壱
とある夏の日でございます。
この日も連日の猛暑により、氷水屋に立ち寄るお客が絶えませんでした。木槌で氷を砕く大将は、しきりに手ぬぐいで汗を吸い、黙々と氷を砕きます。私はその氷を茶碗に盛り、甘い冷や水をかけてをお客に提供します。
「今日は随分と大盛況なのね。穴場だと思ってたのに、これだけお客が来ちゃうとゆっくりできないわ」
「これが姉さんの言っていた氷水? ひゃっ、口の中がひんやりする~」
「でしょう? うちの店でも出せばいいのに、旦那様ったら氷は高いって言ってケチるんだから。こんなに繁盛するなら、流行りに乗らないなんて野暮ってもんよ。ねえ、あんたもそう思わない?」
「……」
扇子を仰ぎながらこちらを見つめる美しい女性は、少し間を置いて思い出したかのように頷いたのです。
「悪く思わないで、からかったわけじゃないの」
「……へえ。この子、もしかして唖なの?」
氷水の入った器を一気に飲み干したもう1人の女性は、品定めするかのように私をまじまじと見つめるのです。
「ふうん。あたしほどじゃないけど、あんたもそこそこな顔してるじゃない。生娘好きの変態も多いからさ、あんたみたいな子はすぐに客が付くよ。うちの店に来る? もっといい暮らしがしたいと思わない? こんなに暑いってのに、厚手の木綿なんか着て。それに、あんたみいな子は、まともな仕事にありつけないでしょ」
「ちょっと、それくらいにしておきなさい」
このようなことには慣れています。ですから、私は気にも留めません。
恐らく、この女性たちは銘酒屋の娼婦でしょう。最近では西洋の着物を着る人も増えてきましたが、やはり夏場は暑いのかもしれません。彼女たちは藍で染めた浴衣を着ており、ゆるく結ったひさし髪から、うなじに垂れる少量の毛束が肌に張り付いていました。私は彼女たちのような色の香を持ち合わせていません。いい着物も持っていません。ですから、ほんの少しだけ羨ましく思いました。
「1杯2銭だったわよね? じゃあ、2人分で5銭ね。お釣りはいらないわ。さっきのお詫び。でもね、もしあんたがその気になったなら、いつでも声かけてよ」
姉さんと呼ばれる女性は私に5銭銀貨を手渡し、艶やかに微笑みました。頭を下げて彼女たちを見送ると、「今日はもう終いだ」という大将の声が聞こえたので、暖簾を下げた時です。
「おや、もう店じまいですか? ひと足遅かったようだ」
私に話しかけてきたのは、西洋の着物と帽子を身に纏った初老の男性でした。四角く大きな鞄を片手に、白い布で汗を拭っていました。
大将が「終いだ」と言ったのは、今日の分の氷がなくなったからです。その旨を伝えようとしましたが、口を動かしても声が出ません。ですので、私は男性の問いにただ大きく頷きました。
「……そうですか。ならば、明日また来ます」
私の行動に一瞬、不思議な顔をした男性。ですが、その次には優しく微笑みました。「ごきげんよう」と会釈したその男性は、背を向けて去っていきました。このような容貌の私に、丁寧に接してくれる人など今まで出会ったことがありません。紳士、という言葉がそのまま当てはまるような人でした。
しばらくその背中を見送っていると、次第にヒグラシの鳴き声が大きくなっていることに気付きました。眩しい西日が私を捉えた時、ほんの少しの希望が心を照らしてくれた気がしたのです。
※唖…言葉を発することができない障害のこと
※銘酒屋…飲み屋とみせかけて売春を行う店のこと