第一話 聖女の裏側と非常階段の情事
東京都心にオフィスを構える中堅商社、株式会社トヨス・トレーディング。その心臓部とも言えるサーバールームは、常に一定の低い室温に保たれている。冷却ファンの回る低い唸り音だけが響く無機質な空間。ここが、俺、相沢健太の城だ。
「相沢さん、すみません。また営業部の佐藤さんがパスワードロックさせちゃったみたいで……」
「了解です。すぐに解除しますね。二分後にはログインできると伝えてください」
「助かります! 相沢さんがいてくれて本当によかった」
内線電話の向こうで総務の女性社員が安堵の声を漏らす。俺は手元のキーボードを軽快に叩き、管理コンソールから該当アカウントのロックを解除した。
社内SE。それが俺の職種だ。華やかな営業成績を上げるわけでもなく、クリエイティブな企画を通すわけでもない。社員たちが当たり前のように使っているパソコンやネットワークが、止まることなく動き続けるように守る仕事。言わば、空気のような存在だ。
だが、俺はこの仕事に誇りを持っているし、何より今の生活にこれ以上ないほど満足していた。
定時を告げるチャイムが鳴り、社内の空気が少し緩む。俺は凝り固まった肩を回しながらサーバールームを出て、執務エリアへと戻った。
フロアの照明が一部落とされ、社員たちが三々五々と退社していく中、俺の視線は自然とエントランスの方角へと吸い寄せられる。
「お疲れ様でした。お気をつけて」
透き通るような美しい声。受付カウンターの向こうで、丁寧なお辞儀をして社員を見送る女性。佐々木美穂だ。
艶やかな黒髪をハーフアップにし、清潔感のあるオフィスカジュアルに身を包んだ彼女は、この社内で「オアシス」「清純派の女神」と呼ばれている。入社三年目、二十四歳。その愛くるしい笑顔に癒やされている男性社員は数知れない。
(お疲れ様、美穂)
心の中でそう呟きながら、俺は自分のデスクに戻り、帰り支度を……始めなかった。今日は月に一度の定期システムメンテナンスの日だ。全社員が帰った後、深夜までサーバーの保守点検を行わなければならない。
ふと、ポケットに入れていたスマートフォンが短く震えた。画面を確認すると、美穂からのLINEだ。
『健太くん、お疲れ様! 今日はメンテで残業だよね? 無理しないでね。私は今日、高校時代の友達と女子会してくる! 帰ったら連絡するね♡』
可愛らしいスタンプと共に送られてきたメッセージに、俺の頬は自然と緩んだ。
そう、社内の誰も知らないことだが、あの「高嶺の花」である佐々木美穂と俺は付き合っている。交際期間は一年。社内恋愛禁止というわけではないが、彼女の人気ぶりを考えると、公にするのはリスクが高かった。「みんなのアイドル」という彼女の立場を守るため、そして余計な嫉妬を買って俺自身が仕事をしづらくなるのを避けるため、二人の関係は徹底的なトップシークレットにしていた。
『了解。楽しんでおいで。遅くなるようなら迎えに行くから言ってね』
そう返信を送る。美穂は酒に弱く、男性経験も少ない(と、俺は信じていた)。「健太くんみたいに真面目で優しい人が一番安心する」と、彼女はいつも俺の腕の中で言ってくれる。派手さはないが誠実な俺を選んでくれた彼女を、一生大事にしようと心に誓っていた。来年の春にはプロポーズをするつもりで、給料の残りから少しずつ指輪代も貯めている。
「おい相沢、まだ残んのか?」
思考を遮るように、頭上から派手な声が降ってきた。顔を上げると、ブランドもののスーツを着崩した男が立っている。営業部のエース、早川恭介だ。
三十代前半という若さで課長職に就き、甘いマスクと巧みな話術で顧客だけでなく社内の女性社員をも虜にしている男。既婚者だが、奥さんは資産家の令嬢で夫婦仲は冷え切っているという噂があり、社内では公然と「火遊び」を楽しんでいるという黒い噂も絶えない。
「はい、早川課長。今日は定期メンテの日ですので」
「ふーん、地味な仕事ご苦労さん。ま、お前のおかげで俺たちが稼げるってわけだ。感謝してるよ」
口元は笑っているが、目は全く笑っていない。言葉の端々に滲み出る「格下への蔑み」を感じ取りながらも、俺は愛想笑いを浮かべて頭を下げた。
「ありがとうございます。早川課長もお疲れ様です」
「おう。俺はこれから大事な『接待』があるんでな。お先」
早川は意味深に片目を瞑ってみせると、香水の甘ったるい匂いを残して颯爽と去っていった。
俺は小さく溜息をつき、再びモニターに向き合う。早川のような華やかな人種とは住む世界が違う。だが、俺には美穂がいる。それだけで十分だった。
***
時刻は午後八時を回った。
広いフロアにはもう誰もいない。空調の音だけが微かに聞こえる静寂の中、俺は黙々と作業を進めていた。
予定していたパッチの適用が順調に終わり、データのバックアッププロセスが走っている間の待ち時間ができた。
「ふぅ……コーヒーでも買うか」
煮詰まった頭を冷やすため、俺は席を立った。給湯室のコーヒーメーカーは清掃済みで使えないため、非常階段の踊り場にある自動販売機へ向かうことにする。
セキュリティカードを首から下げ、静まり返った廊下を歩く。オフィスの窓からは東京の夜景が見えるが、今の俺にはただの光の粒にしか見えない。早く終わらせて帰りたい、そして美穂からの「帰ったよ」という連絡を待ちたい。そんなことばかり考えていた。
非常階段へと続く重い鉄製の扉の前に立つ。
このビルは構造上、各階の非常階段スペースが少し奥まった場所にあり、人目につきにくい。日中は喫煙者たちが隠れてタバコを吸いに来ることもあるが、この時間なら誰もいないはずだ。
俺はドアノブに手を掛け、押し開けようとした。
その時だった。
「……んっ、だめぇ……早川さん、声……響いちゃう」
微かだが、確実に聞き覚えのある声が、鉄の扉の向こう側から聞こえた。
俺の動きが凍りつく。心臓がドクリと大きく跳ねた。
聞き間違いか? いや、この声を間違えるはずがない。一年間、毎日聞き続け、愛し続けてきた声だ。
だが、その声が呼んだ名前は俺ではなかった。「早川さん」。先ほど退社したはずの、あの営業エースだ。
「いいだろ? 誰もいねえよ、こんな時間」
「でもぉ……守衛さんが見回りに来るかも……んんっ」
「来ねえよ。それに、このスリルがたまんねえんだろ? 美穂ちゃんも」
男の声。間違いない、早川だ。
脳が理解を拒絶しようとする。女子会に行っているはずの美穂が、なぜここにいる? なぜ早川と一緒にいる? なぜ、あんな艶めいた声を出している?
全身の血の気が引き、指先が冷たくなっていくのが分かった。逃げ出したい衝動と、真実を確かめなければならないという衝動がせめぎ合う。
俺は震える手で、ドアを数ミリだけ押し開けた。隙間から漏れる非常灯の緑色の光の中に、二人の影が見える。
踊り場の壁に押し付けられるようにして、美穂がいた。
いつも俺に見せる清純な笑顔とは違う、熱に浮かされたような、だらしなく陶酔した表情。乱れたブラウスの胸元には、早川の手が這っている。早川は美穂の首筋に顔を埋め、獣のように貪っていた。
「あっ、あぁ……すごぉい……」
「へえ、いい声出すじゃん。『清純派の女神』様が台無しだな」
目の前の光景が、現実味を帯びて網膜に焼き付く。吐き気が込み上げてきた。胃の中身が逆流しそうになるのを必死で堪える。
これは夢だ。悪夢だ。そうでなければ、あまりにも残酷すぎる。
「ねえ、あいつ……相沢だっけ? あいつには何て言ってんの?」
早川が意地悪く問いかける声が聞こえた。俺の名前が出た瞬間、心臓が握り潰されたような痛みに襲われる。
美穂は早川の背中に腕を回しながら、くすくすと笑った。
「『女子会に行く』ってLINEしといた。あの人、私の言うことなら何でも信じるから。チョロいもんでしょ?」
その言葉は、鋭利なナイフとなって俺の鼓膜を突き破り、心臓を抉った。
チョロい。
彼女にとって、俺の信頼は「チョロい」ものだったのか。俺の献身は、俺の愛は、ただの「騙しやすいカモ」の証明でしかなかったのか。
「ははっ、傑作だな。あいつ、お前のこと大事そうに見つめてるもんなぁ。まさかその彼女が、会社の非常階段で俺のモノになってるとは夢にも思わねえだろうな」
「やだぁ、早川さん意地悪ぅ……。健太くんはね、いい人なのよ? 真面目だし、浮気もしないし、将来の旦那様としては『優良物件』なの」
「へぇ? じゃあ俺は?」
「早川さんは……刺激的すぎるもん。私をこんな風にしちゃうんだから……責任取ってよね?」
甘えるような声。俺には一度も見せたことのない、欲情に満ちた表情。
美穂は俺を「保険」と呼んだ。退屈だが安全な保険。そして早川を「本能を満たす雄」として選んでいる。
頭の中が真っ白になり、やがてどす黒い感情が渦を巻き始めた。
怒り、悲しみ、絶望。それらが混ざり合い、熱い鉛のような塊となって腹の底に溜まっていく。
(突入するか?)
今すぐドアを蹴り開け、二人の顔に唾を吐きかけてやるか? 早川を殴り飛ばし、美穂を罵倒してやるか?
……いや、だめだ。
俺の理性、システムエンジニアとしての「論理的思考」が、寸前で感情の爆発を押し留めた。
今ここで騒ぎ立てても、証拠がなければ「誤解だ」「相談に乗っていただけだ」と言い逃れされる可能性がある。早川は口が上手い。逆に俺が「暴力を振るうストーカー」として悪者にされるリスクさえある。社会的地位のある彼らに対し、平社員の俺が感情だけでぶつかっても握り潰されるだけだ。
勝つためには、言い逃れのできない「ログ」が必要だ。
俺は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
ボイスレコーダーアプリを起動する。録音ボタンを押す指が、怒りで痙攣しそうになるのを必死で抑え込んだ。
ドアの隙間にマイク部分を近づける。
「……今日、動画撮っていい?」
「えー、またぁ? 早川さん好きだねぇ」
「お前のその乱れた顔、あとで見返してオカズにしたいんだよ。ほら、こっち向け」
「んもう、しょうがないなぁ……あとで消してよ?」
スマートフォンのカメラのシャッター音ではない、動画撮影開始の電子音が微かに聞こえた。
彼らは自ら、証拠を残している。
俺のスマホの画面には、録音時間が刻まれていく。一秒、また一秒。それは俺の愛情が殺意へと変換されるカウントダウンのようだった。
「あ、そうだ。来月の社員総会のあと、温泉行こうぜ。出張ってことにすりゃいい」
「本当!? 行きたい! 健太くんには実家に帰るって言えば大丈夫だし」
「くくっ、ほんと便利な彼氏だな、そいつ」
十分だ。
これ以上聞いていたら、俺の精神が崩壊するか、殺人を犯してしまう。
俺は録音を停止し、音を立てないように細心の注意を払ってドアノブを戻した。
踵を返し、廊下を歩き出す。足音が響かないように、忍び足で。だが、その歩みは来た時とは違い、重く、そして確かな殺意を帯びていた。
執務室に戻った俺は、自分の椅子に深く腰掛けた。
天井を見上げる。蛍光灯の白い光が目に染みる。
涙は出なかった。あまりのショックと怒りで、感情の涙腺が焼き切れてしまったのかもしれない。
その代わりに、頭の中は驚くほど冷徹に冴え渡っていた。まるでバグだらけのシステムを前にした時のように、どう対処し、どう修正し、どう「排除」すべきかを高速で演算していた。
「……便利な彼氏、か」
乾いた唇から、掠れた声が漏れる。
そうだな、俺は便利だ。
お前たちが思っている以上に、俺は「使える」男だよ。
俺はこの会社のシステム管理者だ。社内のあらゆるデータ、通信、ログ……その全てにアクセスできる権限を持っている。
早川のパソコンの中身も、美穂の社用メールも、その気になれば全て丸裸にできる。
「自業自得って言葉、教えてやるよ」
暗いオフィスで、俺は一人、静かに笑った。
その笑顔は、かつての温厚な相沢健太のものではなかった。
パソコンのモニターがスリープから復帰し、青白い光が俺の顔を照らす。
俺はキーボードに手を置いた。
復讐の始まりだ。お前たちの人生というシステムに、致命的なウイルスを仕込んでやる。
社会的に抹殺され、二度と表舞台には立てなくなるような、特大の爆弾を。
俺は手始めに、管理者権限を使って早川の社用PCへのバックドアを確認し始めた。
二人が非常階段で熱い夜を過ごしている間に、俺はこちらで冷徹な処刑準備を進めることにしよう。
明日の朝、何食わぬ顔で出社してくる二人を見るのが、今から楽しみで仕方がない。




