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6.十一通御書

おっかさんの葬式を済ませると、おやじは再び鎌倉に戻った。


蒙古国から国書が、朝廷を通じて幕府に届いたのはこの時だ。


その内容ってのは、表向きは、仲良くしましょうってことなんだが、もちろん、言うこときかなけりゃあ武力に訴えるぞってことが暗に示してあった。蒙古国におとなしく従うか、そうじゃなきゃ痛い目をみるか、どっちか選べっていうお知らせだ。


日蓮のおやじは立正安国論の中で、念仏への信仰をやめないと、「他国侵逼(たこくしんぴつ)(なん)」といって、外国から攻められるという難が起きると予言していたことは、話したね。


それが的中したわけだ。


当たって喜んだわけじゃねえよ。蒙古国の兵士たちが海を渡って押し寄せて来るってんだから。おやじは、この国が滅びるまでもう時間がねえと感じた。だからそれまでより一層真剣になって、幕府に対して、念仏を庇護するのをやめさせようとした。


立正安国論を北条時頼に読ませた時、それは宿谷光則やどやみつのりという、位の高い幕府の役人で、北条時頼と近しい関係だった男が仲介してくれた。光則がクチをきいてくれたから時頼は、名も知れない坊さんの意見書をまじめに読んでくれたんだ。


日蓮のおやじは今回もこの宿谷光則に、幕府とのやりとりの仲介を頼もうとした。この時、執権は北条時宗に変わってる。北条時宗に対して、立正安国論で言ってたことが現実になったこと、念仏を庇護することをやめないともっとひどいことになるってことを伝えたくて、書状で光則に何度も丁寧に仲介を頼んだ。


ところが、光則のヤロウは返事のひとつもよこさねえ。やっかいごとはごめんこうむる、そう思って無視したんだろう。立正安国論の時とは、志が変わっちまったのかな。


エライ人と話をするには、いきなり本人に突撃するんでなくて、仲立ちをしてくれる人とまず話すのが作法ってもんだ。おやじもそうしたかったんだが、頼みの光則がそんなザマじゃしかたねえ。もう光則をアテにするのはやめて、おやじは直接、執権の北条時宗に宛てて書状を送った。時宗ばかりじゃねえ。他にもたくさん書状を書いて、弟子たちにそれを持たせてエライ人たちの屋敷に届けた。


送った先は、時宗のほかに、時宗の片腕である平頼綱、クソ野郎だね、それからはるばる唐の国からやって来て建長寺の住持になった禅宗の道隆、前にちょっと出て来た例の極楽寺良観、鎌倉大仏の面倒をみてる大仏殿の別当、寿福寺、浄光寺、多宝寺、長楽寺、あと一応もう一回宿屋光則、それからおれたちの味方の北条弥源太。その十一箇所だ。


その書状の内容ってのは、まず全部に共通してるのが、立正安国論に書いたことがキッチリ的中したぞ、ってことだ。日蓮のおやじは、自分のことを「未萌(みぼう)を知る者」だと言った。未萌を知るってのは、まだ起きてない未来のことを言い当てるって意味で、国の柱となる賢人の証だ。


時宗と、頼綱のクソ野郎に送った書状では、国を司る立場の者として、念仏を庇護することをやめ、南無妙法蓮華経を信じなさい、そうでないと後悔するぞと、あらためて説いた。


道隆、良観、大仏寺別当、寿福寺、浄光寺、多宝寺、長楽寺に送った書状には、念仏や禅の教えを説くのをやめて、早く日蓮の弟子になれ、文句があるなら公の場で法論対決しようじゃないか、と書いた。


宿屋光則と北条弥源太に送った書状は、そういうケンカを売るような書状をあちこちに送ったから、よろしくっていうあいさつだ。


中でも日蓮のおやじが特に痛烈な言葉を書き連ねたのは、極楽寺良観への書状だ。たとえば、


【今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、(いささか)も先非を悔いなば日蓮に帰す可し】


てなことを書いた。良観のことを「国賊」と呼んで、来世には地獄に堕ちるに決まってるって言うのさ。そして、間違いを認めるなら自分の弟子になれ、ときた。


それから建長寺の道隆に宛てた書状にも、道隆が弘めていた禅宗のことを指して【天魔の所為】とやった。そして道隆や良観たち、鎌倉で高僧と呼ばれてた人たちのことをいっぺんに【増上慢の大悪人】と呼んだのさ。つまり仏法のことをちゃんとわかってねえくせに思い上がって間違った教えを弘めている悪人だってんだ。


そう聞くと、ずいぶん無茶なことをする、おやじは気でも違ってたのかと、思うだろうね。無茶はおやじも承知だった。


それら十一通の書状と同時に、弟子たちに送った書状でおやじは


而強毒之(にごうどくし)の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候】


と言ってる。而強毒之ってのはね、中国の天台大師の言葉で、仏法の正しさをハッキリさせるため、遠慮してうやむやにしてしまわないため、相手が怒り出すとわかっていてもあえてキツイ言い方をすることだ。仏法をぼんやりしたものにしないためには、そういうのも必要なんだって、天台大師も言ってるのさ。


それから同じ弟子たちへの書状の中でおやじは弟子たちに向かって


【各各用心有る可し少しも妻子眷属(けんぞく)を憶うこと莫なかれ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え】


とも言ってる。幕府のエライ人たちからも庶民からも崇拝されてる高僧たちにケンカを売っちまったんだ、タダじゃすまない。でもこれは、仏法を正しく信じ抜いて、生きる苦しみ死ぬ苦しみを断ち切るために通らなきゃいけない道なんだって、日蓮のおやじは教えてる。


そんなことは知らねえで、おやじの一番弟子の日興たちが極楽寺にこの書状を届けに来たとき、おれはさんざん日興たちをののしって石を投げつけた。


そうさ、その時おれはちょうど極楽寺にいたのよ。まだ九つか十のガキだった。


おれにゃあ、親ってもんがいなくてね。病気かなんかで、おれがごく小さい赤ん坊のころに亡くなったそうな。その後は、親せきだかなんだかいまだによく知らねえ夫婦のところで世話になってたんだけど、その夫婦とその子どもらとも、うまくやってけなくて、それよりも近所の悪ガキの集まりに仲間入りして、そっちとばかり付き合うようになって。


まあそんなつまらねえ話はいいや、何しろおれはその頃、他の悪ガキ仲間といっしょに、極楽寺で暮らしてたのよ。極楽寺の坊さんたちの言うことを聞いて、チビ助ながらに、鎌倉の港で土木作業やら、炊き出しの手伝いやらやって、そうしておけば寝泊まりする場所と三度のメシは世話してもらえて、お駄賃なんかももらえる。


日蓮のおやじが伊豆に流罪されている間に、北条時頼が奈良の西大寺から叡尊っていう律宗の坊さんを招いて、ずいぶんと敬われたり寺を寄進されたりしたあと、自分の弟子の良観を鎌倉に置いて帰って行ったってことは、前にも少し話したね。


良観はその後、北条重時に気に入られて、重時が建立させた極楽寺の住持に落ち着いた。良観は師匠の叡尊と同じく、聖徳太子や行基が貧しい人や病気の人を世話するための活動を盛んにやったのにならって、慈善活動に力を入れていた。


おれも良観の子分たちに声をかけられて、やっかいになってたんだ。だから最初は、良観のことを、菩薩さまみたいなありがたい人だと思ってたよ。


だからそのころは、良観のことを悪く言う日蓮のおやじと、その弟子たちのことが、気に食わなかった。日興がおやじの書状を持って極楽寺に来た時も、坊さんたちが、それを良観に届ける前に中身を確かめようってんで、どうせひでえこと書いてるんだろうと思いながら開いてみたら、案の定、良観は地獄に堕ちるとか書いてあるんだもの。坊さんたちはわめき散らして日興たちを追い払った。日興のほうも心得たもんで、そーら怒ったとばかりにさっさと逃げて行ったよ。それに向けて、生意気なクソガキだったおれは、石を投げつけてやったんだ。坊さんたちにほめられたよ。

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