サイドストーリー 堕ちたエースと泥濘の底
六畳一間の安アパート。壁は薄く、隣の住人がテレビを見ている音や、上の階の足音がダイレクトに響いてくる。窓の外には、錆びついた手すりと薄汚れた室外機。
俺、早川恭介は、煎餅布団の上に寝転がりながら、コンビニで買った発泡酒のプルタブを開けた。
プシュッ、という安っぽい音が、今の俺の人生そのもののように虚しく響く。
「……クソッ」
一口煽ると、ぬるくなった炭酸が喉を通り、胃の中で不快な泡立ちを見せた。
一ヶ月前まで、俺はこんな飲み物を口にしたことすらなかった。仕事帰りに寄る会員制のバーで飲むシングルモルトか、あるいは妻の実家から送られてくる高級ワイン。それが俺の日常だった。
住んでいたのは港区のタワーマンション。窓から見えるのは東京タワーと煌びやかな夜景。
それが今や、築四十年の木造アパートで、カビ臭い天井を見上げている。
俺は株式会社トヨス・トレーディングの営業エースだった。
三十代前半での課長職。年収は一千万を超え、さらに資産家の娘である妻の援助もあって、金に困ったことなど一度もなかった。
仕事はできた。口も達者だ。上司のご機嫌取りも、部下の掌握も、そして女の扱いも、俺にとってはゲームのようなものだった。
人生はイージーモード。俺が望めば、すべてが手に入る。そう信じて疑わなかった。
「あいつさえ……あの陰気なシステム屋さえいなければ」
脳裏に浮かぶのは、相沢健太の顔だ。
地味で、特徴がなく、いつも愛想笑いを浮かべていた男。俺が「おい、パソコン直せ」と言えば、「喜んで」と尻尾を振る犬のような存在だった。
だからこそ、あいつの彼女である佐々木美穂を寝取るのは、最高の娯楽だった。
美穂は社内でも評判の美人で、清純派として知られていた。そんな彼女が、あんな地味な男と付き合っているなんて、俺からすれば「資源の無駄遣い」でしかなかった。
『健太くんは優しいけど、退屈なの』
『やっぱり男は、早川さんみたいにリードしてくれる人じゃなきゃ』
非常階段の暗がりで、美穂は俺にそう囁いた。
俺は優越感に浸った。相沢が大事にしている「女神」を、俺は汚し、自分色に染め上げる。相沢が残業して稼いだ金で買ったプレゼントを身につけたまま、俺と体を重ねる美穂。
その背徳感と征服欲は、どんな高級な酒よりも俺を酔わせた。
俺は自分が世界の王になったような気分だった。相沢のことなど、俺の人生を彩るための「引き立て役」としか思っていなかったのだ。
だが、あの日の全社総会ですべてが崩れ去った。
今でも夢に見る。あの地獄のような時間を。
数百人の社員が見つめる中、俺は自信満々にプレゼンをしていた。「信頼」だの「透明性」だの、もっともらしい言葉を並べて。
そして、クリックした瞬間に始まった、あの忌まわしい動画。
『あぁっ、んんっ……早川さん、もっとぉ……!』
大音量で響き渡った美穂の声。スクリーンに大写しになった、俺たちの情事。
最初はパニックで頭が真っ白になった。
「なぜだ?」「どうして?」
俺は必死にパソコンを操作しようとしたが、マウスカーソルは凍りついたように動かなかった。まるで誰かに腕を掴まれているかのように。
そして、俺は気づいてしまったのだ。
オペレーション卓に座る相沢と目が合った瞬間に。
あいつは、慌てふためく演技をしながら、目は笑っていた。
氷のように冷たく、昏い瞳で、俺が踊り狂う様を楽しんでいた。
その時、俺の背筋に氷柱を突き刺されたような戦慄が走った。
偶然じゃない。ウイルスでもない。
これは「処刑」だ。
俺が「便利な道具」だと思って見下していた男が、俺の首に縄をかけ、足元の台を蹴り飛ばしたのだ。
「……ふざけんなよ、マジで」
空になった発泡酒の缶を壁に投げつける。
カンッ、と乾いた音がして、隣の部屋から「うるせえぞ!」と怒鳴り声が聞こえた。
俺は布団を被り、耳を塞いだ。
あの日の後、俺を待っていたのは本当の地獄だった。
会社からは懲戒解雇。退職金など出るはずもなく、逆に会社への信用毀損による損害賠償をちらつかせられた。
だが、それ以上に恐ろしかったのは、妻とその実家の反応だった。
会社を追い出されたその足で、俺は自宅マンションに戻ろうとした。だが、鍵が開かない。
スマートロックのパスコードが変更されていたのだ。
インターホンを鳴らすと、妻ではなく、見知らぬ男の声がした。妻の父親が顧問を務める法律事務所の弁護士だった。
『早川恭介様ですね。奥様からの伝言です。「二度と敷居を跨ぐな」とのことです』
「は? 何言ってんだ、俺の家だぞ!」
『名義は奥様のお父様になっております。また、あなたの荷物はすべてトランクルームに送りました。離婚届と慰謝料請求書も同封しております』
ドア越しに突きつけられたのは、絶縁宣言だった。
妻とは愛のない結婚だったかもしれないが、俺はそれなりにうまくやっているつもりだった。彼女の機嫌を取り、週末にはデートもし、「理想の夫」を演じていたはずだった。
だが、彼女にとって俺は、ただの「体裁の良いアクセサリー」に過ぎなかったのだ。
傷がついたアクセサリーは、修理などされず、ゴミ箱に捨てられる。
後日行われた離婚調停は、一方的な虐殺だった。
あの動画が決定的証拠となり、不貞行為の事実は覆せない。さらに、俺が会社の経費を私的に流用して美穂とのホテル代に充てていたことまで暴かれた。
どこからその情報が漏れたのか? 決まっている。相沢だ。あいつが俺のPCやスマホからデータを抜き出し、妻側にリークしたに違いない。
妻側は容赦なかった。
慰謝料五百万円。財産分与なし。さらに、妻の実家が俺の就職の斡旋で口利きしたコネクションに対する違約金。
合計で一千万近い借金を背負うことになった。
タワーマンションも、高級外車も、ブランドスーツも、社会的地位も。
俺が三十数年かけて積み上げてきた(と思っていた)すべてが、たった数日で消滅した。
今は、日雇いの肉体労働で食いつないでいる。
再就職? できるわけがない。
「早川恭介」という名前で検索すれば、あの事件の噂話や、匿名掲示板に貼られた動画のキャプチャ画像が出てくる。
どの企業の面接に行っても、担当者は俺の名前を見た瞬間に顔をしかめ、「後日連絡します」と言ってそれっきりだ。
俺は社会的に死んだのだ。
数日前、俺は見てしまった。
現場仕事の帰りに、コンビニの前で信号待ちをしていた時のことだ。
向こう側の歩道を、スーツ姿の男が歩いていた。
相沢健太だった。
以前のような安っぽいスーツではない。身体にフィットした、仕立ての良いスーツを着ている。髪型も整えられ、背筋が伸びていた。
そして何より、その表情が違っていた。
かつての卑屈な愛想笑いではない。自信に満ちた、晴れやかな顔で、隣にいる同僚らしき女性と談笑していた。
「……あ」
俺は思わず声を上げそうになり、慌てて電柱の影に隠れた。
惨めだった。
かつては見下し、嘲笑っていた相手に、今の薄汚れた自分の姿を見られるのが怖かった。
相沢は俺に気づくことなく、楽しげに通り過ぎていった。
彼にとって、俺はもう「倒すべき敵」ですらないのだ。
道端の石ころ。あるいは、削除済みのゴミファイル。
視界に入れる価値すらない存在。
「あいつ……あいつが全部やったんだ」
俺は震える手で作業着のポケットを探り、安タバコを取り出した。
火をつけると、不味い煙が肺に入ってくる。
相沢は知っていたのだ。俺と美穂の関係も、俺の横領も、すべてを知った上で、泳がせていた。
俺が得意げに美穂を抱き、あいつを嘲笑っている間、あいつは冷徹な計算式の下で、俺の処刑台を組み立てていたのだ。
非常階段での会話。
『あいつ、チョロいもんでしょ?』
『便利な彼氏だな』
あの言葉を、あいつはどんな顔で聞いていたのだろう。
そして、それを「証拠」として保存しながら、どんな思いで俺に「パソコン直りましたよ」と笑顔を向けたのだろう。
想像するだけで、寒気がした。
俺はとんでもない怪物を敵に回してしまったのだ。
「地味で冴えないシステム屋」なんて仮面の下に隠された、執念深く、冷酷な本性。
俺はあいつの掌の上で、滑稽に踊らされていただけだった。
エース気取りのピエロ。それが俺の正体だ。
美穂はどうしているだろうか。
風の噂では、実家を勘当され、風俗店で働いていると聞いた。
あいつもまた、地獄を見ているのだろう。
「早川さんに誘われただけ」「私は悪くない」
きっとそんな風に言い訳をして、泣いているに違いない。
だが、誰も助けない。俺も、相沢も、彼女を救わない。
ふと、スマホの画面を見る。
LINEの友達リストはスカスカだ。事件の後、あんなにいた「遊び仲間」や「人脈」は、潮が引くように消えていった。
残っているのは、消費者金融からの催促メールと、日雇い派遣会社からの業務連絡だけ。
「……腹減ったな」
俺は起き上がり、部屋の隅にあるカップ麺にお湯を注いだ。
三分待つ間の静寂が、恐ろしいほど長く感じる。
これから先、俺はどうなるのだろう。
借金を返すために働き続け、底辺を這いつくばり、誰にも顧みられることなく年老いていく。
あの輝かしい日々は、もう二度と戻ってこない。
もし、時間を戻せるなら。
もし、あの時、非常階段に行かなければ。
いや、もっと前だ。もし、相沢の彼女に手を出さなければ。
もっと言えば、他人を見下し、自分だけが特別だと思い上がっていなければ。
「遅えよ……」
湯気と共に、後悔の念が立ち上る。
カップ麺をすすりながら、俺は涙を流した。
塩辛いスープの味がした。
それは、かつて俺が相沢に飲ませていた屈辱の味であり、今度は俺が一生飲み続けなければならない、敗北者の味だった。
窓の外で、都会の喧騒が聞こえる。
かつては俺もあの中にいた。あの光の一部だった。
だが今は、その光に灼かれ、弾き出された燃えカスだ。
「ざまぁみろ、か……」
誰に言われたわけでもないその言葉が、頭の中でリフレインする。
相沢の声で。妻の声で。美穂の声で。
そして、かつての自分自身の声で。
俺はカップ麺の容器を握り潰した。
汁が手にこぼれ、熱さと共に汚れが広がる。
拭く気力も起きなかった。
どうせ俺は汚れている。心も、身体も、人生も。
俺、早川恭介の物語は、ここで終わりだ。
ここから先は、ただの「記録」に残らない、名もなき敗残者の余生が続くだけ。
エンドロールすら流れない、暗転したままの舞台で、俺は独り、蹲り続ける。




