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四  鶴の正体

 春乃木学舎学長・垣下大吉は、新任の英語講師について詳しくを知らない。ただ人の紹介があって雇ったのみである。その、人というのは白鳥玄南のことで、読者諸氏にはこれをご記憶だろうか。翡翠自然ひすいじねん流剣術道場の若き師範代である。


  ◇


 玄南は元、京都は九条西札辻にしふだのつじにある反物問屋の三男坊だ。末子である。店は名を鼎屋といい、売り物の上質をもって知られている。

 白鳥家はこれの又従兄弟のすじにあたるが、若い世代といえば夫婦がひと組あるばかりで、その長男夫婦も子に恵まれないまま歳ばかり食い、いよいよ子作りも難しいとみて玄南を養子にもらい受けた。この時玄南、十四歳。


 翡翠自然流は、今でこそ勢いを失くしているものの、佐幕倒幕の動乱期においては江戸でも三本の指に数えられた名門である。当時を知る門下生のなかには気性の激しい者も少なくなく、そういう輩に玄南はちくと苛められたらしい。養父で師範たる一利いちりの目のないところでは、試合稽古と称して、防具の隙間ばかりを滅法に打ち据えられることもあった。たとえ転んでもそこから二、三本はしつこく打たれるものだから、東京にきて以来、玄南の体から痣が消えぬ日はなかったという。

 しかし玄南少年、目元は涼やかでありながら、その奥底には並々ならぬ闘志を秘めている性質たちらしく。一利もそれを見抜いていたか、玄南が顔を腫らして帰っても、あえて何も言わなかった。

 手の平の皮はもう幾度剥けたか分からない。道場の外では水の入った桶を持ち、庭を掃きながら足を動かし、養父からは剣術の何たるかを学び心身を磨く――。

 弱音は一度も吐かなかった。


 季節が二巡するころには、玄南もただ打たれるに甘んずるだけの少年ではなくなっていた。

 成長期を迎えて伸びた四肢は、細身ながらもしなやかな筋肉に彩られ、こわい道着を通しても、なお見事な体躯が見て取れる。それでも生来の乱視と経験差のために、やはり痣を作ること度々であったが、白鳥道場に彼を侮る人間はもういない。

 少年が青年へと成長し、妻を迎えて子を設けるに至るころには、玄南の名は、青少年の憧れとして足るまでになっていた。


 さて、玄南その人についてはここらで筆を休めるとして、本編より少しく時を遡る。すなわち明治は二十年、初夏のころ。

 白鳥玄南は、内儀が漬けた白菜を片手に垣下の屋敷を訪れた。実はこの二人、玄南がまだ鼎屋の坊っちゃんであった時分からの付き合いである。


  ◇


 初夏といっても蒸れる日で、垣下は朝から機嫌が悪かった。元来が汗かきな男で、嘘か真か、夏の盛りにはその背に滝が見られるとまで言われる。

 対する玄南は涼しげなもので、藍の夏羽織を肩にかけ、暑がる様子が少しもない。羽織は京都の生家から送られてくるものだろうか、控えめながらも質がよい。

 しばらく世間話などを楽しんだあと、玄南はこう切り出した。

「先生」

 と玄南は、昔と変わらぬ呼び方で、

「先生のところに空きはありませんか」

「空き」

 生徒の斡旋かと垣下は思ったがそうではない。玄南が言うのは講師側の空きだとか。

「私の友人に猪尾という男がおります。これが一昨年いっさくねん、米国留学から帰ってきたはいいんですが、その後はふらふら遊び歩くばかりで、いっかな定職にも就きません。頭の出来なら当代一とも思える男です。腐らせておくには惜しい」

 聞いて、垣下は手を打って喜んだ。

 勿論、春乃木にも英語の講師はいる――いた。いたのだが、過日、蝶よ花よと慈しみ育ててきた愛児に先立たれ、すっかり生気を抜き取られてしまったのだ。これには垣下も困り果て、かといってあまり強くも言えず、頭を悩ませていたところである。

 玄南の話は、まさに渡りに船というところ。一も二もなく乗った。


 やがて屋敷を辞そうという時、ふと玄南はこんなことを言った。

「猪尾には、ちと変わったところがあります。根はいい男なんですが」

 彼という男には珍しく、歯にものが挟まったような物言いが気にかかったが、それより玄南が昔の縁を忘れずに、こうして自分を頼ってきてくれたことが嬉しくて、垣下はついその言葉を聞き流してしまった。

 後々、垣下はそのことを激しく後悔し、さらに後には笑い話として思い出すようになるのだが、この時は当然、そのようなこと知る由もない。


  ◇


 ようやく振り返るをやめ、場面を佐々木の離れに移すとする。

 細魚浦さよりうら秋奈は、揺れる灯を頼りに墨色の文字を追っていた。読んでいるのは例の教科書、『源氏物語』である。

 ――猪尾の講義が面白い。

 評判はすぐ学舎中に広まった。手の空いた講師が競って彼の教室を覗くので、特別に席が設けられたほどだ。しかし当の猪尾は特に気にする風もなく、見学者には一度にこりと笑いかけるものの、あとはいつもの通り飄々としている。彼のそういうところに、人は惹かれるらしかった。


「入るで」

 そう声がかかるより一足早く、もう障子が滑っている。秋奈の肩が小さく跳ねた。

 振り返るまでもない。例の「けったいな男」――鶴屋信三郎である。

 気取られぬように、秋奈は素早く本を閉じる。ついでに、何気ない風を装って、『源氏物語』と書見台を脇にやった。慌てて閉じたものだから、あるいは紙の一枚か二枚が折れてしまったかもしれない。秋奈は小さく舌を鳴らしたが、その憤りが信三郎に向けられたものか、自分自身に向けられたものか、よく分からなかった。

「なんや、今日はまたえらく不機嫌やの。便秘かい」

 ――ため息が漏れる。

 信三郎は秋奈の渋面にもまるで怯まず、いつも通りの図々しさで畳の上にあぐらをかいた。押しの強さもここまでくれば凄味がある。

「おう、ピヨ。そうやろう。詰まっとるんかい」

「やかましわっ」

 ゆっくりしたお人柄だと、(その言葉裏にあるのが好意であれ悪意であれ)故郷の人は口を揃えて秋奈少年をそう評する。しかし生来ののんき者も、この鶴屋信三郎という男とはよほどそりが合わないものか、会えば必ず喧嘩になった。


 初めて信三郎が佐々木の離れを訪れたのは、確か春乃木の試験を受けた日だった。

 彼は断りもなく部屋に押し入り、高慢ちきにものを訊ねて、しかし秋奈の問いには耳を貸さず、あまつさえ「ピヨ」などという不愉快極まりない渾名をつけてくれたのだ。爾来、二日か三日に一度の頻度で秋奈をからかいに来るのだが、どこに住んでいるのか、いつ来るのかもてんで分からない。世話をしてくれる佐々木の使用人にも人相を伝え、そういう人が来たら留守と言って追い返してくださいと強く頼んであるのだが、老女が気を抜いているのか、あるいは信三郎が忍びにおける達人なのか、一度も阻まれることなく通ってくる。

 さあ、何もかもが分からない。鶴屋信三郎とは何者か? また、どうして自分に構うのか?

 さりげなく、時には厳しく責めるように秋奈は疑問をぶつけたが、信三郎はのらりくらりとかわすばかりで、一向に身分を明かさない。

 分かるのは、彼が京都の人であること。そしてどうやら、これでなかなか頭が切れるらしいことぐらいであった。


 信三郎は癖の強い髪を押さえるように撫でていたが、ふと書見台に目を留めた。

「なんや、本を読んどったんか。なにを読んどるん」

 彼としては、ただ場の繋ぎに訊ねただけであったろう。その質問には深い意味も、さしたる興味もなかったはずだ。

 しかし秋奈はうろたえた。恥ずかしかったのだ。


 貧しいとはいえ、細魚浦家も武士の家系。土壁に穴が開いていようが、屋根のあちこちから雨が滴り落ちてこようが、心は侍のそれである。秋奈も手習いには孔子を使った。

 そうでなくとも物語は女子が楽しむもの――ましてや『源氏物語』など。

 彼の学友もまた(一名ヲ除キ)同じ気持ちであることは、猪尾がそれを配った際の反応から見て取れた。しかし、猪尾がそう言い張る限り『源氏物語』は立派な教科書なのだ。読まねば講義についてはいけぬ。

 そういう大義名分があるのだから、秋奈も堂々と答えてやればよかったのだ。あるいは適当に嘘をつけば。

 それもせず、あからさまに狼狽して見せたのだから、信三郎も関心を持ったらしい。秋奈が答えぬ腹とみると、半身を起して手を伸ばした。わっと叫んで、秋奈はその腕に飛びついた。


 いや。飛びついたつもりだった。


「へえ、『源氏物語』。これはこれは」

 半ばからかうような信三郎の声を聞きながら、秋奈は茫然と尻もちをついている。


 確かに二人はぶつかったはずだ。互いに腰を浮かせた不安定な状態で。勢いそのまま倒れこんだら、日頃の鬱憤をこめて、腹に肘鉄でも見舞ってやろうとも思っていた秋奈である。それが。

 ――すり抜け、た?

 すり抜けた。秋奈の体が、信三郎の体を。

 なぜだか総身に粟が生じる。思わず秋奈が我が身を抱くと、信三郎があれぇと間の抜けた声をあげた。

「震えとるんか。もしかすると、中を通ってしまうと生身にはよろしゅうないんかな」

「な、中? 通るって……」

 なんと、歯の根も合わなくなってきた。本格的に、寒い。それでいて、後頭部の辺りだけは妙にポッポと熱かった。熱でも出たのかしらん。

 視界すら霞んできた秋奈の前に、信三郎がずいと首を突き出した。間近で見ると、暑苦しい顔がよけいに暑苦しい。その表情は、笑っているようにも、困っているようにも、あるいは泣いているようにも秋奈には見えた。

 鶴屋信三郎は、太い眉毛を八の字にカタッと下げて。


「言いそびれてしもたんやけどな。わし、この世の者やないんや。いやあ、すまん。いつか言おう、言おうとは思っとったんやけど」


 そう告白する信三郎は、宙に――浮いていた。

 跳ね上がることもなく、沈み込むこともなく、ただ畳の上三尺ほどの空間に「浮いていた」。


 秋奈少年は、頭部の熱が急速に下がっていくのを感じた。頭の中に、視界の中に、黒い幕が下りていく。




(『鶴の正体』 お仕舞い)

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