プロローグ
「いってきまーす。」
「今日も気温が高いから、熱中症にならないように必ず水筒飲みなさいね。気をつけて、いってらっしゃい。」
一日が始まるには、優しさ溢れるとても心地良いトーンの送り出しで、毎朝繰り返される親子の何気ない会話だった。
奈緒は玄関にある等身大の鏡にスッと身体を映し出して、軽く口角を上げて笑顔を作った。バスケ部の紺と黄色のラインが入ったジャージに身を包み、スニーカーに足を通して紐をしっかり結び、壁に引っ掛けてある玄関の鍵を手に取りドアを開けた。
流石に7月になると、朝練に向かう時間帯であっても日差しは眩しい。
「暑い。」思わず声に出たと同時に「おはよう、奈緒。」と同じバスケ部の水沢麻美が声をかけてきた。
彼女は奈緒と幼馴染で、小学校のミニバスからの付き合いで、良きライバルであった。奈緒より小柄だが、バスケではとても粘り強く、センスが有り、高校2年生と成長の途中だが、将来に期待出来る要素を兼ね備えている。奈緒にとってとても逞しく頼り甲斐がある存在だ。
二人いつもと同じ様に談笑しながら高校に向かった。
途中、奈緒が何を思ったか、ふと空を見上げた。
この時期の朝7時という時間帯の空は、絵の具の水色をだいぶ水で薄めた澄んだ色のはずなのだが、今日に限っては少しピンクに近い桜色が混じったような色だった。
「ねぇ、麻美。空、なんか気持ち悪い色なんだけど。」
「うわっ。本当だ。ヤバいね。」
奈緒はゾワゾワとした感覚が身体全体に走り、早足にその場を後にした。
学校に着くと、まだ校舎には入れない。
体育館の端にまとめた場所に荷物を置き、バスケットシューズに履き替え、先輩に達挨拶をする。軽く空の色の話をした。先輩達は気付かなかった様で、少しビックリしていた様子だった。
朝練も終わり制服に着替えて校舎に行き、麻美にまた後でね!と伝えて自分のクラスに入った。
授業はあまり真剣には聞いていない。頭の中で何かしら考えながら黒板の文字をノートに写し取っている。
ふと朝の空の色の事を思い出した。あんな色の空は見た事がない。それに先輩達に話しても見ていないなんて、なんだか本当に不気味だ。ゲリラ豪雨とか竜巻とか?最近暑すぎて地球温暖化の影響かなぁ。などと真剣に考える訳でもないが、あの空の色の理由が知りたい。
3時間目の美術の授業で、クラスメイトと向き合ってお互いをデッサンするという課題に、運がいいのか悪いのか、最近気になる男子と組む事になった。
彼とは2年生になり、同じクラスになって話すようになった。声が大きく、常に誰かと笑って話してる印象が強く、明るくてクラスで目立つ部類に入る男の子。花に例えるなら間違いなく向日葵だ。水泳部らしくガッチリとした体格で、肌の色はこんがりとした小麦色で、髪の毛は爽やかな短髪だ。人より塩素に多く浸かっているせいか、少し茶色になっている。
長谷川湊それが彼の名前だ。
湊は奈緒と向き合ってデッサンするのが恥ずかしいようで、少し俯き加減で、握った鉛筆をなかなか動かせないでいる。
それを見ていた奈緒は、なんか可愛いな、と思いながら湊の顔を書いていた。
そんな時だった。
クラスメイトのスマホが一斉に緊急アラートを知らせた。
耳障りな警告音と共に、
「地震です。地震です。直ぐに震度4以上の大きな揺れがきます。」
先程までの空気が一変した。
ある生徒は慌てて机の下に隠れ、違う生徒は廊下に出ようと席を立つ。
美術教員が混乱を避ける為に、ここぞとばかりに声をはった。
「机の下に入れ。指示が聞こえないと困るからしゃべるなよ。」
と同時にドーンと床を突き上げるような衝撃が机の下に座った途端に伝わってきた。それからグラグラと横に揺れ出した。それはまるで、ワインのテイスティングをするかの様にグルグルと回され、遠心力がかかっているのではないか?と錯覚を起こす程の不快な揺れが暫く続いた。
奈緒は先生の指示に従って机の下に入ったが、慌てるどころか現状があまり理解出来て居なかった。
突然、教室の後ろの掃除ロッカーの扉が開き、箒が倒れて床に音を響かせる。窓ガラスにはパリっと音を立ててヒビが走る。机の上にあったデッサン用に使った鉛筆が転がり落ち、ロッカーに入れたクラスメイトの荷物も次々と床に散らばり落ちる。
隣のクラスからは女子の泣き叫ぶ声が聞こえた。
落ちて来た荷物にぶつけたのか、ガラスが割れて怪我したのか、地震の揺れに錯乱したのか定かではないが、悲鳴まじりの声だった。
「奈緒、大丈夫?」
隣から湊が小声で話しかけてきた。
「あ、うん。大丈夫。湊くんは大丈夫?」
教員に注意されないかと思いながら小声で返事した。
依然としてまだ揺れている。かなり大きな揺れで、移動なんて到底出来る状態ではなかった。
時折、小声での話し声が聞こえるが、耳に入ってくる音は物と物が擦り合わさる音や、揺れ落ちて壊れる破壊音が殆どだった。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
10分?いや20分。教室の壁にかかっていた時計はとうに落ちて時間が止まってしまっている。
ポケットからスマホを取り出し、画面をタップする。
ロック画面に12時07分と表示されていた。
お母さんが心配になり、メールを急いで打つ。が、送信出来ない。緊急事態でインターネットが繋がり辛いのかもしれない。
やっと揺れが止まった。
校内放送で避難を開始するアナウンスが流れた。
教員が廊下に並べと指示を出したので、クラスメイトは足早に廊下に出始めた。
奈緒は後ろの席だったので、ロッカーの前を歩く際に自分の鞄を拾い上げ、持ち手部分を両肩に通してリュックのように背負った。こんな所を先生が見たら、荷物なんて後だ、と怒るだろう。奈緒が荷物を拾ったのを見て、湊も自分の鞄を持ち出した。そのまま後ろのドアから廊下に出て、指示に従って行動した。
校庭に出るとクラス事に並んでいる。年に1度、避難訓練をしている状態と同じである。だがいつもと違うのは予行練習ではなく、本番という事なのだ。ここに居る全ての人の緊張感が伝わってくる。
また少し地面が揺れ出した。砂埃が舞う。
女子の悲鳴が聞こえる。
教員が拡声器を使って指示を出した。家のある方向別に校庭内で纏まれ、との指示で麻美が奈緒の場所まで駆け寄ってきた。
奈緒は麻美の顔が見えると少し安心出来た。
「鳥小屋の前だって。行こう奈緒。」奈緒は一瞬だけ振り返り、長谷川湊の顔を見て鳥小屋の方に歩き出した。
鳥小屋の前では、引率する教員が2人で緊急下校カードで人数と大体の住所別に確認していた。校庭にいる生徒の移動が終わったようだ。
だが緊急下校が始まったわけではなく、生徒達を自宅に帰すのか、緊急避難所に行くのかが決まっていないようだ。
決断が早々に決まらないのには、消防車の鳴らすサイレンや救急車が緊急を知らせるマイク音が燧無しに止まないからだ。下校させても自宅が無事だとは限らないのだ。
風の向きのせいか、何かが燃えている匂いまで感じとれる。目の前の校内敷地と道路を区切る高いフェンスも斜めに傾き、いつ倒れてもおかしくない。
外の道路は地割れしていてヒビが長く走っている。
危機的状況なのかもしれない。
一時避難として、全校生徒で体育館に行く事になった。
地域別のまま纏まって座った。迎えがスムーズになるよう待機するみたいだ。
保護者には、緊急事態時は学校のホームページに生徒の行動を記載する。と入学当時から説明があった為、体育館に迎えに来てほしいと記載したのだろう。
朝は普通にバスケしてたのに…。
同じ体育館なのに全然違う場所に感じる。お母さん、ホームページ見たかな?大丈夫かな?そう思いながら奈緒はもう一度メールを送信してみた。
今度はメールをちゃんと送れたようだ。たがすぐには既読が付かない。
ホームページを見た家族が切れ間なく体育館にやってきた。
保護者の身元確認をして、教師が1人ずつ生徒を引き渡していく。
麻美の母親も来て、手続きを済ませてからバイバイと手を振り帰って行った。
ポケットからスマホを出してメールを見るが、まだ既読が付かない。
お母さんになんかあったのかな?急に不安が襲ってきた。
頭の中で嫌な想像ばかりがストーリーになっていく。
辺りを見回すと、先程まで全校生徒が居たとは思えない程、生徒の数は減っていた。体育館に来てからだいぶ時間が過ぎていた。
時折揺れる振動にビクビクしながらスマホを握り締めた。
時間がとても長く感じる。鞄から水筒を取り出して一気に喉に流し込む。
体育館に残る生徒の人数が20人に満たない数になり、1箇所に纏まる事になった。その中には長谷川湊の姿も残っていた。
少し大きな揺れがきた。ミシミシと音が聞こえる。慌てて頭を鞄で隠すと身体を小さく丸めた。
フッと体育館の電気が一斉に消えて真っ暗になった。一瞬ピリッと空気が張り詰め、誰かが「停電だ」と言ったのが聞こえた。
「奈緒」小さな声で呼ぶ声がして、頭を隠してた鞄を掴む手に触れる少し湿った手を感じた。
「湊くん。」
お母さんと連絡が取れない不安と慣れない緊張感の中、何かを話して落ち着きたいのに言葉が続かない。
「奈緒の保護者もまだなんだね。電車とか止まって動けないんじゃない」湊はそう言ってスマホのネットニュースを開いて、今の被害状況見せてくれた。スマホの光が真っ暗な体育館にはきつい明るさで目を細めた。
震度7、画面にはそう書いてある。公共交通機関の殆どが動いていなかった。奈緒の住んでいる神奈川県の藤沢市は震源地を示すバツ印から遠くはなかった。静岡県の下に位置する太平洋沖が震源地の場所だった。
奈緒はやっと正しい情報を初めて知る事が出来た。
地震が起きて9時間が経とうとしていた。
「バッテリー温存したいからもう消すね。」湊はスマホのサイドボタンを押して画面をロックした。
「あっ。ごめんね。ありがとう。私、今初めて状況知ったよ。だけど、お母さん仕事はリモートで家にいるはずなんだよね。」言葉にした瞬間、お母さんの安否が心配になり涙が溢れて出した。少し声も震えてしまったかもしれないが、真っ暗なので泣き顔は見えてないだろう。
教員の1人がどこからか災害用のライトを持って来て、真っ暗から薄暗い、に変わった。
7月の夜の体育館は蒸してじっとりとする暑さだった。体育館には教員が10人と生徒が8人残っていた。
何人かの教員が体育倉庫からマットを出して並べた。その中の1人の男の教員が
「今日は疲れただろうから横になりなさい。明日、朝になったら家族と連絡が取れてない生徒は、先生達と一緒にそれぞれの自宅に送って行くから。それまでは外には出ないでくれよな。」と言った。
流石に制服のスカートで寝るのは気が引けるので、鞄の中からバスケ部のジャージが入った袋を取り出した。それを持って体育館の端のトイレで着替える事にした。立ち上がると湊が「トイレ?」と聞いて来たので「うん。着替えてくる。」と答えた。
「俺もトイレ行くわ。」と湊が立ち上がって歩き出した。
「さっき、お母さんリモートで家に居るって言ったじゃん。足が悪くて杖使って歩くか、外出は車イスなんだよね。小さい時に家族で乗ってた車にトラックが突っ込んで来て、その後遺症でさ。私は後ろでチャイルドシートに守られたみたいで大丈夫だったんだけど。運転してたお父さんは助からなかった。その時は小さすぎて記憶もないから。それからずっとお母さんと二人暮らしなの。」
歩きながら、一気に湊に話した。なるべく悲劇のヒロインと誤解されないように、淡々と話したつもりだ。
それから湊は何も言わずにトイレに入って行った。奈緒は重い話しをしてしまったかな。と少し反省をしながら女子トイレに入り、スマホのライトを点けて着替えた。次いでに用を済ませて、手洗い場で手を洗おうと蛇口を捻ったが、チョロチョロと少し水が出て止まってしまった。断水だ。
私は被災しているんだな、と改めて実感した。
生徒達が居る所に戻ろうと歩き出すと、男子トイレの前に湊が待っていたのを見つけた。
災害用のライトの灯がぎりぎり届く薄暗さの中、湊が「お母さん、無事だといいね。」と言った。一拍あけて「うちも母親と二人暮らし。親父はDV野郎で離婚したんだけどさ。まあ、二人暮らしでも俺、今のところグレてないし、優しいし。」そう言って空気を和やかにしてくれた。
「奈緒、LINE教えてよ。なんか愚痴りたかったりしたらメッセ頂戴よ。」「うん。」そう言って相互登録をしてマットが引いてある場所まで戻った。
女子が5人居た。教員2人と保健医、生徒が奈緒ともう1人。残り13人は男子で教員が7人と生徒が6人だ。
性別に別れてマットの上で川の字になった。体育館に残った生徒は湊以外は奈緒はあまり話した事がない子ばかりだった。小学校が同じだった男子が1人居たが、いわゆる不良と呼ばれるような子で怖い。だが、おそらく明日は引率の教員と3人で自宅に行くのだろう。なんだか気が重くなった。マットの独特な埃臭さにやっと慣れてきたが、眠れる状態ではなかった。たまに感じる小刻みな揺れが床から伝わると、瞬時に身体の全てに緊張が走る。なるべく早く眠ってしまいたいと思うが、目を閉じるとお母さんの事、これからの学校生活の事、バスケ部の事、様々な事が頭を掠めていく。
当面の学校は休みだろう。先程先生が話していたのを思い出した。窓ガラスは割れ散らばり、引き戸は曲がってしまって動かないらしい。校舎に入るには割れた窓からしか入れないらしい。一番問題なのはライフラインである電気、水道が使えない。
体育館の扉は開けたままの状況に納得がいく。少しだが風も入ってくる。まだ地震が続いているのだから閉めたら開かなくなるかもしれない。
外からは相変わらず、緊急車両のサイレンが鳴り止まない。
バスケかぁ、出来ないだろうな。夏休みのリーグ戦に備えて頑張って練習してきたのに。今回はスタメンに入れそうだったのにな。仕方ないのは解るが悔しいな。湊くんも試合があったのかな。だったら悔しいだろうな。
お母さん、大丈夫かな。大丈夫でいて。
そう願いながら何も考えない様深く瞼を閉じた。
2
朝練を毎日こなしているせいか、いつもと同じ様に6時前に目が覚めた。起きあがろうと膝を畳み上体を捻ると、身体が疲れている事に気が付く。同時にマットの埃臭い匂いが鼻をつく。昨晩は何も胃に入れてないのでお腹が鳴った。重たい身体を動かし、外に繋がる出入口に向かって歩く。早朝なので暑くも寒くもない丁度いい気温だった。
外から体育館に上がる3段の階段に湊が座っていた。
「湊くんおはよう。」後ろ姿にそっと声をかけた。
振り向きながら「奈緒か。おはよう」と言って片手に持っているスマホでネットニュースを見せてくれた。
「神奈川、静岡、愛知、千葉…太平洋側は壊滅的被害らしい。」
目の前にある校舎の壁には無数のクラックが入っているのに気が付いた。足元には崩れた小さなコンクリートが散らばっている。
壊滅的とはどのくらいの被害が出たのだろう。
「どうなっちゃうんだろう。これから。」奈緒は抑揚なく言葉を押し出して湊の隣に座った。
それからは不安にかられて泣き出さないように他愛の無い話をした。
湊のスマホのアラームが鳴った。ちょうど7時を知らせている。
「ごめん。うるさいね、俺がいつも起きる時間だよ。」
「へぇー。私は朝練で家を出る時間だよ。」
昨日も朝練に行く途中で不気味な空を見たんだっけ…。
「あ!」
昨日と同じ様に空を見上げた。
同じなのだ。またピンクと桜色の様な色で水色ではない空の色なのだ。寧ろ昨日よりピンクが少し紫に近い濃い色の空になっている。全身からゾクゾクと、これは危険だ!と訴えるように鳥肌が立った。
「ねぇ、空。湊くん空見て。あの色」
湊に、空に指を指しながら慌てて言った。
「え?何、空の色、別に普通じゃん。」湊は慌てた様子もなく落ち着いて答えた。
「紫じゃん。ねえ!」ムキになって少し強く言ってしまった。
「紫?いやいや、普通に毎日見てる色だよ。」ちょっと困った表情をしながら慌てる奈緒を宥める様に優しく答えた。
奈緒は反論をしたが、湊には空の色は普通の水色で、嘘は言ってないようだ。
奈緒にとって昨日より濃い色は余計に不安を高まらせた。
「私、帰る。今すぐお家に帰りたい。」体育館に戻って鞄を乱暴に掴み取り、帰ろとすると教員に呼び止められた。
「井口、井口奈緒。どうした。」
「先生、私、今すぐ帰る。ここに居れない。帰らなきゃ。」そう話して走ろうとしたが、腕を掴まれて走れない。
「どうしたんだ、いきなり。何があったんだ。」奈緒は空の事を話すか考えた。湊くんは紫に見えなかった。色覚障害に間違われるかもしれない。でも私は色覚障害ではない。
後ろから来た湊が「先生、外の空は何色?」と聞いた。
教員は出入口に向かい、空が見えた所で止まった。
「何色って普通に青だろ。」と答えた。奈緒も先生と同じ位置に立ち、もう一度空を眺めた。やはり紫だった。じゃあ昨日の先輩達に話した時も、先輩達は本当に見えてなかったんだ。麻美は見えてたって事?一緒に見た時に同感してくれたのを思い出した。
急いで麻美に電話した。3コールもしないうちに「おはよう、家帰れた?」と通話が開始になった。
「あ、まだ。そうじゃなくて、空!今すぐ空見て。急いで。」
「えー。何?空、うん見たよ。それが何?」
「色は?麻美は何色に見える?」
「特別な色には見えないよ。昨日から空の色を気にしてるけど何で?」
「紫じゃない?昨日の朝のもっと濃い色。」
「ごめん。昨日、普通に嘘ついた…だから色がどうしたのよ。」
「嘘?そっか。今はわかんない。説明が出来ない。けど嫌な予感しかしないから気を付けてね。」
終了ボタンをタップして、開口一番に「今すぐ帰る。」と改めて教員に言った。
麻美とのやり取りをすぐ近くで聞いていた湊と教員だが、何にそんなに興奮しているのか理解出来ずにいた。
「昨日の朝、私には見えたの。空の色がおかしくて、全身に悪寒が走って地震が起きた。先輩達に聞いたけど、空の色は見てないって。今日はもっと濃い色で不気味で怖い。全身に鳥肌が立ってる」そう言ってジャージを捲って見せた。「さっき空見た時から鳥肌が引っ込まないの。」伝え終わると同時に校門に向かって歩き出すと教員が
「分かったから。自宅まで送るから少し待ってろ。他の先生に伝えてくる。荒瀬もお前の家の方向だよな。今連れて来る。先に行くなよ。」そう言って戻って行った。
「なんかあったらLINEして。なんか無くてもいいけど。気を付けて。」湊が心配して声を掛けてくれた。奈緒は無言で頷いた。
教員と荒瀬がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
校門を出てぐるりと辺りを見渡すと酷い有様だった。古い家は崩れており、道路には瓦礫やコンクリートの破片が散乱している。停められた車はベコベコに凹んでフロントガラスが割れていた。上から色々落ちて来たのだろう。
自宅は倒壊していないだろうか?と一瞬心配したが、それはないだろうと思い直した。
お父さんが建築設計士で、結婚後に自分で設計したのだ。お母さんには、「家族を守る家だ!」と言ってかなり丈夫で安全な家を作ってくれた、と話してくれたのを思い出した。だからきっとお母さんも守ってくれてるはずだ!と思いたい。
大きな交差点では警察官が交通を指揮していた。電気が止まっている為に信号機も機能していない。おまけに所々コンクリートが裂けて車が通れない場所もあるようだ。
道路にスプレー缶で矢印とバツマークを書いて通行禁止を知らせている。朝から大きな声で隣人同士が揉めている声が聞こえて来た。そちらの木がこちらに倒れて…と責任の話しをしていた。高校2年生でも今それが重要ではない事が解る。人が生きるか死ぬかという時に何を争っているのだろう。
倒壊した家の前では「閉じ込められてませんかー?」と声を出している中年男性を見かけた。その少し先にでは消防士達が人命救助している。
荒瀬の家に向かってる途中、荒瀬の親戚らしい叔母さんが話しかけてきた。
「あ、圭介くん。大丈夫だった?凪子と連絡が取れないんだけど。」凪子とは荒瀬の母親の名前らしい。
「仕事じゃね?こんなんだし。多分、連絡なんて当分取れねぇよ。」
会話を聞いていると、荒瀬の母親は看護師のようだ。この地区の一番大きな総合病院に勤務しているらしい。
考えてみれば、迎えが来ないで一晩過ごす家庭は何かあったか片親で働いている場合だろう。学校に残っている生徒でも学校側と連絡が取れている親もいる。帰宅出来ずにいて、後ほど正式な避難所に連れて行く手筈になっている。
直接親子で連絡が取れて、避難所で落ち合う約束をしている子もいた。
奈緒と荒瀬と湊と3年の男子の1人が、家族との連絡が取れていない。
荒瀬は家に着くと鍵を出して玄関を開ける。
「おい、ババア、いねーのかよ。」
流石に口が悪いのにビックリした。家の中からは物音一つせず静まり返っていた。
「荒瀬、後で避難所に一緒に行くから必要な物を纏めて持ってきてくれ。」
荒瀬は面倒臭そうに家の中に入って行った。
開け放したままにした玄関の前で、教員が話かけてきた。
「さっきの空の話しだが、昨日以外には色が違う日はなかったのかい?」
「多分ない。いつも空を見ている訳じゃないけど、雲の形を見るのが好きだから割と上向いてるけど。思い当たらない。昨日が初めて。夕焼けとかは普通によくあるし…」
「今も紫なのか?」
「違う。もう、いつもの空と一緒。昨日も授業始まって外見たけど、普通の空の色に戻ってた。」
「この地震と何か関係があるのか?」教員は真剣に悩む素ぶりを見せながら尋ねてきた。
「わからない。本当に何も。ただの勘。」
それしか奈緒には言えない。根拠も原因も分からないのだから。
私服に着替えた荒瀬が戻ってきた。
スポーツバックがはち切れそうになっている。パンパンに詰め込んで来たのだろう。ファスナーがきちんと締め切れていない。首を通して斜めに肩紐を掛ける。
「一応、置き手紙を書いてあげなさい。避難所に居ます。と一言でいいから。息子の生存を心配しない親は居ないからな。」教師は荒瀬に手紙を書かせて荒瀬の家を後にした。
3
荒瀬の家から奈緒の家までは一箇所通れそうにない道があったので回り道をしたが、そう遠くはなかった。相変わらず古い家屋は倒壊しており、瓦礫が散乱して住人達が生存者の救助に手を貸していた。奈緒は家の前に着くと深呼吸を一度して玄関を横にスライドさせた。鍵が開いている。
「お母さん。ねぇ、居ないの。」そう言いながら中にはいり、早々に靴を脱ぎ捨て一部屋づつ確認していく。
足の悪いお母さんは滅多に2階へは上がらないが、2階も隈なく探す。
やはり居ない。リビングに行き、改めて見ると地震の影響で食器棚が倒れてその角にはベトリと血が付いていた。
お母さん…怪我したんだ。ダイニングテーブルには見覚えの無い字で、「病院に連れて行く。緊急連絡先」と、番号が書かれていた。奈緒はすぐにポケットからスマホを取り出して書いてある番号に電話した。
「もしもし、私、井口奈緒です。お母さんは?」
「奈緒ちゃん。隣の山田だよ。お母さんね、大丈夫だから。怪我しちゃったんだけどね。あと少しでおじさん家に着くから、奈緒ちゃんに説明するから家に居て。」と言われて通話を終了した。
「井口、お前はまだ未成年だからここで1人で待たせる訳には行かない。保護者が居ない場合は避難所に連れて行かなくちゃ駄目なんだ。」
教員がそう言うと、荒瀬が口を挟んだ。
「避難所なんて後で行けばいいじゃん。スマホだってあるんだし。」
「とりあえず、必要な物を纏めて出られる用意をしておけ。」
奈緒は2階に上がり、自分の部屋に入り荷物を纏めた。
動き易さを重視した結果、可愛い服よりジャージを何枚も詰め込んだ。
ひと段落して部屋を見渡す。
奈緒の部屋も地震の影響で、壁に飾っていたお気に入りの帽子やチェストの上に置いてあった物は全て落ちてしまっていた。
「奈緒ちゃーん。入るよ。」
と突然玄関から声が聞こえた。隣の山田だ。
奈緒は慌てて階段を下り、山田にお辞儀をした。
「お母さんは?」奈緒は少しでも早く話しが聞きたかった。
山田は奈緒に分かりやすく説明をしようと、少し考えた後に口を開いた。
内容は、昼の大地震が落ち着き、被害が少なかった山田さんは、お母さんがおそらく家の中にいるだろう、と心配になってうちの玄関を叩いたが返事がない為、家に戻った。だかやっぱり頭の片隅で心配していてくれたらしい。夜になって向かいの奥さんがお母さんと仲良しだから、井口さんは足が不自由だから心配だと相談してみたらしい。すると向かいの奥さんが、なんかあった時の為に、ってお母さんから合鍵を預かっていた事を聞かされて、向かいのご主人と3人でうちに鍵を開けて入った。
すると倒れた食器棚と床に挟まれて、どうにも出来ない状態のお母さんを見つけて3人で助けてくれた。その上山田さんは病院まで運んでくれたみたいだ。
病院では沢山の怪我人が居て、なかなかお母さんの番にならず今まで掛かってしまったらしい。
怪我の具合は、挟まった足の骨が折れており、ずっと挟まったままだったので圧迫が激しく神経に問題が残るかも知れないらしい。あとは食器棚が倒れて来た時に一緒に倒れてしまって頭を打ってしまい、4針ほど縫ったと聞いた。それと小さい傷が少しあると言っていた。何とか脱出しようと暴れもがいた時にあちこち割れたガラスで切ったようだ。命にかかわる怪我はないそうだ。
「お母さんを見つけてくれてありがとうございます。」奈緒は深々と頭を下げてお礼を言った。
やっとお母さんの生存確認が出来たと思えた。今までずっと嫌な想像ばかりが頭を掠めて離れなかったのだ。
まだ会えていないけど大分気持ちが楽になれた気がした。
4
奈緒と荒瀬と教員は避難所に来て、500mlのペットボトルの水をもらい、生存確認と避難所の過ごし方の説明を受けていた。万が一の為にスマホの番号も聞かれたので答えた。緊急災害で個人情報が…など気にする気にもならないので抵抗なく言った。
教員はこの説明の後、自分の家族が居る場所に行く、と話した。担当に「2人をお願いします。」と頭を下げた。
そして説明が終わると「お前達、絶対に一人で行動するなよ。地震以外にも危険は沢山あるからな。」と一言残して帰って行った。
避難所と行っても市の総合体育館だ。学校の体育館より大きいが、その分沢山の人で溢れている。
また体育館だ。
ガヤガヤと煩い。赤ん坊も居れば老人もいる。ここに居る人は家が倒壊してしまった人や、家が崩れそうで危ない人だ。自宅で生活が出来ない人が避難しているのだ。
奈緒は生活出来る自宅があるのに、ここに居るのが嫌だった。ここにいる人とは全然違う。保護者が居ないという理由だけだ。無理してここに居る理由が分からない。
連れて来た教員はもう役目を終えて帰った。
ここからは自分の意思だ。
そうだ!家に帰ろう。入り口でここの人に会ったら忘れ物を取りに帰るとでも言えば良いだろう。
自分の意思が固まったのを見計らった様に、突然激しい揺れが襲ってきた。
今度は緊急アラートは鳴らなかった。
近くに居る荒瀬と顔を見合わせ、慌てて建物から離れた。小さく踞って揺れが止むのを待った。辺りを見回し確認する。近くに倒れてくる物は無い。
だか揺れが止まる気配は感じられない。昨日の震度7と同じ位の大きな揺れに思えた。目の前のアスファルトに亀裂が入り、尚も揺れ続けて亀裂の左右の高さが変わる。地盤が変形してるのが解る。
やがて近隣の住宅から次々にガラスが割れる音が聞こえ出した。体育館の中からは、悲鳴と赤ちゃんの泣き声が聞こえる。少し離れた住宅から煙が立ち昇っているのが見えた。おそらく火災だろう。
「荒瀬くんはさ、ここに居るんだよね?」
小さく丸まった身体を少し立ち上げて荒瀬の方に顔を向けて聞いた。目が合った。「お前はどっか行くの?」と聞き返してきた。
「家に帰る。」短く答えた。
揺れが止むと、すぐさま立ち上がり歩き出した。
「なあ、俺もお前の家に行っていい?」
奈緒は、荒瀬の言った言葉が余りにも唐突過ぎてキョトンとしてしまった。
「私、乱暴なのとかちょっと無理なんだよね。ごめん。」
そう言って断ったつもりだが、荒瀬も引かない。
「お前さ、朝に空がどうとか言ってたじゃん、あれ何?」
家に来る事の話しかと思えば、空の話しを突然聞いてきた。
「えっ、朝の話、聞いてたんだ。意味分かんないよね。私自身も分かんないから説明出来ないよ。」
荒瀬は真剣な目で奈緒を見つめていた。
「あー。俺少しだけ分かるわー。だけどここでは話せない。だから家に行ってもいいか?」
全然分からない状態で交換条件のような提案をされた。
奈緒は荒瀬の言う、少しだけ分かる、にとても興味が沸いた。本当に知りたいのだ。
「私の身体に触れたり、物壊したりしない?私が嫌だと思う事はすぐやめてね。」
荒瀬に約束させて、二人で奈緒の家に向かった。