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女の声

作者: 鷲津飛一(わしづ とびいち)

 何事も無い平和な人生というのは、一体どれほど尊いものなのだろうか?

 男は、そう疑問に思った。

 無論、病気にかかったり、事故や犯罪などに巻き込まれるなどは、無いに越したことはないというのは重々承知している。

 だが、何の変化や刺激、ストレスなどが無い人生というのは、果たして本当に幸福なことなのだろうか?

 「平和」とは、「退屈」の類義語なのではないか?

 自分はこれまで、そんな人生を生きてきた。

 そして自分は、そんな人生を幸福とは感じなかった。

 退屈だった。ただただ苦痛だった。

 男は、ごくごく普通の家庭、両親のもとに産まれ、育った。

 勉学の成績は普通。運動神経も普通。評価は、いつも「3」。

 高校の時に、初めての彼女ができた。そして三ヶ月後に別れた。

 中級の大学に進学。4年後に、中堅の電気機器メーカーに就職。そこから3年が経った。

 仕事はそこそここなしており、上司に怒られたりなどは滅多に無い。

 但し、出世コースの起爆剤になるような、大きな実績も上げられなかった。

 普通。無色透明。影が薄い。存在感が無い。印象に残らない。

 男は、そんな人間であった。

 そして男は、そんな自分と、自分の人生に嫌気が差していた。

 「退屈」は「虚無感」を生み、やがて耐え難い「苦痛」へと姿を変えた。

 刺激……刺激が欲しかったのだ。

 胸の奥底からぶるぶると震え上がるような……興奮とワクワクに全身が総毛立つような……そんな刺激が。

 だからであろう。ある夏の日の深夜、男が、とある廃屋へと足を運んだのは。

 日常から切り離された閉鎖的空間に、「変化」と「興奮」、そして「癒し」を求めたのだ。

 頼りない明かりを放つ懐中電灯を携え、男はゆっくりとした足取りで、中を進む。

 廃屋の中には、埃にまみれた薄汚い空気が蔓延しており、吸う度にむせ返りそうになってしまう。

 圧倒的な闇の中で、ただ男の足音だけが、煩わしく思うほどに鮮明に響き渡っていた。

 男は別段、霊など信じてはいない。

 だがそれでも、一縷の望みと期待を託して、ここへと足を踏み入れ、そして進んでいた。

 刺激。ただそれを求めて……。

 と、その時であった。

 巨大な闇の中に響き渡る男の足音に、何かの「音」が混じってきた。

「おqしあdんwdじゃはkんfjをbysvどぇjふkだぢあbはlfqもvdhlっけwj」

 「音」ではなかった。「声」だ。

「bfこんbこあsさcじゃのいqふぃえうyrgえんjcdmcsjbrいqんしうbじのど」

 それも、「女性の声」だ。

 麗しく、透き通るような声……聴いているだけで、脳が蕩けるような快楽が迸る、そんな声だった。

 しかし残念ながら、話している言語は日本語ではない。

 いや、そもそも人間の言語なのかすらも怪しかった。

 普通であれば、こんな薄気味悪い廃屋で、どこの言語かすらも知れない女の声が聞こえてきたら、踵を返して一目散に逃げ帰ることだろう。

 しかし、この時の男は、なぜかそうしなかった。

 自分でも、理由は説明できなかった。

 男は半ば無意識に、その声がする方向へと歩を進めていた。

 帰ってはいけないような……招かれているような、そんな気がしたのだ。

 これ程までに綺麗な声だ、この声の持ち主である女性も、さぞかし端麗な女性なのだろう。

 やや場違いな期待が、男の脳裏を過ぎった。

 やがて男は、とある部屋へと辿り着いた。

 その部屋には、木製の地味な柄のダイニングテーブルが鎮座していた。

 そしてそのテーブルの真ん中には、今にも壊れそうな……或いは既に壊れている、埃に塗れた黒いラジカセが置かれていた。

「くxふえjうqふgbnおgjんsどvjんぁそdqづjdぉんvをんぐぉwじょ」

 女性の声は、どうやらこのラジカセから発せられていたようだ。

 言葉を聞き取れなかったのは、恐らくスピーカー部分が壊れていたからだろう。

 なんだ……。

 安堵と落胆の念が、同時に男の胸中で渦巻いた。

 と、その時であった。

「……ラジオ番組、『深淵ラジオ』。皆様、いかがお過ごしでしょうか?最近、最高気温が33度を超える猛暑日が続いてるので、体調管理には充分に気を付けてくださいね?本日のラジオパーソナリティーは私、dghvbがお送り致します」

 壊れていたはずのスピーカー部分から突如、鮮明に聞き取れる日本語が発せられたのだ。

 しかし、肝心のラジオパーソナリティーの名前の部分は、相変わらず聞き取れない意味不明な発音であった。

 これはやばい。なんだか知らないが凄くやばい。早く逃げるんだ!

 男の生存本能が、自らにそう訴えかけていた。

 しかし一方で男の両脚は、その脳からの命令に背くが如く、ぴくりとも動かなかったのだ。

 淡々とした口調で、女は更に言葉を紡いでいく。

「さて早速ですが、本日のゲストの方にお越し頂きましょう。電気機器メーカーの『サンダーライン』様に勤務されている、三山国広(みやま くにひろ)さんです!三山さん、本日は宜しくお願いします」

 三山国広。それが、男の名前であった。

 なぜ予め録音したものを放送するラジオ番組で、自分の名前が呼ばれたのだ?

 三山には、過去に何か一つでもラジオ番組に出演した記憶はない。

 ならばこのラジオは……ライブ放送?

 つまり、この誰も居ないはずの廃屋で、三山の存在を見咎めている「誰か」が居るということか……?

 総毛立つ恐怖が肢体を迸る最中……三山は確かに、背後にある存在感を認めた。

 理性より早く、本能が上体を動かしていた。

 懐中電灯の明かりが灯したことによって映し出された輪郭は……およそ人の言葉では言い表すにたり得ない、異形のモノであった。

 断末魔の絶叫が、廃屋の中を反響する。

 今際の際の一瞬、何事も無い平和な人生がいかに尊く幸福なことか……その重みとありがたさを、三山は感じた……ような気がした。

 

 

 

 


 

 

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