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「愛されていたのだと」

作者: 愛別陸

ある男がいた。

齢は60の半ばほどだが病を患ってしまい、その命は今にも尽きんとしていた。

最初の不調は頭だった。

そこから徐々に体の節々が痛くなり、足が動かせなくなったところで手遅れだと察した。


ゴミ溜めとなってしまった部屋の中心で動けなくなった男は走馬灯とも言える夢を見ていた。


生まれたときから病弱で、小学校など満足には行けなかった。


彼の父は酒飲みで、酒が切れると家族に暴力をはたらいた。

彼は父の前ではいつも怯えたように笑い、父はそんな彼のことが嫌いだったのか「何ヘラヘラしてやがる外へ出ろ」と休日は家から追い出されていた。


彼の母親は彼が18となった時、家に帰ってこなくなった。


彼は頭も良くなかったため、高校を卒業してすぐ職にあぶれた。

しかし父のいる家に帰りたくない一心から、土木関係で住み込みの仕事をなんとか見つけた。


肉体労働は体の弱い彼には向いていないように見えたが、彼の生真面目で実直な性格から一年を立つ頃には体も鍛えられ、現場でも親方に気に入られた。


それから10数年働いた頃、父親の訃報が届いた。

彼は少し心が動いたものの、父のことを好いてはいなかったため簡単な葬式をあげた後、骨は海へ撒いた。


そこからというもの彼には身内がいなくなった。

もともと人見知りな性格もあって親戚とも連絡を取らなくなり、天涯孤独というのにふさわしかった。


死の間際だというのに誰一人として看取ってくれるものはいない。

ああ、なんと寂しく虚しい人生であったろう。

彼は床で涙が溢れた。

しかしそれを拭う力も無い。

60数年なんとか生き抜いた結果がこれか。

彼の口からポツリと「愛されたかった」と言葉が溢れた。





乾燥し汚れた部屋にその言葉が溶けるように消え入ると別の記憶が蘇った。


それは父の記憶

父は酒を飲むとよく彼を手招きした。

近づくと油とアルコールの匂いのする顔を近づけ、「頑張れよ」とか「元気か?」とか言うのだ。


幼い彼には鬱陶しい上なんと反応してよいかわからずに、なんとも言えない顔して口角を無理やり上げるしかなかった。

父はあの時、何を思っていたのだろうか。


そんなことを思わずとも、父によく似た彼は気づいた。

あれは愛情表現なのだろう。


家族に日頃、負い目を感じていた父の精一杯の愛情表現だったのだろう。


酒に溺れて、家族を蔑ろにした父が今更「愛してる」など、どうして言えよう。



思えば赤子が高校生まで育つことなど尋常ではない労力がかかるだろう。


自分一人で食べれない、トイレにすら行けない赤子がどうして愛情を貰わず生きていけるだろう。



脳裏に不器用ながらも赤子の彼をあやす父と、そんな父を苦笑しながらも見守る母の姿が浮かぶ。



「ああ、愛されていたんだなぁ…」


最期の時、ゴミ山に横たわる彼だったが、彼の目には不思議な景色が見えた。


父と母がいる。

ミケランジェロのピエタのように彼は母親の腕の中に抱えられていた。

そして彼の顔を父親と母親が覗き込むように見ていた。


そして彼はそのままゴミに埋まり亡くなった。

ただもし死後の世界があるなら、彼はきっと黄金の世界へ還るのだろう。





愛とは不思議なものである。

人は愛に飢え、愛をもらえない自分を憐憫する。

しかしそんなはずはないのだ。

数え切れないほどの愛をその身にしているのに、何故かそれを忘却してしまう。 


盲目のまま砂漠において行かれたような焦燥感と渇望に苦しむが、本当はすでに滝の如き愛を浴びていることもある。


「愛されていたこと」の自覚こそ人が救われる瞬間かもしれない

目を通していただきありがとうございました。

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