出会い
「行くしかないか」
急に届いたバイト先からの緊急呼び出しに、「行けます」と返事を打ちながら呟いた。
昼は飲食店、夜は男装コンカフェ。
休む暇なんてない。でも、やらなきゃならない。
バイト代10万円がなければ、どれだけ節約しても入院費は払えない。
母さんのためだろ、と自分を叱咤する。
ロッカー室で制服を脱ぎ捨て、深いため息をつく。
時計を見ると血の気が引いた。時間がギリギリだ。
バッグを掴んで、冷たい夜の街に飛び出した。
—
池袋駅から徒歩7分。
小さな雑居ビルの4階に男装カフェ『Cendrillon』はある。
キャストは“王子”、お客さんは“お姫様”。
店長は“侍従長”、黒服は“衛兵”と呼ばれ、店全体がちょっとした舞台のように役割を演じるコンセプトだ。
座席数30、所属する王子も10人しかいない。私はその末席、第10王子だ。
ただ、キャストが調理補助まで全部やる小さな店だからこそ、食品管理資格を持っている私は意外と重宝されていた。
正直、自分には似合わない世界だが、シフトを入れてもらえることには感謝しかない。
ビルの階段を駆け上がりながら、息を整える。
店の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
湿気のように重たい気配。いつもより笑い声が少ない。
エントランス脇のスタッフルームの前で一瞬ためらったが、ノックして中に入った。
「あー、ショウくん! 助かるわ! 今すぐドリンク入って!」
侍従長の声が響く。
バッグをロッカーに放り込みながら荒っぽく指示を出してきた。
いつもの軽さはあっても、声が鋭く、目が明らかにギラついている。
「……何かあったんですか」
怖くて聞けないはずなのに、口が勝手に動いた。
侍従長は答えずに出て行った。
慌てて近くの王子に目をやると、相手は曇った顔で小さく口を開いた。
「……彩葉さんが飛んだって」
「え?」
「紗雪さんとの同伴、ドタキャンして……そのまま消息不明」
ゾッと鳥肌が立った。
彩葉さんはこの店で一番の有名キャスト、第2王子だ。
このお店には人気・実力ともに圧倒的な二人の王子がいる。
一人目は“知名度の彩”。SNSでバズを稼ぎ、新規の姫様はだいたい彼女目当て。
写真では完璧、リアルでも強引な王子様スタイルで心を掴む。
しかし、お姫様同士が指名をめぐって揉めることも多く、長く指名してくれる人は少ない。
二人目、第1王子の遊さんは“実績の遊”。
友達みたいに安心させてリピーターを掴む。
この店は永久指名制じゃないから、彩葉さんから遊さんに乗り換えるお姫様もいた。
そのバランスで成り立っていたお店。
その第2王子が、唯一長く通っていた太客・紗雪さんとの同伴をすっぽかして消えた。
冷たい汗が背中を伝った。
店の空気が張り詰めていた理由が、ようやく分かった。
シャレにならない事態だった。
—
その後は無言でドリンクを作り続けた。
王子たちも侍従長も、彩葉さんの客対応でピリピリしている。
グラスが割れる音がしても、誰も謝らなかった。
この日は目立たないことが肝心だった。
余計なことを言ったら、自分に全部飛んでくる。
ドリンクの注文が一段落した頃、衛兵の一人が近寄り声を潜めた。
「ソファ席にいる侍従長のヘルプに入ってください」
言葉より、表情のほうが怖かった。
「絶対に機嫌を損ねるな」と目が告げていた。
作るドリンクももうなかった。拒否権はない。
おしぼりを手にソファ席へ向かう。
そこには侍従長と遊さん、そして同伴をすっぽかされた紗雪さんがいた。
紗雪さんは二人の間に座り、誰もいない空間を見つめていた。
近づくと、侍従長が軽い調子で言う。
「紗雪さん、若くて可愛いのが来たんで、俺はしばらく席を離れますね。
呼んでくれたらすぐ戻りますよ」
紗雪さんは小さく頷き、私に一瞥をくれた。
「こんばんは、お席につかせていただくのは初めてです。
第10王子ショウといいます、どうぞよろしくお願いします」
紗雪さんは私を見なかった。
虚空をじっと見つめ、たまに何かを追うように目を動かす。
まるで、本当にそこに誰かが座っているみたいだった。
遊さんが話を振ると、紗雪さんは小さく返事をした。
「あやさん、平気かな……?」
「……どこ行ったんだろう」
「……大丈夫だよね?」
同じ言葉を何度も呪文のように繰り返す。
遊さんは必死に笑顔を作りながら答えた。
「大丈夫ですよ」「きっと連絡来ます」
でも声が少し震えていた。
私もおしぼりを畳む手が止まった。
呼吸が浅くなるのが分かった。
誰もが太客を怒らせないように、壊れ物を扱うみたいに言葉を選んでいた。
遊さんの笑顔もだんだん引きつっていた。
でも紗雪さんは同じ言葉を繰り返し続ける。
喉がカラカラだった。
このままだと本当にヤバい。
侍従長もいない。衛兵も助けてくれない。
遊さんがちらっと私を見た。
「なんかして」って、無言で命令してきた。
飲食店では、笑顔で場を持たせることも仕事だった。
子ども連れの団体客が泣き叫んだとき、芸みたいなことをして時間を稼いだ。
あのときは笑ってもらえた。
ここは舞台。俺は王子。“王子”ができないなら、“道化”でもやるしかない。
心臓が跳ねた。新人だって言い訳はできない。やるしかなかった。
「……あの、紗雪さん」
そっと声をかけると、紗雪さんの目線がゆっくり私に向く。
まだ冷たい。でも、やるしかなかった。
「俺、ビールジョッキ12個同時に運べるんです」
唐突だったかもしれない。
でも口は止まらなかった。
「昼の飲食店で働いてて、そのへんのスキルだけめちゃくちゃ鍛えられてて」
遊さんが一瞬目を丸くした。
紗雪さんは何も言わない。でも少しだけ目が動いた。興味を持ってくれた?
「……見てみたい?」
沈黙のあと、かすかに顎が動いた。頷いた。
心臓がドクンと鳴った。行ける、やるしかない。
「じゃあ、ちょっと待っててください」
慌てて立ち上がり、バーカウンターに飛び込む。
ジョッキを素早く用意し、片手に4個ずつ持ち、さらに上に2個を積んだ。左右で計12個。
こぼすな、崩すな。できるはずだ。
ビールをなみなみ注ぎ、呼吸を整える。
店内の視線が一斉にこちらを向いた。
王子も衛兵も一瞬動きを止めた。
でも私はやった。
「お待たせしましたー!」
ゆっくり、崩れないように慎重に。
でも堂々と、演技も込めて。ソファ席まで運ぶ。
紗雪さんの目が見開いた。
遊さんも「おおっ」と声をあげた。
ソファのテーブルにきれいに12個並べたとき、
紗雪さんは初めて、少し笑った。
「……すごいね」
小さな声だった。でもちゃんと笑っていた。
「……あやさん、こういうの見たら笑ってくれたかな」
ぽつりと呟いた紗雪さんに、遊さんがすかさず声を弾ませた。
「紗雪さん、ショウくん、場内指名どうですか?
今日だけの特技披露料金なしサービスですよ〜」
紗雪さんは目を伏せて、でも口元は緩んで「……うん。指名で」。
その瞬間、遊さんも私も同時に小さく息を吐いた。
ソファの空気が少し柔らかくなった。
—
彩葉さんは今どこで、何をしているのだろう?
接客中にふと思うたびに、考えるのをやめた。
この街の闇は深く、
覗き込んだら落ちてしまいそうだから。