社会人研修で習わなかったっけ?』
……え?
冷水を浴びせられたような衝撃。
自業自得? 私が?
だって、私は騙された被害者なのに。動画を流出させられた被害者なのに。
『俺はもう、お前の知ってる「便利な健太くん」じゃないんだ。』
便利。
その言葉が突き刺さる。私が彼をそう呼んでいたことを、彼は知っている。
あの動画だけじゃない。きっと、もっと多くのことを彼は知っていたんだ。
私の裏の顔も、計算高い本性も、彼を見下していた心の中も。
全部、バレていた。
『自分の人生のバグは、自分でデバッグしなよ。
二度と連絡しないでください。お幸せに。』
デバッグ。
システムエンジニアの彼らしい、冷徹な拒絶。
私という存在は、彼の人生にとっての「バグ(不具合)」だったということか。
そして、修正されて削除された。
「お幸せに」という言葉が、これ以上ない皮肉として響く。
幸せになんて、なれるわけがない。お前が私をこんな風にしたんじゃないか。
「……ひどいよ」
スマホを取り落とす。
画面には「M」の文字が表示されなくなった。ブロックされたのだ。
完全に、繋がりが絶たれた。
最後の命綱が、プツンと音を立てて切れた。
「あぁ……ああぁぁ……」
絶望の声が漏れる。
もう終わりだ。誰も助けてくれない。
私はこのカビ臭い部屋で、一生惨めに生きていくしかないのだ。
翌日、私はまたスナックに出勤した。
休むわけにはいかない。家賃も払わなきゃいけないし、食べるものもない。
店のドアを開けると、ママが嫌な顔をして言った。
「美穂ちゃん、ちょっと」
「はい……何ですか?」
「昨日のお客さんからクレーム入ったのよ。『あいつ、ネットで晒されてた動画の女だろ?』って」
心臓が止まりそうになる。
ここでも、バレたのか。
「うちはそういうトラブル困るのよ。悪いけど、今日で辞めてもらえる?」
「えっ……待ってください! 私、ここしか働く場所がないんです! お願いします、置いてください!」
私はママの足元にすがりついた。
かつて丸の内のオフィスで、優雅に受付をしていた私が、場末のスナックの床に這いつくばっている。
プライドなんて、もう欠片もない。
「困るのよ。店の評判に関わるから。……これ、今日までの給料。帰って」
突き出された数枚の千円札。
それが、今の私の価値だった。
店を追い出され、また冷たい雨の中を歩く。
行くあてなんてない。
街のショーウィンドウに映る自分を見る。
そこにいたのは、「清純派の女神」ではない。
欲望に溺れ、大切な人を裏切り、すべてを失った、ただの薄汚れた女だった。
ふと、通りの向こうにカップルが見えた。
幸せそうに腕を組み、一つの傘に入って歩いている。
男性の方は、どことなく健太くんに似ていた。
女性は……私よりもずっと地味で、化粧っ気もないけれど、とても幸せそうに笑っていた。
もし。
もしも私が、あの時、「刺激」なんて求めずに、「安定」と「誠実」を選んでいたら。
今頃、私もあんな風に笑っていたのだろうか。
健太くんの隣で、来年の結婚式の話でもしながら、温かい手料理を作っていたのだろうか。
「……戻りたい」
雨に混じって、涙が頬を伝う。
「戻りたいよぉ……健太くん……」
路上の水たまりに、ネオンサインが歪んで映っている。
それはまるで、私の歪んだ心と、二度と戻らない輝きを嘲笑っているかのようだった。
私は傘を差す気力もなくなり、その場にうずくまった。
冷たい雨が、私の罪を洗い流してくれるわけではない。
ただ、骨の髄まで染み込んで、私が独りぼっちであることを残酷に教えてくれるだけだった。
「自業自得」
健太くんの言葉が、呪いのように頭の中でリフレインする。
そうね、その通りだわ。
私が選んだ道。私が捨てた幸せ。私が壊した未来。
全部、私が蒔いた種だ。
私は立ち上がり、ふらふらと歩き出した。
どこへ行くのかも分からない。
ただ、この暗い泥濘の底を、這いずり回って生きていくしかないことだけは、痛いほど理解していた。
かつての女神は堕ちた。
そして二度と、空を見上げることはできない。




