ヤンデレを求めた私のハピエン
今日も視線を感じる。
この4月からずっと感じていた視線。
その視線の主を私はもう知っている。
ちらり、と視線をパソコンから上げる。
小さな事務室に、涼やかな声が流れている。
「いえいえ、まだ結婚なんてできませんよ」
「そうかねぇ。岩城くんならモテそうなのになぁ」
「はははっ、ありがとうございます」
今年の春、中途採用された岩城慎司くんは、さわやかに上司のセクハラ発言に答えると、いつも通りに私へ経理書類を渡しに来た。
「黒河さん、お願いします」
半袖のシャツから伸びる岩城くんの筋張った腕をそっと見てから、私は書類を受け取る。
「はい、ありがとうございます」
「黒河さんは、長袖で暑くないんですか?」
「えぇ、ここはクーラーの風がよく当たるから」
「……へえ、そうなんですね」
じんわりと耳に残る低音が、私の胸をときめかせる。
3秒ほど黙って立っていた岩城くんは、小さな声で、
「それじゃ、今夜」
と言った。
私は顔にかかったままの長い前髪を静かに揺らして、うなずいてみせた。
***
私がヤンデレ好きになったのは、思えば子どもの頃かもしれない。
もちろん、その時は「ヤンデレ」なんて言葉も概念も知らなかった。
ただ、毎日ご飯を作ってくれて、毎朝起こしてくれる親がいる友達が羨ましかった。
父も母も、私を愛してくれなかった。
ご飯は隣町の祖父母が3日に1回届けてくれる。
父も母も、よくわからない時に家に帰ってきた。
褒められたことはない。
殴られたことは、あったのかもしれない。
記憶にあるのは、学校からのプリントの受け渡しと、それへの対応だけだった。
授業参観があれば行くと答え、教室に来てもすぐに帰る。
服が欲しいと言うと、お金を渡される。私は、レシートとおつりを渡す。
同じテレビを見ていても、会話らしい会話はなかった。
それが私にとって普通だった。
それなのに。
ある時、友達のおうちでお泊まり会があった。
何故、私が参加していたのかは覚えていない。たぶん、小学生の頃はぼんやりとしながら、人に害を与えない存在だったので人数合わせで呼ばれたのだろう。
そのお泊まり会で、自分の家が普通じゃないことに気づいた。
「おはよう」と友達が言うと、「おはよう」と親が答える。
食べたいものを聞いて、その後にコンビニから買ってきたと与えてくれる。
テレビを見ながら、話して、笑って、テレビを見ないで話し続けて。
私は、愛されていない子どもだと分かった。
誰かに、関心を持ってもらいたい。
誰かに、強い感情を抱いて欲しい。
私は、自分の中の心の虚に気づいた途端に、欲しいものを見つけたのだった。
***
会社を出ると、雨が降っていた。
真っ黒な空から落ちてくる重油のような重たい雨が、傘を容赦なく叩いてくる。
待ち合わせ場所の喫茶店に入ると、岩城くんが店の奥の方に座っていた。
「お待たせ」
私が声をかけると、岩城くんが手元で操作していたスマートフォンから顔を上げる。
「ずいぶん、濡れてますね」
「そうね。雨が降っていて」
少し不快感を覚えたので、バックからハンドタオルを取り出して、濡れた長袖の部分を拭いた。
それをじっと見つめる岩城くん。
その視線を私は指摘せずに、頼んだ紅茶が来るのを待った。
ずっと感じていた視線。
目を隠せるように伸ばした私の前髪すらも、なんの防壁にもならないほどの強い視線。
その視線に気づいた時、私はようやく自分の夢が叶うと確信した。
強い執着。
それが、私の欲しかったものだ。
今、目の前の青年が、それを叶えてくれる。
私は嬉しくなって、俯いたまま、ふふふと笑った。
***
誰かに強く愛されたい。
その想いは、中学校に入り、思春期の荒波にさらわれた頃、強くなった。
周りの友達は、好きな人ができた、彼氏ができたと、さわさわと台風に揉まれる梢のように騒いでいた。
私もその嵐に飛び込めればよかったのだが、まだ男子への興味がそれほど湧かなかった。
誰かに愛されたい。
でも、その誰かが分からない。
対象をみつけられないまま、中学2年になった。
一応、部活には全員が入らなければならなかったので、読書部というなんの活動もしない部に入った。
一部の有志が小説や詩を書いて、年に2回部誌を出していたが、強制ではないので私は何もしていなかった。
ただ、部員に勧められるままに本を読んでいただけだった。その本の中で、「ヤンデレ」というものを知った。
閉じこめて、自分に依存させて、他の誰よりも強い愛情で束縛するキャラクターたち。
そんな風に私も愛されたいと思った。
部員に頼んでは、ヤンデレが出てくる小説ばかりを読み耽っていた。
他の部員の好みに比べれば、私のヤンデレ好きはまだまだ薄いと思わざるを得ないほど混沌とした部だった。
そんな部活でも、新入生は入ってきた。
その中の1人に、とても心の優しい女の子がいた。
名前は、若菜ちゃん。
周りの喧嘩のような推しトークについていけず、いつもオロオロしてしまうようなかわいい女の子だった。
私が先輩だからと、色々と気をつかってくれる。
部活帰りにこっそりと、一緒にハンバーガーを食べたのもいい思い出だ。
そして、気づけば一番仲の良い後輩になっていた。
どこに行くにも一緒で、休みの日にはおそろいの物を買っては、次のお出かけの時につけたりしていた。
ファストフード店で何時間もおしゃべりした。
そして、若菜ちゃんは、私が他の部員と話していると、じっと見つめて顔を強張らせて見ていた。
ああ、愛されている。そう思った。
同性だから、友情にしかならないけれど、この関係を大事にしたいと思った。
愛されたいのなら、私も愛さなければ。
そう心に誓い、若菜ちゃんが親の再婚で転校してからも、何度も会いに行った。
それでも、距離や進学という環境の変化で離れるしかなかった。そのことを若菜ちゃんも分かっていた。
だから、最後に彼女は私に愛の形を残してくれた。
私はそれを大事に大事に心に秘めて、これからを生きていこうと思った。
それから10年以上、私を愛してくれる人が現れることはなかった。
このまま、若菜ちゃんとの思い出だけを抱えて死んでいこうと思っていた。
そんな中で、岩城慎司くんが私に視線を送っていることに気づいた。
それはとても、とてもとても強い視線。
こんなに強い思いがあるのかと、私は感動に打ち震えた。
勘違いだと思いたかったが、飲み会の帰りに声をかけられて、告白されて、怖いほどの思いを岩城くんから感じて。
ああ、この人が運命の人なんだと分かった。
中学生の頃から待っていた人。
私は、この人に全てを捧げようと思った。
それは、今夜にでも。
***
雨は、まだ強いままだった。
喫茶店を出てから2人で傘に入ると、岩城くんは雨音で他の人に聞こえないように、そっと私に言った。
「……俺の部屋に、来ませんか」
道端の電光掲示板がちらちらと岩城くんの顔を照らしている。
その瞳は、どこまでも真剣だった。
私は、彼の耳元に口を寄せて答えた。
「いいよ、行こうか」
靴の中までびしゃびしゃに濡れた足で、私は岩城くんの部屋の玄関に立っている。
傘をたたみ、玄関ドアに立てかけると、岩城くんは待ちかねたように、私のブラウスのボタンを外しはじめた。
体にぴったりとついたブラウスは、今でははっきりと私の下着を見せていた。
ここじゃなくて、部屋に行きたいなと思ったけれど、待ちきれない岩城くんの強い感情が表現されているようで、嬉しくなってそのまま黙っていた。
岩城くんは、全てのボタンを外すと、びしょ濡れのブラウスを脱がせて、その場に落とした。
そして、耐えきれないように私の腕をとると、床に押し倒した。
「やっぱり、お前が若菜を殺したんだな」
覆いかぶさった岩城くんの顔は、逆光でよく見えない。
それなのに、その目は強く私を見ていると感じた。
「若菜ちゃんを知っているの?」
ドキドキと心臓の音が強くなる。
私の腕を押さえている岩城くんの手に力が入った。
「お前が若菜の名前を口にするな」
「どうして?嫉妬しているの?」
「嫉妬?何を言ってるんだ」
「だって、若菜ちゃんが私につけた愛の印を見てから、急に」
「お前が殺したんだ!何が愛の印だ!
中学校の同じ部活になっただけで、毎日毎日若菜につきまとって!
学校のない日でも、若菜をつけまわしていただろう!
若菜が買ったものと同じヘアピンに、服に、靴に!!わざわざ身につけては、若菜を呼び出して、ファストフード店で何時間も…!」
「……好きな人とおそろいのものをつけるのが、そんなにおかしいの?」
「若菜はお前に怯えていた!
毎日毎日毎日、勝手につけまわして!距離を置こうとすると、若菜の悪口を周りに言いふらしていただろう!
それが、愛?ふざけんなっ!」
岩城くんは、私にツバを吐きかけながら、どんどん大声になっていった。
「オヤジと母さんが結婚したのを利用して、若菜を転校させたのに!
お前は何度も何度も若菜を追いかけて来ていたなぁ!」
「……離れても大丈夫だって、若菜に言ったら泣いてたよ?」
「ああ、それが若菜を追い詰めたんだ!どうにもならなくなった若菜はお前を刺した。
この腕の傷が、その時の傷だろ?」
「……若菜ちゃんが、私に忘れないでってつけてくれた、愛の形、なのよ?」
「愛?ふざけんなっ!!
てめえがやってたのは、愛じゃない!
ただの脅迫だ!恫喝だ!
優しい若菜には、人を刃物で傷つけたことが耐えられなかったんだ…」
「……誰にも、言ってないわ。
私と、若菜ちゃんの秘密で」
「ああ、若菜は警察には捕まってないさ。
だがな、何も罪に問われないからと、それで忘れて生きていくことができない人間もいるんだ!お前と違って!」
「……忘れたことなんて、ないわ。私は若菜ちゃんを」
「若菜は自殺した!」
逆光でキラキラと光る埃とツバが、上から降ってくる。
「お前を刺したことで、若菜は壊れた!
お前が殺したんだ!!」
ぐっと、私の腕を押さえている手に力が入った。
「……若菜ちゃんは、死んだの?」
「ああ!お前が殺したんだ!」
「私が、若菜ちゃんを、ころしたの…?」
まぶたの裏をチカチカと稲妻のように光が飛ぶ。
若菜ちゃんが、私が、殺して、死んだ……
「……嬉しい、なんて、うれしいことなの」
思わず漏れ出た感情の吐露は、岩城くんの拳で消された。
顔面を殴られて、痛みと血のあたたかさを感じた。
「てめえ、何て言った?」
「……だって、若菜ちゃんは私のために死んだのでしょう?とても、それはうれ」
再び、顔面に拳が落とされた。
私は息が一瞬止まり、その後咳き込んだ。
すると、上にのっていた岩城くんの重みが消えて、まぶたの裏が明るくなった。
戸棚の開ける音がした。
はあはあと、荒い息が聞こえた。
また、まぶたの裏が暗くなった。
途端に、お腹に衝撃と、それから遅れて痛みが襲ってきた。
何度も何度も。
ようやく静かになったので、目を開けると、そこには半袖が真っ赤になった岩城くんの姿が見えた。
私はそれを見て、笑った。
最後の力を振り絞って、私は言葉を紡いだ。
「……私に強い気持ちをいだいてくれて、ありがとう」
ああ、舌がまわらない。でも、言わなきゃ。
「とてもしあわせです
わたしがわかなちゃんをころして
いわきくんにころされるほど
つよいきもちをいだいてくれて」
お腹に力が入らない。
「とてもしあわせです ありがとう」
最後に笑みを送ろうと、目を開くと、そこには顔をぐしゃぐしゃに歪めている岩城くんが見えた。
視界が真っ暗になった。
ごとん、と包丁が落ちる音が聞こえた気がした。