二 闖入者
束ねられた細枝が、じゃっじゃと庭の石を掻く。
小気味いい音をたてて竹箒を操るのは、袴姿が涼しい青年だ。シルバァ縁の眼鏡をかけている。切れ長の目と相まって、どこかいい処の書生さんといった風情である。
素朴で小ざっぱりした風体ではあるが、実はこの男、翡翠自然流剣術道場の師範代を務める腕前である。名を白鳥玄南という。
その玄南が、姿通りよくよく澄んだ声で、顔もあげずにこう言った。
「やあ、豊さんか」
呼ばれて豊さん――猪尾豊水は足を止めた。やだァ気付いてたの、と言って笑う。
さすがは玄南、白鳥家自慢の嫡男である。箒が小石を集める音の中から、足音だけを拾うとは。しかもそれが猪尾のものとまで見抜く。鮮やかなものだ。
ようよう、玄南は手を休めてふり返った。レンズの向こうで目が優しく弧を描く。
「豊さんの歩き方には癖があるからね。右足にこう、重心がかかる」
「いやよ、もう。分析シないで」
「はは、ごめんごめん」
大仰に身をくねらせる猪尾は、その手に徳利を持っている。甘い匂いに誘われて、ここに来る途中で買い求めたものだ。元より猪尾は玄南を訪ねる腹であったから、これでいい手土産ができた。二人とも、酒は呑んで飽くことがない性質である。
「それより豊さん、いやにご機嫌だね。なにかいいことでもあった」
うふふ、と猪尾は唇をすぼめる。
「好い子を見つけたの」
「なんだ、また花街遊びかい」
ほどほどにしなよと言いかけた玄南を遮って、違うの、と猪尾は手を振った。
「女じゃなくて、男なの。まだちょっと乳臭いショーネン」
玄南はふと眉を顰めた。実は心配していたことである。
二年前に、ようよう日本に帰って来た幼馴染が、奇妙な女言葉を喋るようになっていたのだ。もしや米国で悪い性癖をもらってきたかと、玄南が危ぶむのも仕方ない。
「まさか豊さん」
猪尾は聡い。他人の心情にいち早く気づく。
それでいて態とからかうのだから困りものだが、どうやらこの時もそうだった。狼狽える玄南横目に、もう少し勘違いさせておこうと、意地悪なことを考えている。
その、彼が言うところの“好い子”であるが。
◇
彼は寝転んで天井を睨んでいた。細魚浦秋奈である。
閉めきった障子の向こうでは、闇がその手を伸ばしつつある。しっとりとした質量は、半紙を通しても尚感じられるほどだ。
畳の上に四肢を投げ出し、大の字になって秋奈は目を閉じた。ゆるゆると、腹の底から息を吐く。
――実にまあ、えらい厄日じゃ。
面接官の前で大失態をやらかすわ、唯一の下駄は損ねるわ。
――ただ、あの娘さんが親切でよかったの。
例の茶店の娘である。彼女は秋奈のために空の木箱を用意してくれ、おまけにもう使わないからと、店の手拭いまで譲ってくれたのだ。これは手拭いを一ツしか持たぬ秋奈には僥倖であった。
上京する長男のために、細々の物共を揃えてやれるほどの金銭が、細魚浦家にはない。
青年会は学費を融資はしてくれるものの、旅費の面倒までは見てくれぬ。そこで秋奈の両親は、着物を売ったり小海老を掬ったりと、思いつくことは何でもやった。それでもようやく二円を揃えるのが関の山、せいぜい船賃に毛が生えた程度である。ために秋奈は道中の飯すら満足に済ませられなかった程だ、どうして身なりを整える事なとできようか。
しかしたったの二円とはいえ、両親の愛と苦労が詰まった金だ。その結晶だ。寝る間も惜しんで働き続けた父母の姿を思い起こせば、自然、秋奈の目にも涙がじゅじゅむ。
「わしは大層恵まれとる」
声に出して秋奈は言った。そうすると、よけい言葉が身に滲みた。
両親の尽力に加え、秋奈が恵まれていると言うのには、彼の叔父の助けもあった。
名ばかりながら、国元では県の教育官吏を務めている叔父である。その彼が、青年会発足の話を聞きつけて、試験日や考査傾向などをいち早く秋奈に届けてくれた。めでたく秋奈が東京行きを決めてからも、彼は何かと走り回ってくれたらしい。この下宿を見つけてくれたもの彼だ。
今秋奈が寝起きしているのは、とある屋敷の一角にある離れだ。近所には「佐々木さん」と呼ばれている。元は大名屋敷であったらしく、この離れも十二分に広い。が、無賃同然で間借りしている。理由については定かでないが、その上佐々木の使用人が、ある程度まで炊事の手伝いもしてくれるとなれば。
掘り出し物にしてもまあ好条件に過ぎる。愛くるしい人柄で、たれにでも好かれる叔父であるから、その人徳が呼んだ幸運であろうか。あまりに話が旨いので、佐々木方には何事かの欺罔やあると危ぶむ声も聞こえたが、とにかく、秋奈にとっては有難い事この上なかった。
春乃木学舎は、その叔父が勧めてくれた。
「あっこはええわ。なんでも三ヶ国語を話す先生がおるらしい」
「へえ、三ヶ国語」
「ん。英語に独逸語、仏蘭西語じゃ。どれも学んで足りることはないじゃろ」
叔父の言う通りである。英語は元より、独逸語は医学、仏蘭西語は軍学の面で、今一番必要とされている語学なのだ。これを一度に得られるとなれば、強い。
しかしその春乃木にも落ちた。
と、秋奈は思っている。
そうもあろう。面接官の前で鼻毛を抜いたのだ、学力云々以前の問題である。
讃州の華になれよと、出立の際に船着き場で彼を見送った人々の、声援が耳朶に蘇る。秋奈はもう一度天井を睨みつけると、ぱっと足を蹴って起き上がった。
――ええ、恨み事はやめじゃ。今日は今日、明日は明日。
なに、春乃木ばかりが学び舎という訳ではない。東京は広いのだ。そして秋奈はまだ若い。
うなだれていた胸の小人が、再び撥をとことこ鳴らす。よし漢文でもやるかと秋奈は背筋を伸ばしたが、その時不意に障子が開いた。
「だれや」
秋奈が口を開くより早く、闖入者のほうがそう言った。
肌の浅黒い少年である。総髪で、紺の上衣に白の袴といった出で立ち。背が高く、肩幅も広い。鼻と口がやけに大きく、眉太く、睫毛は長く、一種異様な面相である。
秋奈の目は鋭い。一瞬にして、少年の鼻から極太の毛がちらりと覗いているのまで見つけた。げぇと思った。思って、同時に、自分がまた鼻孔に指をつっこんでいるらしいことにも気付いた。
「だれや」
着物の裾で、慌て惑って指を拭う秋奈をよそに、少年は同じ調子でくりかえす。その高圧的な態度にはむっとしながら、しかし秋奈は丁寧に答えた。
「細魚浦じゃ。国は讃州、寒川郡」
「さよりうら? けったいな名前やな。下の名前は何というんや」
続けて問われて秋奈は口を閉ざした。できることなら答えたくない。
◇
あきなというこの迷惑な名前、つけたのは彼の祖父だ。
家督をさっさと息子に譲り、早い内から隠居生活に入ったこの老人は、まあ奔放な人であった。
若いうちより短歌に凝っていた彼だから、俗世を捨てて庵を結んだ気にでもなっていたのかもしれない。現役を退くと、彼は茅葺きの粗末な小屋に移った。
その彼が、ある夜稀有な夢を見た。後光を背負った阿弥陀如来が御座しまして、この老人の口元に、その御指をそっと添えなすったという。
そこで彼は目を覚ましたのだが、同時に一つの歌が湧くようにして生まれた。それがこれだ。
もみぢ追う稚児の鈴声聞くにつけ
みつみちみちし唐梨子のほほ
(幼い子どもが紅葉を追ってはしゃぎます声を聞く頃になると、蜜をたっぷり蓄えた林檎のように、頬が赤らむことですよ)
まあ荒削りな歌であるが、老人はこれをこよなく愛した。不遜にも、阿弥陀如来が人の口を借りてうたった歌だと言って憚らなかった。
唐梨子は秋の季語である。それで折しも生まれた初孫に“秋”の“奈”と名付けた。
赤子が女児だろうが男児だろうが構わなかったこの老人は、秋奈が国元を発つひと月前に、糸が切れるようにしてぷつりと死んだ。その頬は、老いてなお青年のような唐梨子色であったという。
さて。舞台は東京、佐々木の離れに戻る。
◇
逡巡する秋奈にしびれを切らしたか、少年はちっと舌を鳴らした。そして吐き捨てるようにこう言った。
「ピヨやな」
「ピヨ?」
「せや、ピヨや。おまえはどことのうひよこに似とる。あれはピヨピヨ鳴くやろう」
秋奈はさすがに熱を孕ませて立った。いくらのんびり者とはいえ、ひよこと言われて怒らずにいられるはずがない。
が、掴みかかるまでは至らなかった。体格のこともある。秋奈は背が低いのだ。そこで、吠えた。
「なんじゃ、おどれ。いきなし入りょってから」
何者じゃ、と秋奈はやや気色ばんで言った。
少年の話し言葉には京の訛りがある。まず、佐々木の家の者ではあるまい。
ほりほりと顎を掻き、嘯くように少年は言った。
「わしか。わしは鶴屋や、鶴屋信三郎」
「鶴か雀か知らんがの、それがわしに何用じゃ」
頬を膨らせて秋奈が言うと、少年――信三郎はくつくつと笑った。
「のんびり者の面しとるわりに、存外威勢のええ奴っちゃ。んん! 悪ゥない」
そして今度は腹を震わせて哄笑すると、ぷいと体を横に向けてしまった。そのまま大股でのっしのっしと歩いて行く。秋奈の問いは無視された形だ。
つられて秋奈も立ち上がり、ぱっと部屋を飛び出したが、少年の姿は既にない。ただ廊下を踏み鳴らす音だけが、遠くの方から聞こえるばかり。
――なんじゃあ。
ふっと肩から力が抜けると同時に、秋奈の腹がぐうぅと鳴った。
(『闖入者』 お仕舞い)