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 この日は朝から鼠色の雲が空を覆い、湿気と汗が肌に纏わりついておりました。ここ最近は日照りが続いていたため、田畑はひび割れて作物は生気を失っています。


 大将は「もうじきに雨が降る」と、呟きました。

 その言葉には喜びと憂いが混じっており、乾いた大地に恵みをもたらすとはいえ、止まぬ雨は予想だにしない危うさを招くこともあります。ですので、私は大将の言葉を心に留めました。


 風呂敷には襦袢と少量の荷物を包み、力いっぱい固結びをすると、再びじわっと汗が滲みます。その汗は乾くことなく、全身に熱を持たせました。


「達者でな」


 いつものように不愛想でしたが、大将は私の姿が見えなくなるまで見送ってくれました。その間、私は何度も振り返ってお辞儀をしました。15になるまで世話をしてくれた大将は、親よりも親のようなものです。胸の奥がしゅくしゅくとするような寂しさもありましたが、自分の人生を歩んでいくために、私の意思は揺らぎません。


 道中、これまでの人生を振り返ろうとしましたが、特に振り返ることなどありませんでした。なぜなら、私は恵まれているからです。過去のことは既に蓋をしていますから、大将との出会いが私の人生のすべてです。このような私でも、思い出に浸ることならできます。ですので、人生を振り返って戒めを刻むよりも、思い出を心に刻んで前だけを見て行きたいと思ったのです。


 四刻半ほど歩いたところで、目印となる生垣が見えてまいりました。その高さは5尺ほど、私の背丈と同じくらいです。鮮やかな中緑のウツギは几帳面に整えられており、白く小さい花が所々で顔を出しています。


 門には「戌亥」という苗字の表札が掛けてあり、そこから中を覗くと、2階建ての立派なお屋敷がありました。広い庭にはさまざまな草木が植えられており、日照りの影響はどこへやら、そのどれもが生き生きと彩を放っています。家屋はどこか異国のような雰囲気を感じさせ、恐らく西洋の建築技術を用いたものなのでしょう。硝子と呼ばれる美しく透明な戸は、滅多にお目にかかることなどできません。


 敷地に一歩足を踏み入れると、香と何かが混じったような不思議な匂いが鼻を掠めます。どこかで嗅いだことがあるような匂いでした。その匂いの元を思い出そうとした時、不意に玄関の引き戸が開きました。


「やあ、待っていたよ。よく来たね」


 先生は優しく微笑みます。すると、ぽつぽつと生温い雨が髪や肌に触れ、時機よく辿り着いたことを天が労っているかのようでした。


 お世話になります。

 そのように口を動かすと、私の荷物を手にした先生は「早く中へ」と、室内へ促しました。同時に、遠くの方で雷が鳴り始めました。


「今夜は大雨かな」

「……」

「そうかい、きみも()()がわかるんだね」


 先ほど私が感じたのは、大雨が降る予兆の匂いでした。草木の青臭さと土の匂い、湿気を含むとそれらの匂いはより一層強くなり、自然の脅威を感じさせます。そして、香のような匂いの正体も判明しました。玄関を入った正面の飾り台には、丸みを帯びた銅製の花瓶のようなものがあり、そこから少量の煙が上がっていたのです。


「ああ、これかい? これは香炉だよ。異国から取り寄せた伽羅という香木を炊いていてね、私はこの香りが好きなんだ。心が落ち着くだろう?」


 私は頷きました。香といえば、娼婦の女性たちが頭に浮かびます。袖の袂に香袋を忍ばせている彼女たちは、百合のような花と甘い匂いがしていました。しかし、先生が好きだという伽羅の匂いは、品のある静けさと心の平穏を感じさせるものでした。


「まずはきみの部屋へ案内しよう。そういえば、名前をまだ聞いていなかったね」

「……」

「あ、や……きみの名は“あや”とうのいうかい?」


 私は首を横に振り、先生の手を取りました。手のひらに“かや”と書くと、先生は静かに頷いて慈悲深い眼差しを向けたのです。


「すまない、私の読唇術はまだまだのようだ。素敵な名前だね。“かや”という植物は非常に強い生命力を持つ。きみも同じだ。生きるべくしてこの世に存在し、どんな困難でも乗り越えられる力を持っているんだ。今までも、これからも。余計な話をしてしまった。さあ、部屋へ案内しよう」


 歩き出す先生の背中を小走りで追います。

 絡まっていた鎖が解けていくような感覚は、今でも忘れることができません。私のような人間が生きる意味を考えることなど恐れ多いと思っていましたが、私の存在を認めてくれる人が現れたことで、その意味に一筋の光明が差し込みました。


「ここがきみの部屋だ。以前の使用人の私物がそのままだが、好きに使って構わないよ」


 2階の階段を上って廊下を進んだ先、突き当りの部屋に案内されました。先生が扉を開けると、思わず息を飲みました。六畳ほどの室内には木枠で作られた寝床があり、真っ白で清潔な布団が敷かれています。寝床の反対側には机と椅子があり、机には綺麗な装飾の燭台が置かれています。さらに、壁側には新しい麻の着物が衣文掛けに下げられていました。


「この着物は以前の使用人に贈ったものだが……彼女が袖を通す前に、不慮の事故で亡くなってしまったんだよ。きみさえよければ、ぜひ着てくれないだろうか。その着物では暑いだろうから。荷物を整理したら、1階の居間においで。お茶にしよう。珈琲と南蛮菓子があるんだ」


 珈琲が何のことか分かりませんでしたが、このような素敵な部屋と着物を与えてくださったことにお礼の気持ちを込め、深々とお辞儀をしました。


 私は衣文掛けに下げられている麻の着物に触れました。風通しが良さそうな生地ですが丈夫に編まれており、尚且つしなやかな手触りです。このような上質な着物は上流階級の皆さんが召しているものですから、以前いらした使用人も恐れ多くて袖を通すことができなかったのではないでしょうか。私も同じ気持ちです。しかし、先生が着てよいとおっしゃるのなら、私はその親切心をありがたく受け取ることにしました。


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