がまんスープ
きかん坊の男の子がいました。
母親は男の子が将来わがままな大人に育つのではないかといつも心配していましたが、父親は仕事が忙しくてそれどころではありませんでした。
独りで色々と悩んだ末に、母親は男の子のためにスープを作りました。
様々な野菜や薬草などが入っていますが、子供でも飲みやすい味をしたスープです。
それを与え続けると、男の子はだんだん大人しい子になっていきました。
母親の教育の甲斐もあって、色々な物事についてがまんすることを覚えるようになりました。
育てやすい子供になった事を、母親も父親も喜んでいました。
男の子は、毎日スープを一杯だけ与えられていました。
ある程度大きくなったら、自分でスープを作ることも教わりました。
男の子はすでに、大変がまんづよい子供に育っていました。
学校の勉強や宿題も、文句ひとつ言わずに真面目に取り組みます。
他の男の子たちのように、けんかや悪ふざけをしたりもしません。
母親も、男の子自身も、これはスープのおかげだと考えていました。
男の子がもう少し大きくなった時、母親が急にこの世を去ってしまいました。
父親は、ますます仕事にかまけるようになりました。
男の子は一人で家の事をするようになりました。
あのスープも、毎日欠かさず作って飲んでいます。
勉強と家事ばかりの生活でも、彼は文句を言いませんでした。
男の子は、とてもがまんづよく、自分に厳しい性格になっていました。
学業成績も優秀で、運動も得意でした。
ただ、彼はあまり友人が多い方ではありませんでした。
学年が上がるたび、学校を卒業するたびに、彼と話をする子供は減っていくのです。
多くの子供たちは、男の子ほどがまんづよくありません。
やりたいことがあればそっちをやってしまうし、言いたいことがあれば遠慮なく言ってしまいます。
がまんして勉強に集中出来る子も、そう多くないです。
そんな他の子供たちの事を、男の子はいつも見下していました。
僕のようにがまんすることが出来ないなんて、バカな連中だ。
がまんすれば、ちゃんと成績も上がるのに。
がまんすれば、けんかして怒られることもないのに。
がまんすれば、いい学校に行けるのに。
そんな考えが他の子供たちに見透かされていたのかは分かりませんが、男の子の周りからは他の子供たちはいなくなってしまいました。
やがて、男の子は青年と呼ばれるほどの年齢になりました。
青年は、国で一番頭のいい若者たちが集まる大学に通う事になりました。
がまんづよく勉強に向き合ってきたおかげで、自分は成功をつかむことが出来たのだと、青年は考えました。
もちろん、母親に教えてもらったスープのおかげでもあるのだと、よく分かっていました。
しかし、大学に入るという成功を収めた後も、彼の考え方は変わりませんでした。
世の中は、がまんが出来ないバカであふれていると、彼は常に考えていました。
貧しい人間は、がまんして努力することを知らないから貧しいままなのだ。
真ん中くらいの人間は、がまんをせずに欲をかいて、結局すべてを失ってしまう。
上の方の人間はもっとひどく、がまんが足りないために軽率な行動を取って、多くの人を不幸にする事すらある。
がまんが足りない事は悪い事なのだ、みんなががまんすることを知れば世の中は良くなるのに、とばかり考えていました。
いっぽう、大学には色々な人がいます。
青年のようにがまんして勉強に向き合わなくても、青年よりもはるかに頭が良かったり、教養が深かったりする学生もめずらしくありません。
それこそ、何不自由なく育ち、勉学以外の才能にも恵まれ、他の学生からの人気も高いような学生もいました。
独りぼっちの青年が、そんな学生の姿をみると、何とも言えない悔しさや、やるせない気持ちがこみ上げてきます。
そんな時に、自分の部屋に戻ってからやることは決まっています。
スープを作って飲むのです。
そうすれば、悔しいとかいう気持ちもがまんできるからです。
青年は、以前よりも多くスープを飲むようになりました。
朝だけ飲んでいたのが朝と夜。
それだけで足りなくなると、水筒にスープを入れて大学でも飲むようになりました。
夜中になかなか眠れないようになると、深夜にもスープを飲みました。
青年は、さらにがまんづよくなりました。
楽しい事や気晴らしをする事も、がまん。
勉強をする意味について考える事も、がまん。
思わずさけび出しそうになるのも、がまん。
自分がみじめだとか、悔しいとか思うのも、がまん。
しかし、それだけ色んなことをがまんして勉強に打ちこんでも、彼の成績は思うように上がりませんでした。
大学では、青年の成績は中の下くらい。
がまんを知らないように見える他の学生たちの足元にもおよびませんでした。
今日も、大学へ行きたくない気持ちをがまんして、青年はベッドから身体を起こします。
スープを飲んで、気持ちを落ち着けたら、カバンを持って、大学へと急ぎます。
ただ、この日はいつもよりも遅く起きてしまったので、彼は慌てていたのでしょう。
スープを詰めた水筒を、部屋に忘れたままでした。
午前中の講義を終えた青年は、心身ともに疲れ果てていました。
いつスープの効果が切れてしまうのか、気が気ではなかったからです。
建物を出ると、寮の自分の部屋へと急ぎました。
しかし、中庭まで来たところで、困った事が起きました。
人なつっこい子供たちに、退屈だから遊んでほしいとまとわりつかれてしまったのです。
急いでいた青年は、がまんが出来なくなり、子供たちを叱ってしまいました。
がまんすることを覚えろ、人に迷惑をかけるな、といった事を話した後、青年ははっとしました。
強い言葉で叱ったために、泣きそうな顔をしている子供たちもいます。
自分のがまんが足りないばかりに、子どもをおびえさせるような言い方をしてしまった。
本当の自分なら、がまんが足りずにこんな事をしてしまうなんてあり得ないのに。
青年が立ちつくしていると、子供の手を引いた若い女性がやってきて謝りました。
どうやら、はぐれてしまった子供を連れ戻しに行っていた様子でした。
青年は、女性に声をかけられたことではっとして、急いでその場をあとにしました。
子供たちが、あのお兄さんに叱られたと若い女性に告げ口する声も聞こえますが、気にも留めませんでした。
寮の部屋に戻るやいなや、水筒の中のスープに口をつけます。
それから深い呼吸をして、やっと気持ちが落ち着きました。
それと同時に、ひどい疲れと、自分がとんでもない事をしてしまったという後悔の念が生まれました。
昼食を済ませて、次の講義が行われる教室に向かう途中、青年はある講師に声をかけられました。
その講師は、青年が受講している講義の一つを担当していました。
「ちょっと君の様子が気になっていてね。話を聞かせてもらってもいいかな」
青年は、戸惑いながらも講師の申し出に応じました。
「実は、先ほど君が大学の中庭で子供に対して強い言葉を使っていたのを見たのだが、ずいぶんと君らしくないと思ってね」
そう言われて、青年は反射的に持っていた水筒に目をやりました。
とてもいたたまれない気持ちになって、がまんが効かなくなりそうになったためです。
「その水筒は、中身に何が入っているのかな?」
「いえ、これは……ただの水です。のどが渇きやすいので」
青年はとっさにごまかしました。
「私はこれでも多くの学生を見てきたつもりだ。君のように努力を惜しまない、がまんづよい学生も多く見てきている。ただ、君はそういう学生とも少し違っているように感じるんだ」
「違う……とは、どういう事でしょうか?」
「一言で言えば、不自然なんだよ。普段の君の授業態度や提出物の内容を見て、君の人となりについて考えてみたのだが、あまりにも、がまんすること自体を重要な事だと考えすぎているように見えるんだよ」
講師の言葉は、青年にとって決して気分の良いものではありませんでした。
「ですが、この大学にいる人間は、少なからずがまんづよい人間が多いのではないですか。がまんづよくなければ、成功を収められないのは明らかではないですか」
そこまで言ったところで、とっさに水筒の中身に口をつけます。
またさっきのように、がまんを忘れて変な事をするわけにはいかなかったからです。
「……もう一度聞くが、その水筒の中身は何なんだ?」
青年は、観念したように話しました。
「母に教えてもらったスープですよ。子どもの頃の私は大変なきかん坊でしてね。心配した母が私のために作ってくれたんですよ。おまじないのようなものです。別に害のあるものではないですし、これのおかげで私はがまんづよい性格になれたのだと自負していますが?」
それを聞いた講師は、とても難しい顔をして考えこみました。
青年も、講師の様子に思わず困惑しましたが、その後に口を開いた講師が発した言葉に、さらに困惑することとなりました。
「今度の休みの日に、孤児院の手伝いに行こう。詳しい事はそこで話そうか」
「孤児院の、手伝い……ですか?」
「そうだ。君が今悩んでいることについても、何か解決の糸口が見つかるかもしれない」
そう言うと、講師は孤児院の住所と集合時間が書かれた紙を青年に渡して、去って行ってしまいました。
「……何だったんだ、今のは……?」
青年はそう言うと、教室へと急ぎました。
その次の休みの日。
青年は、講師に言われた通りに孤児院に来ました。
突然告げられたことで戸惑ったのは事実ですが、あの何となく自分の事を見透かしているような物言いが気になったためです。
それに、休みの日にすることも特に無かったからです。
「よく来たね」
孤児院の中から、あの講師が出迎えてくれました。
「私は長い間ここの手伝いをしている。ここにいる子供たちは、大学の学生と違ってがまんを全く知らない。だが、その分とても素直なふるまいをするんだよ」
そう言いながら、青年を中へと案内しました。
「あ……」
「あっ!」
中に入って、青年は見覚えのある子供に出会いました。
自分がスープの入った水筒を忘れた日に、大学の中庭で出会い、思わず叱り飛ばしてしまった子供です。
青年に気づくやいなや、別の部屋へと走り去ろうとします。
「うわっ!」
「こら、マイケル! 急に走り出しちゃダメでしょ……、あ、先生。こんにちは」
子どもは奥から出てきた若い女性にぶつかりました。
「こんにちは、ヘレンさん。今日はうちの学生も手伝いに来ているんだ。ほら、ごあいさつを」
青年は女性の顔と、講師の顔を見比べました。
その女性は、中庭で子供の世話をしていた女性その人でした。
この講師は、彼女に自分を会わせるためにここへ連れてきたのでしょうか。
「こ、こんにちは……」
「……こんにちは」
青年は、戸惑いながらも女性にあいさつをします。
女性は、少し表情を硬くして青年にあいさつをします。
その後、女性はマイケルと呼ばれた子どもを連れて、奥の部屋へと行ってしまいました。
「あの、あなたは私を彼女に会わせるためにここに連れてきたんですか?」
青年がたずねると、講師は小さくうなずきました。
「それもあるが、先に君が飲んでいるスープというのについて話をしたいんだが、いいかな?」
そう言うと、青年をイスに座らせて、話を始めました。
講師は、青年が飲んでいるスープの作り方をたずねると、少し考えてからこう言いました。
「おそらくだが、それは民間薬とか、魔女の薬とか、とにかくそう呼ばれるものの一つだ。元々は、乱暴な人間を大人しくさせるために作られたようなものだな。君のお母様も、相当悩んでそれを君に飲ませる事を決めたのだろう」
「薬、ですか……?」
「弱くしてあるようだが、心の働きを鈍らせる恐れもある代物だ。ましてや今の君のように、一日に何度も飲むのは勧められない」
「……僕に、これを飲むなと言いたいんですか?」
青年はけげんそうな顔をしました。
「君はもう十分がまんづよい青年になっているではないか。もうそのスープの力を借りなくとも、自分を律することは出来るだろう?」
「それは……難しいです。これがないと、自分はがまんがきかなくなってしまう。自分が自分でなくなってしまう。私はがまんを知らない人間にはなりたくないのです」
「いろいろな気持ちをむりやりがまんすることが、君らしいということなのかね? 君は、そんな自分の事が本当に好きになれるのか?」
「自分を、好きに……?」
青年は戸惑いました。
「その薬について、もう一つ話をさせてもらおうか。さっきのヘレンさんなんだがね」
「ああ、あの女性ですか?」
「そうだ。あの人も、子どもの頃は君のようなきかん坊で、両親はかなり手を焼いたのだそうだよ」
青年はおどろきました。
とても優しそうな女性で、そんな風には見えなかったからです。
「それで、彼女の母親が君が飲んでいるのと同じ薬を彼女に飲ませたそうだ。ただ……」
「ただ?」
「薬が体に合ってなかったんだろうな。生死の境をさまよったのだそうだ。両親は自分達でヘレンさんを育てていく自信が無いと言って、この孤児院に彼女を預けたのだそうだ」
「それはひどい……」
「彼女は薬の力を借りることが出来なかった。それでも今の彼女は、あのように過ごせている。君の言うような、がまんを知らない人間ではない。それは一体なぜだと思う?」
「……分かりません」
青年が答えると、講師は口を開きました。
「彼女は確かに元々の性格としてがまんが苦手な部分があるのだろう。ただ、それ以上に彼女の心の働きで重要なものがある。それは、他者に対する優しさなのだと私は考えている」
「優しさ、ですか……?」
「そうだ。こう言っては悪いが、君にはそれが欠けている。そこが問題なのだ。薬を飲みつづけた影響で心の働きが鈍っているのかもしれないが、君の授業態度や提出物の内容をみると、あまりにも他者に対する配慮や共感が感じられない。いわゆるがまんを知らない人間に対する冷淡さが表に出すぎているんだよ」
講師の言葉に、青年は困惑しました。
自分では、当たり前のことを言ったり書いたりしているつもりだったからです。
「がまんづよさというのはあくまで内向きの心の働きだ。自分の心を監視し、縛り付けるような働きと言える。例えて言うなら、人にほめられたり、何かを得たりするために『自分が』こうしなければいけない、ああしなければいけないと考えるようなものだ。がまんという行為の主語は常に自分なのだ。一方で、優しさというのは外向きの心の働きだ。他者に向けて心を開き、自分の出来る事をしようとする働きと言えるな。行動するのは自分だが、『相手に』喜んでほしい、笑ってほしいと考える。優しさは相手が主語なのだよ」
「……つまり、優しさがあれば、外向きの心の働きがあれば、スープがなくても『がまんを知らない人間』にはならずに済むという事ですか?」
「まあ、そうとも言えるな」
講師との話の後に、青年は孤児院の仕事の手伝いをしました。
子供たちの世話には慣れていませんでしたが、講師やヘレンの助けを得ながら、夕方まで働きました。
手伝いをする中で、青年は、外向きの心の働きというのを心がけてみる事にしました。
泣いている子供がいたら、この子はがまんが足りないと考えるのではなく、どうしたら笑ってくれるだろうと考える事。
何かをしている時にまとわりついてくる子供がいたら、ただがまんをするように伝えるのではなく、どうすれば機嫌よく待ってもらえるかを考える事。
そういった事を心がけるうちに、子供たちとある程度親しく接することが出来るようになりました。
あのマイケルという少年も、青年のそばで話をするようになりました。
講師が何かを話したのかもしれませんが、青年の働きぶりを見て、ヘレンも声をかけてくれるようになりました。
ヘレンは、確かにがまんが得意ではないようで、思った事は何でも言ってしまいます。
しかし、ヘレンと話すことは、彼にとって新しい発見の連続でした。
「あなたは、何でもがまんして努力することで手に入れられると思っているのね?」
「はあ……」
「でもね、全てをがまんによって手に入れようとするのは、ただのよくばりだわ」
「よくばり、ですか……?」
「みんなががまんすることを覚えれば世の中が良くなる、と考えるのも、現実的ではないと思うのよ」
普段の青年なら、このような事を言われたらがまんできなくなる事でしょう。
しかし、不思議なことに、今の彼は落ち着いてヘレンの言葉を聞く事が出来ていました。
それは青年が自分の心の働きに気を付けているおかげなのか、あるいはヘレンの持つ資質によるものなのかは、青年自身にも分かりませんでした。
「私はあなたと違って、がまんは得意ではなかった。今でも苦手よ。それに、あなたのように立派な大学に通っている訳でもないわ。だけど思うのよ」
ヘレンは、諭すように青年に語りかけます。
「初めから何でも出来る人がいる。そうではない人もいる。がまんづよい人もがまんが出来ない人も、がまんなんかしなくても何でも出来る人もいる。評価されるような物事が得意な人もいれば、評価されにくい長所を持っている人もいる。だからこそ、いろんな所が違っている人間が分かり合い、手を取り合えることの方が、みんなが同じようにがまんしてがんばるよりも大切なんじゃないのかなって」
「……なるほど」
青年は、何となく講師が言うヘレンの優しさというものが分かったような気になりました。
外向きの心の働きがあるからこそ、人とつながったり、協力したりも出来る。
相手の事を考えるから、がまんづよくなくてもわがまま勝手にならない。
がまんだけで、自分を律するだけで何かを達成しようとしてもキリがない。
一人で何でも出来る、万能な人間なんてそういないのだから。
そんな事を、青年は考えました。
その日から、青年は少しずつ変わり始めました。
まず、がまんして勉強し続ければ全て上手くいくという考えを改める所から始めました。
がまんしても、人より出来ない事があるという事実を受け入れました。
それを認めるのは困難な事ではありましたが、そうする事によって青年の心は少し軽くなりました。
心の働きについても、青年は意識するようになりました。
自分とは毛色の違う人に対しても興味や関心を持つように心がけました。
必ずしも上手くいくことばかりではありませんでしたが、青年の考え方は着実に変わっていきました。
他の学生と話をすることも出来るようになっていきました。
その後も何度か孤児院へ手伝いに行っており、講師やヘレンと話をする事もあります。
青年にとっては、まだ分からないことだらけです。
講師は、青年の様子が変わってきたことを喜んでくれて、スープの量も減らしてみてはどうかと提案してくれました。
ヘレンも同じようなことを言い、青年が他者に対する優しさを身に着けていることを喜んでくれました。
青年には、今までずっと頼ってきたスープを手放すことに対する不安もあります。
それでも、こうして自分の考え方を改める事によって、徐々(じょじょ)に自分の事を好きになれるようになったのは、自分にとって大きな進歩であったと考えられるようになりました。
がまんを覚える事は大切な事です。
それは誰もが認める事であり、青年自身もそう思っています。
しかし、がまんだけで全てが上手くいくわけではないのも事実です。
少なくとも、がまんを人に押し付ける人間にならずに済んだのは、彼にとっての大きな収穫だったのかもしれません。