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一  鼻毛を抜く

           挿絵(By みてみん)


 きっかけは一枚の答案用紙だった。

「猪尾。これ見てみィ」

 大げさに猪尾はふり返る。この男の動作は、いつも妙に芝居臭い。

「なんでショ」

「作文じゃ、入学試験の」

 猪尾は眉をわずかに持ち上げた。国語科は彼の管轄ではない。

 が、答案を一目見れば理由が分かった。

 全て英語で書かれているのだ。それも結構な達筆である。如何どうしてなるほど、猪尾の手に託されるわけだ。これを読み解ける者など、この学舎には彼以外おるまい。彼は二年前まで米国に暮らしていた、いわばその分野のエキスパアトなのだから。

 春乃木学舎の学長は、元は土佐の藩士である。どうもかの地の人間は、感情を露わにしやすい性質たちらしい、とは猪尾の見方だ。この学長も例外ではない。顔が興奮に赤らんでいる。

「立派なもんじゃろィ。春乃木からもついに、天才が出るぜ」

「は。どうでショね」

 猪尾は、彼にしては珍しい曖昧さで答えた。事実、どうとも言いにくい内容である。

 ――だが、会ってみたい。

 無論、この答案を書いた人物に。ここ最近とんと静かだった、猪尾の好奇心が顔をもたげる。


 そんなことで、会ってみた。


  ◇


 ――案外普通なのね。

 ちょこなんと座る少年は、年の頃十三、四といったところか。頬と唇の赤みが目立つのは、肌色が白いためだろう。冬も近づいているというのに薄っぺらな単物一枚で、おまけに紐のような帯ときた。いかにも田舎あがりらしいというのが、猪尾が彼に抱いた第一印象である。

 その猪尾だが、部屋に入ると少し考えを改めた。

 この少年、仮にも面接官としてやって来た猪尾を前に、少しも恐れる様子がないのだ。多少緊張しているきらいはあるが、まだ堂々としたものだ。

 なにせ、田舎者はそうでなくとも東京に怯える。

 というより堅くなる。

 よそに比べて格段に華やかなこの都では、地方の出身だと、どうも己の粗野が目立つ。それで余計卑屈になる。が、この少年にはそれがない。身なりに無頓着なところからもそれが窺える。

 しかし他はまるで凡庸――と、切れ味鋭い猪尾の評は、一瞬でそこまで至っている。

「もっと奇抜な子かと思ったわ」

「へ」

「いいの、こっちの話。……ところで、これは一体どういう訳かシら」

 猪尾はひらと手を振って、机の天板をとんとんと打った。例の答案用紙がそこにある。

 学長先生は「春乃木、万歳」と喜ぶばかりで、まるで気がつかなかったらしいがこの解答――実は解答にすらなっておらぬ。

 いかにも御立派らしく書かれた英文だが、文法がまるで御座なりというのが本当のところ。いや、そもそも文章の形すら成していないのだ。主語もなければ述語もない。ただ難解そうな単語ばかりを、つらつら並べてあるばかり。どういう訳、と猪尾が聞くのは、そういった意味合いである。

 それに対する少年の答えは、簡単明瞭至極であった。

「そう書けば、きっと先生方の目に留まると思いました」

 作文の問題は『春ノ上野ニ臨ミテ』というものであった。上野は東京での桜の名所である。が、つい四日前に上京してきたという少年はそれを知らない。だから投げた、と言う。

「貼り出された題が『春ノかみ、野ニ臨ミテ』なのか、『春ノ、上野うえのニ臨ミテ』なのかも分かりませんけれ。それでただ、目立つものを書こうと考えました」

「それでこの、英単語の大行列っていうわけ」

「はい」

 猪尾はこそりとため息を漏らした。呆れてなのか、感じ入ってなのかは分からない。が、どうやら悪い気はしなかった。

 彼の手元にはもう一枚の紙がある。この少年の願書だ。答案と併せて持ってきた。あまり注意を払わなかったそれに、今一度目を向けてみる。

「ええ、と。細魚浦さよりうら……これは……“あきな”?」

 氏名の欄には流麗な筆遣いで『秋奈』とある。が、こんな名前を男につけるものだろうか。

「ね。あなたの名前って……」

 顔を上げ、猪尾は言葉を失った。


 少年は、なんと鼻の穴に指をつっこんでいたのである。


 ぼうとした顔は、どこか遠くを見ているよう。目はくっきりと二重だが、視線はまるで定まらない。締まりのない口元からは、今にも涎が垂れてきそう――が、猪尾の呼びかけが届いたか、はっとした様子で少年は居住まいを正した。つっこんでいた親指と人差し指も、素早く膝の上に揃えた。

 滅多なことでは驚かないつもりでいる猪尾豊水ほうすいであるが、これにはさすがに絶句した。

「あの、申し訳ありません。ついうっかりにござりますれば」

 少年も狼狽えた様子ではある。しかし大事な面接の場において、“ついうっかり”でも鼻毛を抜く奴がいるだろうか。

 何と言うべきか見つけられずにいる猪尾に、沈黙が耐えきれなかったか、少年は、窺うようにこう訊ねた。

「どうもこちらに来てから鼻毛の伸びが早いですら。土埃が多いせいでしょうか。先生は、いかがです――」


  ◇


 この秋奈少年、見た目はややおぼこいが、この冬で十六になる。その彼が四国に生まれる数年前に、日本は一度ひっくり返った。

 第十五代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返還したてまつったのだ。大政奉還である。

 江戸幕府。

 東照大権現の治世より、長きに渡ってこの国の主役であり続けた、歴史上最も強大で、最も鈍重な組織である。それがついに崩れた。

 この徳川三百年の融解と共に、帝の御威光のもと芽吹いたのが明治の文化だ。この時代、目を見張るばかりの勢いで、日本は西欧の色に染まっていく。開けた土地では洋装姿がちらほら見られるようになり、外来の食い物も流行した。一般に、この流れを文明開化という。

 当時、こんな一節が町で流行った。


  じゃんぎり頭をたたいてみれば

  文明開化の音がする


 洟を垂らした小僧までうたった。江戸の時代にあっては非人の俗称でしかなかったじゃんぎりも、ひとたび世が移ろえば、国の躍進の象徴としてうたわれるのだ。

 しかし暢気に頭をたたいておれぬ若者も多くいた。秋奈もその内の一人である。


 それまでの日本は、単に諸侯の寄せ集めにすぎなかった。それぞれが藩という形である程度独立していた。そもそも“日本国”という概念自体なかったかもしれない。それが今、一つの運命共同体として歩み出そうとしている。

 明治の世を迎え、創世以来、日本はふた度産声をあげた。――が、肝心の乳母が足らぬ。

 かつて雄藩と呼ばれた薩長土肥が、いくら人材に優れようとて、さすがにこの国全土を見るまでには至らない。この赤ん坊、無知なことに変わりはないが、なりだけは御立派なのだ。指導者は、全国にあまねく求めて過ぎることがなかった。

 いまや身を立てる術は学問にある。国の中枢はやはり雄藩に拠るが、それらが人材を求めるに、もうどこの産とは問わなかった。ただ優秀であれば成りあがれた。時代が諸藩のしがらみを取り払ったのだ。馬鹿の子のように、ぽんぽんと頭を打って喜んでいる暇はない。

 ――これを機とせずいつ立とう。

 秋奈少年の心にも、ふつふつと湧いてくるものがある。

 細魚浦は、元はといえば七石扶持の徒士かちの家である。つまり下っ端の下っ端、という事。封建的な江戸社会にあっては、国のてっぺんのことなど、夢にも見ることができなかった。

 それが今はどうだ。

 修繕すら間に合わない細魚浦家の土壁にまで、英傑求ムの声が響いてくる。これで胸を高鳴らせない若者がいるだろうか。


 性来、秋奈はのんびりしている。讃州人全体にその気があるが、秋奈の場合はとりわけ強い。

 こんなことがあった。

 秋奈の国元には「青年会」という団体がある。讃岐高松藩最後の藩主、松平頼聰よりとしの私財で賄われている団体である。明治の初期、このような「何某会」というのは全国にあって盛んだった。

 有望な人材に教育を受けさせる目的で発足したこの青年会であるが、そこに名を連ねようとすると、難しい試験を通らねばならない。しかし如何に難関であれども、会員となれば高額な学資金が賜れるのだから、頭に少しでも覚えのある者はこぞってこれを目指す。貧乏武士の子のように、それ以外に身を立てる道がないような者共には、命懸けのような気配すらある。それで当然の事ながら、競争率の高さは滅法界にまで至るのが常だ。

 そういう訳で、試験を受けた子らは合否を知るまで毎日腹痛を覚えるほどであったが、一人細魚浦秋奈だけは違った。

 彼は縁側にほっけと座り、もくねんと鼻毛を抜いていたのだ。

「おまえは僧かそれとも木偶か」

 彼の父親はこう言って嘆いた。悟りを開いた聖人でもないおまえが煩悩を知らぬとなれば、それは木彫りの人形に過ぎぬからかと彼は言うのだ。

 もっと緊張を持て、強く志を抱けと父親は叱ったが、しかしそれにも秋奈少年は、はあ、と曖昧に答えるだけだった。実は彼、内心ではこう思っていたのだ。

 ――父サンは何も分かっちょらんけん。

 無論、秋奈とて緊張もしているし志も抱いている。試験の結果を思えば下腹がしくしく痛みもする。ただ、彼の場合はそれが表に出ないだけのことだ。それでいつも「秋坊は争うことを知らんけれ」と言われる。

 そんな秋奈少年ですら、東京行きが決定すると、ついに胸に小人を飼うようになった。これが木の撥をぽくぽくやると、若さと、それによる熱意とが、押さえきれぬ衝動となって体を揺らすのだ。


 が、その小人らも、故郷を発って十日目にして働くのをやめてしまった。例の面接を終えた後、春乃木学舎からの帰り道である。

 ――やってしもうた。

 その言葉だけが、ぐるぐると頭を駆け巡る。

 ついつい鼻毛を抜く癖は、秋奈が幼い頃よりの癖だ。悪癖だ。ほっと肩の力を抜いた時や、物思いに耽っている時に無意識にやる。母はよく、しなやかな柳の枝で、鼻をほじくる秋奈少年の手を打った。それはもう恐ろしく痛いのだが、それでも治らなかった。

 ――試験を済ませ、すっかり安心し切っておった。

 面接官の、いやに垂れ下がった目が彼の手元に落ちた時、ついに気の緩みが顕著になった。考えるより先に、秋奈少年の右手は鼻に伸びていた。

 これはもう、まだその行為の意味すら知らぬ幼子おさなごが、股間に手をやるのと同じ事だろう。無条件に、落ち着いてしまうのだ。

 しかし、まさかそんな言い訳で許されるはずがない。

 あの面接官、たしか名を猪尾と言ったか。

 不気味に女ったらしい言葉遣いの男だったが、面接を受け持つくらいだ、それなりに地位のある学者先生なのだろう。その彼の前で、憚らずも――、

「あっ」

 と秋奈少年はつんのめった。足をくぼみに取られたのだ。

 更に悪いことに、よろけた拍子に嫌な音がした。ぶっつりと、それは足もとから聞こえた。

「ああ……」

 鼻緒が切れている。

 秋奈の頭が、がくりと前に転げ落ちた。やや色味の薄い髪の毛が、はらりと顔に零れかかる。

「どうか、なさいましたか」

 ふと声がかかった。

 秋奈がうっつらふり向くと、立っているのは気丈そうな娘である。縦じまの着物に前掛けを巻いていて、どうやら茶屋の売り子らしい。俯きよろめく少年の、あまりに悲哀漂う背中に、ついつい情が動いたのだろう。

 青い顔を正面に見て、娘はまあと声をあげた。ぱっと手を口に当てる。

 実はこの秋奈少年、これがなかなか匂いたつような美少年なのだ――鼻孔に指をつっこみさえしなければ。

 娘の頬に、ぽっと好い色の行燈が灯った。




(『鼻毛を抜く』 お仕舞い)

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