第二話 管理者権限という名の凶器
翌朝、俺はいつもと変わらない時間に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、やけに眩しく感じる。一睡もできなかったわけではない。むしろ、昨夜の決意が脳内で冷たく固まったおかげか、数時間だけだが泥のように深く眠った気がする。
鏡の前に立つ。そこには、隈こそできているものの、驚くほど冷静な目をした自分が映っていた。
「……よし」
短く声を出し、ネクタイを締める。いつもの安物のスーツ。いつもの地味な革靴。
外見は何一つ変わらない、システム管理部の相沢健太だ。けれど、その内側にあるOSは完全に書き換わっていた。
昨日までの俺は、彼女との幸せな未来を夢見る平凡な青年だった。だが今の俺は、裏切り者たちに社会的制裁を下すための「執行者」だ。
満員電車に揺られながら、俺はスマホで今日のスケジュールを確認する。
午前中は通常業務。午後は各部署からのヘルプデスク対応。そして、明日に控えた全社キックオフミーティングのリハーサル準備。
このキックオフミーティングこそが、俺が用意した処刑台だ。全社員百名以上が集まり、役員もズラリと並ぶ。そこで営業部のエースである早川が、今期の戦略プレゼンを行うことになっている。
最高の舞台じゃないか。
「おはようございます」
オフィスに入り、何食わぬ顔で挨拶をする。
フロアの空気はいつも通りだ。電話のコール音、キーボードを叩く音、誰かの笑い声。平和な日常の光景が、今の俺には薄ら寒い茶番劇に見えた。
「あ、健太くん! おはよう!」
背後から弾むような声がかかる。心臓が嫌な音を立てて跳ねたが、俺は表情筋を総動員して「いつもの笑顔」を作った。
振り返ると、そこには佐々木美穂がいた。
今日も完璧だ。ふわりとしたシフォンブラウスに、清楚な膝丈のスカート。メイクも派手すぎず、誰からも好かれる「会社の顔」としての装い。
「おはよう、美穂。昨日は楽しかった?」
俺の声は震えなかった。自分でも褒めてやりたいくらいの演技力だ。
美穂は花が咲いたような笑顔で頷いた。
「うん! 高校の友達と久しぶりに会って、話が尽きなくて。ちょっと飲みすぎちゃったかも」
「そうなんだ。二日酔いは大丈夫?」
「うん、へっちゃら。あ、これ、健太くんに」
彼女が差し出してきたのは、コンビニで売っている栄養ドリンクと、小さな包みに入ったクッキーだった。
「昨日のお詫びと、今日もお仕事頑張ってねの差し入れ。女子会の帰りに買っておいたの」
「ありがとう。嬉しいよ」
受け取ったクッキーの包みが、ひどく冷たく感じた。
女子会の帰り? 違うだろ。早川との情事の後に寄ったコンビニで、罪滅ぼしのために適当に買ったものだろ。
俺が昨夜、非常階段のドア越しに聞いたあえぎ声が、脳内でリフレインする。
『早川さん、すごぉい……』
その口で、よくもまあ平気な顔をして俺の名前を呼べるものだ。彼女にとって俺は、本当にただの「便利な背景」でしかないのだろう。
「じゃあ私、受付に戻るね。ランチ、今日はいける?」
「ごめん、明日の総会準備でバタバタしてて。デスクで適当に済ませるよ」
「そっかぁ、残念。じゃあまたあとでね!」
小さく手を振り、美穂は去っていった。その背中を見送りながら、俺は胸ポケットに入れた栄養ドリンクを強く握りしめた。
ガラス瓶が軋む音がする。
騙してくれてありがとう、美穂。おかげで俺は、一切の躊躇なくお前を地獄に落とせる。
***
午前十時過ぎ。
俺がサーバールームでログのチェックをしていると、ドアが乱暴に開かれた。
「おい、相沢! いるか?」
入ってきたのは、営業エースの早川恭介だ。
今日も仕立ての良いイタリア製のスーツを着こなし、自信満々の笑みを浮かべている。だが、その顔には微かな苛立ちが見え隠れしていた。
「はい、お疲れ様です早川課長。どうされました?」
「どうもこうもねえよ。俺のパソコン、最近やたら重いんだわ。明日のプレゼン資料作らなきゃなんねえのに、いちいちフリーズしやがって。使い物になんねえぞ、おたくの管理はどうなってんだ?」
早川は持っていたノートPCを、俺のデスクの上に放り投げるように置いた。ドン、という鈍い音が響く。
精密機器をあんな風に扱うなんて、IT担当としては説教の一つもしてやりたいところだが、今日の俺にとっては「好機」でしかない。
「申し訳ありません。すぐに確認します。メモリ不足か、バックグラウンドで重い処理が走っているのかもしれません」
「チッ、これだから安物の支給PCは困るんだよ。俺は稼ぎ頭なんだから、もっとハイスペックなやつを用意しろって総務に言っとけよ」
「はは、おっしゃる通りですね。……それで、いつまでに直せばよろしいでしょうか?」
「昼一には戻せ。午後は外回りで使うからな。中身のデータは消すなよ? 重要な顧客リストが入ってんだ」
早川は俺の肩をポンポンと叩いた。その手つきは、まるで埃を払うかのように軽薄だ。
「頼んだぞ、便利屋さん」
ニヤリと笑い、彼はサーバールームを出て行った。
ドアが閉まる音を確認してから、俺は深く息を吐き出した。
獲物が、自ら罠にかかりに来た。
「……さて、拝見させてもらおうか。エース様の『重要なデータ』とやらを」
俺は早川のノートPCを開き、管理者用のマスターパスワードを入力した。
画面が立ち上がる。デスクトップには無造作にショートカットアイコンが散らばっている。「見積書」「提案資料」「未処理」……いかにも忙しい営業マンのデスクトップだ。
だが、俺は知っている。人間は隠したいものほど、深い階層に埋めるか、逆にあまりにも堂々とした場所にカモフラージュして置くものだ。
まずはタスクマネージャーを起動し、リソースを食っているプロセスを特定する。確かに動きが遅い。原因はすぐに分かった。裏で動いている動画編集ソフトのレンダリング処理だ。
早川のやつ、仕事をしながら動画のエンコードでもしていたのか?
俺はエクスプローラーを開き、システムドライブの奥深くへと潜っていく。
通常、ユーザーがアクセスしない「ProgramData」フォルダの中。そこに、不自然に容量の大きいフォルダが存在していた。フォルダ名は『SystemLog_Old』。一見するとシステムファイルのように見えるが、更新日時が昨日の深夜になっている。
「ビンゴ」
クリックして中を開く。
そこには、ログファイルではなく、大量の動画ファイル(mp4)と画像ファイル(jpg)が格納されていた。
ファイル名こそ『log_001』『log_002』と偽装されているが、サムネイル表示に切り替えた瞬間、俺の目は嫌悪で見開かれた。
映っていたのは、肉の塊だ。
ホテルのベッド、車の中、カラオケボックス、そして……会社の非常階段。
被写体の女性は一人ではない。社内の女性社員が数名、取引先の女性と思われる人物、そして最も多くのファイル数を占めていたのが、佐々木美穂だった。
震える指で、最新のファイルをクリックする。
再生ソフトが立ち上がり、昨夜の光景が鮮明な映像としてモニターに映し出された。
『あはは、ここ会社だよ? バレたらどうすんのぉ?』
『バレねえよ。それに、バレたって俺なら揉み消せる』
『さっすがエース様♡ かっこいい~』
スピーカーから漏れる下品な会話。美穂の媚びるような声。早川の傲慢な笑い。
俺は数秒で再生を停止した。これ以上見る必要はない。胃液が逆流しそうだ。
だが、これで確定した。早川は常習的に社内で不貞行為を働き、それを盗撮してコレクションしている。これは単なる不倫ではない。重大なコンプライアンス違反であり、犯罪行為だ。
「揉み消せる、か……。なら試してみろよ」
俺はUSBメモリを挿し、すべての証拠データをコピーした。これでバックアップは完了だ。
だが、俺の目的は単なる告発ではない。「ざまぁ」だ。彼らが最も輝く瞬間に、最も惨めな形で地獄に突き落とすことだ。
俺はキーボードを叩き、コマンドプロンプトを立ち上げた。
Windowsのタスクスケジューラ機能を呼び出し、一つの「時限爆弾」を仕込む。
トリガーは、明日の午後一時。全社総会で早川のプレゼンが始まる時間帯だ。
アクションは、単純かつ致命的なもの。
『隠しフォルダ(SystemLog_Old)の中身を、デスクトップの壁紙およびスクリーンセーバーとしてランダム再生する』
さらに、『特定のフォルダを、社内共有サーバーの全社員閲覧可能領域(Public)に同期する』。
早川はプレゼンの際、自分のPCをプロジェクターに接続する。
PowerPointを起動して熱弁を振るっている最中、あるいは質疑応答で画面を切り替えた瞬間。
全社員が見つめる巨大スクリーンに、彼と美穂の「秘密」が大写しになる仕掛けだ。
「同期設定……完了。実行スクリプト……隠蔽完了」
作業は十五分ほどで終わった。
表向きには、PCの動作を軽くするための「キャッシュクリア」と「デフラグ」を行っただけに見える。
実際にPCの動作は軽くなった。動画編集ソフトのプロセスをキルしておいたからだ。
これで早川は、「仕事が早いな」と俺を褒めるだろう。自分が破滅する爆弾を抱えているとも知らずに。
***
昼休み。
俺はコンビニでおにぎりを買い、自分のデスクで食べていた。
すると、スマホが振動する。美穂からだ。
『健太くん、忙しいところごめん! 私のスマホ、なんか調子悪くて……写真が見れなくなっちゃったの(泣) バックアップとか取れてるか見てもらえる?』
渡りに船とはこのことか。
俺たちは付き合い始めた頃、二人の思い出の写真を共有するために、クラウドの共有アルバム設定を俺が行っていた。彼女は機械音痴を自称しており、アカウントの管理も俺に任せきりだった。
『わかった。IDとパスワードは預かってるから、こっちのPCからクラウドにアクセスして確認してみるよ』
そう返信すると、すぐに『ありがとう! 神!』とスタンプが送られてきた。
神、か。これからお前に天罰を下すという意味では、あながち間違いではないかもしれないな。
俺は自分の業務用PCから、美穂のクラウドストレージにログインした。
本来の目的である写真データの無事を確認するふりをして、俺は彼女のメッセージアプリのバックアップデータにアクセスした。
最近のスマホは便利だ。クラウド経由で、別の端末からでもトーク履歴を同期・閲覧できる機能がある。俺はその設定を以前、「機種変した時にデータが消えないように」と言ってオンにしておいたのだ。
トーク履歴が画面に展開される。
一番上にあるのは、俺との会話。そのすぐ下に、『サンクチュアリ』というふざけた名前のグループチャットがあった。メンバーは美穂と早川、そしてもう一人、営業部の若手男性社員だ。
中身を開く。そこには、俺の精神を逆撫でする言葉の数々が並んでいた。
早川:『昨日の美穂ちゃん、マジでエロかったわー。動画見返してニヤニヤしてる』
美穂:『もう、消してって言ったのにぃ(笑) でも早川さん凄すぎ。腰抜けちゃうかと思った』
若手:『うらやましいっすわ早川さん! 俺も混ぜてくださいよ』
早川:『お前にはまだ早えよ。それより、あのシステム屋の彼氏はどうした? バレてねえの?』
美穂:『全然w 今日も「お仕事頑張ってね」って差し入れしたら、感動して泣きそうになってたよ。本当に単純で助かるわー』
早川:『あいつ、貧乏くさいし地味だし、美穂ちゃんの相手務まるわけねえよな』
美穂:『だよねー。結婚するならATMとしては優秀かもしれないけど、男としての魅力はゼロかな。早くボーナス出ないかなー、そしたら早川さんと温泉旅行♡』
スクロールする手が止まらない。
怒りを通り越して、乾いた笑いが漏れた。
ATM。魅力ゼロ。単純。
これが、俺が一年間、必死に尽くしてきた相手の本音か。
俺がプロポーズのためにコツコツ貯金していることも、彼女にとっては「ATMの残高が増えている」程度にしか認識されていなかったのか。
「……記録、保存」
俺はすべてのチャット履歴をスクリーンショットで保存し、テキストデータとしてもエクスポートした。
画像データ、動画データ、そしてこのチャットログ。
「証拠」は完全に揃った。
これで、言い逃れは不可能だ。
「誤解だ」なんて言わせない。「魔が差しただけ」なんて慈悲も与えない。
彼らの言葉そのものが、彼らを縛り首にする縄となる。
***
午後二時。
外回りから戻ってきた早川が、俺のデスクにやってきた。
「よう、直ったか?」
「はい、完璧です。不要なバックグラウンド処理を停止し、システムを最適化しておきました。これで明日のプレゼンもサクサク動くはずです」
俺は満面の「営業スマイル」でノートPCを差し出した。
早川はPCを受け取り、軽くキーを叩いて動作を確認する。
「お、確かに軽くなったな。サンキュー。これで明日はバッチリ決められるわ」
「ええ、期待していますよ。全社員が注目するプレゼンですからね」
「おうよ。ま、見てな。俺の実力ってやつを」
早川は満足げに頷き、自分の席へと戻っていった。
その背中を目で追うと、遠くの受付カウンターにいる美穂と視線を合わせ、小さくウインクしているのが見えた。美穂もまた、口元に手を当てて艶然と微笑み返している。
まるで「私たちの世界」に浸っているかのような、秘密の合図。
(精々楽しんでおけよ)
俺は心の中で冷たく呟いた。
その「秘密」が、明日には全社員の共有財産になるんだ。
定時後。
俺は明日の総会会場となる大会議室にいた。
プロジェクターの接続テストを行うためだ。
巨大なスクリーンに、テストパターンが映し出される。明日はここに、あの地獄の映像が映る。
想像するだけで、背筋がゾクゾクするような高揚感を覚えた。これは復讐の快感か、それとも正義を執行する優越感か。
「相沢さん、準備どうですか?」
総務部の後輩が顔を出した。
「ああ、バッチリだ。映像も音声も問題ない。……特に『音声』は、クリアに聞こえるように調整しておいたよ」
「さすがですね! 明日はよろしくお願いします」
後輩が出て行った後、俺は誰もいない会議室の中央に立った。
静まり返った空間。
明日の今頃、ここは阿鼻叫喚の巷と化しているだろう。
早川のキャリアは終わり、美穂の清純な仮面は砕け散る。
俺はその瞬間を、特等席で見届けるのだ。
ポケットのスマホを取り出し、美穂にLINEを送る。
『仕事終わったよ。明日の総会、楽しみだね。美穂も受付で大変だろうけど、頑張って』
既読はすぐについた。
『うん! 健太くんもオペレーション頑張ってね♡ 終わったら美味しいものでも食べに行こう!』
美味しいもの、か。
ああ、きっと美味しいだろうな。
お前たちが絶望に歪む顔を見ながら飲む酒は、どんな高級ワインよりも甘美な味がするはずだ。
俺はスマホをしまい、会場の照明を落とした。
暗闇の中、俺の口元だけが三日月のように歪んだ。
カウントダウンは始まった。残り時間は、あと十八時間。
管理者権限の力を、思い知らせてやる。




