第四話 因果応報の末路と新しい朝
あの「公開処刑」から一週間が経過した。
株式会社トヨス・トレーディングの社内は、いまだに蜂の巣をつついたような騒ぎの余韻が残っていた。廊下の隅、給湯室、エレベーターの中。至る所で囁かれるのは、あの日の全社総会で流れた映像のことばかりだ。
業務への支障を懸念した上層部は箝口令を敷いたが、人の口に戸は立てられない。動画のデータ自体は俺がサーバーから完全に削除(という名の隠蔽)を行ったが、社員たちの脳裏に焼き付いた映像までは消去できないのだ。
俺、相沢健太は、システム管理部のデスクで報告書の作成に追われていた。
タイトルは『全社総会における映像配信トラブル及び情報漏洩に関する調査報告書』。
もちろん、俺が書く内容は真実ではない。
「営業部・早川氏の私物PCが、外部サイト閲覧によりマルウェアに感染。遠隔操作によりローカルフォルダ内の動画ファイルが強制再生されたものと推測される」
……という、完璧なシナリオだ。
俺は管理者権限を使い、早川のPCのログを改ざんし、海外のアダルトサイトへのアクセス履歴を捏造しておいた。これで俺への疑いは晴れるどころか、「迅速に原因を特定し、社内ネットワークへの感染拡大を防いだ功労者」として評価されることになる。
「相沢さん、人事部長がお呼びです」
内線電話が鳴り、俺は受話器を置いた。
いよいよか。
俺はジャケットを羽織り、人事部の応接室へと向かった。
ドアをノックして入室すると、人事部長と法務担当の役員、そして顧問弁護士が座っていた。重苦しい空気が漂っているが、俺は背筋を伸ばして一礼した。
「失礼します。システム部の相沢です」
「ああ、相沢くん。座ってくれ」
人事部長が疲れたような顔で促した。目の下には濃い隈がある。この一週間、彼らがどれだけの対応に追われたかは想像に難くない。
「単刀直入に言おう。今回の件、君には多大な迷惑をかけたね」
「いえ、私は職務を全うしたまでです。ただ、あの映像が……」
「うむ。君と佐々木さんの関係については、以前から噂程度には聞いていた。今回の被害者の一人として、心中お察しするよ」
どうやら、俺と美穂が付き合っていたことは、一部では知られていたらしい。だが、それが今は俺にとって有利に働いている。「寝取られた哀れな被害者」でありながら「私情を挟まずシステム対応をしたプロフェッショナル」という評価だ。
「早川と佐々木に対する処分が決定した。君にも伝えておくべきだろうと思ってね」
部長は一枚の書類をテーブルに置いた。
そこには『懲戒解雇通知書』の文字があった。
「早川恭介は本日付で懲戒解雇だ。就業規則違反、社内秩序の著しい乱れ、そして会社の信用失墜行為。これらを総合的に判断し、最も重い処分となった」
「……そうですか」
「それだけではない。彼の奥様……早川氏の配偶者だが、今回の件を知って激怒されてね。会社に乗り込んでくる勢いだったよ」
顧問弁護士が補足する。早川の妻は資産家の娘で、実家の力も強い。どうやら、俺が匿名で送った動画データ以外にも、様々なルートから情報が漏れていたらしい。
弁護士によれば、妻側は即座に離婚を申請。さらに、不貞行為に対する慰謝料だけでなく、早川が妻の実家のコネを使って得ていた仕事上の便宜に対する損害賠償まで請求する構えだという。
早川は職を失うだけでなく、巨額の借金を背負い、社会的地位も、住む場所も、すべてを失うことになる。まさに破滅だ。
「一方、佐々木美穂についてだが……」
部長が言葉を濁した。
「彼女に関しては、情状酌量の余地はないが、本人が精神的に錯乱状態にあること、そしてこれ以上の醜聞拡散を防ぐため、『自己都合退職』という形をとらせることにした。実質的な解雇だがね」
「そうですか。彼女は今……?」
「自宅謹慎中だ。ご両親が引き取りに来たよ。実家の方でも相当な騒ぎになっているらしくてね……まあ、君が気にする必要はない」
俺は静かに頷いた。
早川は社会的抹殺。美穂は居場所の喪失。
俺が描いたシナリオ通りの結末だ。だが、不思議と高揚感は薄かった。淡々とした事実の確認作業。システムのエラーログをチェックし、「バグは排除されました」と確認する時のような、冷めた納得感だけがあった。
「相沢くん。君は優秀なエンジニアだ。今回の件にめげず、これからも会社のために力を貸してほしい」
「はい。ありがとうございます」
俺は深く頭を下げ、退室した。
廊下に出ると、窓から秋の陽射しが差し込んでいた。
俺の手は汚れていない。誰も俺を疑っていない。
完璧だ。
***
その日の夕方。
私物の整理をするために、早川が会社に現れるという情報が回った。
人事部の監視付きで、わずか三十分だけ入館を許可されたらしい。
フロアの空気は一変した。全員が仕事の手を止め、あるいはパソコンに向かうふりをしながら、入り口の方を窺っている。
やがて、エレベーターホールから早川が現れた。
一週間前まではイタリア製の高級スーツを着こなし、肩で風を切って歩いていた男。
今の彼は、くたびれたシャツにノーネクタイ、無精髭を生やし、背中を丸めてトボトボと歩いていた。顔色は土気色で、目の焦点が合っていない。
まるで十年分の老化が一気に押し寄せたような変わり果てた姿に、誰も言葉を発せなかった。
早川は自分のデスクに向かい、私物を段ボールに詰め始めた。
かつての部下たちは、誰一人として手伝おうとしない。それどころか、視線すら合わせようとしない。
「エース」と持ち上げられていた男の末路は、あまりにも孤独だった。
荷物を詰め終えた早川が、ふらりと顔を上げた。
その視線が、遠く離れた席にいる俺とぶつかった。
俺は逃げなかった。無表情のまま、じっと彼を見つめ返した。
早川の目が、一瞬だけ見開かれた。何か言いたげに口を開閉させる。
「お前か」「まさかお前が」……そんな言葉が聞こえた気がした。
だが、彼は何も言わなかった。言える立場ではなかったし、言ったところで誰も信じないだろう。
彼は力なく首を垂れ、段ボール箱を抱えて逃げるように去っていった。
背中からは、かつての傲慢な覇気は微塵も感じられず、ただ「敗北者」というラベルが貼り付けられているようだった。
美穂が現れたとは聞かなかった。
彼女の荷物は、すでに両親が代理で回収に来たらしい。
彼女は、もう二度とこのオフィスの土を踏むことはない。
あの輝くような笑顔で受付に立ち、社員たちを癒やしていた「女神」は、もういない。
残ったのは、給湯室や喫煙所で語られる卑猥な噂話と、軽蔑の対象としての記憶だけだ。
俺は自分のデスクで、コーヒーを一口飲んだ。
苦味が喉を通る。
これで本当に終わりだ。
俺の復讐という名のプロジェクトは、バグ一つなく完了した。
***
それから一ヶ月が経った。
季節はすっかり秋めいて、街路樹の葉が色づき始めている。
会社は落ち着きを取り戻し、早川の後任として中途採用のエース候補が入社してきた。人の噂も七十五日と言うが、ビジネスの世界ではもっと早い。早川や美穂のことなど、すでに「過去の不祥事」として処理され、忘れ去られようとしていた。
俺の生活も、平穏そのものだった。
仕事の評価は上がり、次の昇給では昇進も確実視されている。
週末には、以前から興味があったロードバイクを始めた。風を切って走っていると、頭の中の余計なデータがすべてキャッシュクリアされるようで心地よかった。
ある日曜日の夜。
俺は自宅のアパートで、録り溜めていた映画を見ながら寛いでいた。
スマホが短く振動する。
画面を見ると、見知らぬ番号からの通知ではなく、ブロックリストに入れていなかった「M」という登録名からのLINEだった。
佐々木美穂だ。
アイコンは初期設定のグレーの人型に戻っている。以前は可愛らしい自撮り写真だったのに。
俺は少し迷ったが、メッセージを開いた。
長文だった。
『健太くん、久しぶり。元気にしてますか?
急に連絡してごめんなさい。私、いま一人暮らしを始めて、小さなアパートに住んでるの。
会社を辞めてから、実家にもいられなくなって……両親とも喧嘩して、家を追い出されちゃった。
再就職しようとしても、あの動画のことが噂になってて、どこの面接も受からなくて。
今は夜のお仕事を少しだけしてるけど、私には合わなくて、毎日が辛いです。
ねえ、健太くん。
私、本当にバカだった。健太くんがどれだけ優しくて、私を大切にしてくれてたか、失って初めて気づいたの。
早川さんには騙されてただけなの。無理やり誘われて、断れなくて……。
本当に愛してたのは健太くんだけだったんだよ。信じて。
今さら虫がいいって分かってるけど、私にはもう健太くんしかいないの。
一度だけでいいから、会って話がしたいです。謝りたい。
あの頃みたいに、また優しく抱きしめてほしい。
助けて。寂しいよ。連絡待ってます。』
文章から、彼女の必死さと、そして変わらない「甘え」が滲み出ていた。
「早川に騙された」「断れなかった」。
まだそんな嘘をつくのか。俺は全部見ているんだ。お前が自ら媚び、早川を挑発し、俺を嘲笑っていたあの姿を。
彼女は何も変わっていない。自分が被害者だと思い込み、誰かが救いの手を差し伸べてくれるのを待っているだけだ。
そして、その「誰か」として、また俺を利用しようとしている。
「チョロい健太くんなら、泣いてすがれば許してくれるかも」とでも思っているのだろう。
俺の胸に去来したのは、怒りでも同情でもなく、底知れぬ「無関心」だった。
かつてあれほど愛おしいと思っていた彼女の言葉が、今はただの無意味な文字列の羅列にしか見えない。
スパムメールと同じだ。読む価値もないし、返信する時間も無駄だ。
だが、最後にこれだけは伝えておこう。
俺はフリック入力で、短く返信を打ち込んだ。
『自業自得って言葉、社会人研修で習わなかったっけ?
俺はもう、お前の知ってる「便利な健太くん」じゃないんだ。
自分の人生のバグは、自分でデバッグしなよ。
二度と連絡しないでください。お幸せに。』
送信ボタンを押す。
既読がつくのを待たずに、俺は彼女のアカウントをブロックし、連絡先自体を完全に削除した。
スマホの画面から「M」の文字が消える。
それと同時に、俺の中にわずかに残っていた過去の澱のようなものも、きれいに消え去った気がした。
俺はスマホをテーブルに置き、窓を開けた。
夜風が冷たいが、心地よい。
空には星が輝いている。
美穂と付き合っていた頃は、彼女のご機嫌取りばかり気にして、こんな風にゆっくりと空を見上げる余裕もなかったな、と思う。
「さてと」
俺は立ち上がり、大きく伸びをした。
明日は月曜日。仕事だ。
新しいプロジェクトが始まる。今度は社内インフラの大規模なリプレイス案件だ。やりがいのある仕事になりそうだ。
貯めていた結婚資金は、新しいロードバイクのパーツと、自分磨きのための英会話スクールにでも使おうか。
あるいは、もっと広い部屋に引っ越すのもいいかもしれない。
俺の人生は、ここから再起動する。
ウイルスは駆除された。システムは正常だ。
未来は、俺が自分の手で構築していく。
「悪くない気分だ」
俺は一人呟き、冷蔵庫からビールを取り出した。
プシュッという軽快な音が、静かな部屋に響く。
それは、俺の新しい人生の幕開けを祝うファンファーレのようだった。




