第2章 【四天魔将】① 王弟スレイマン
北部戦線―――今や魔王軍は人間達を大幅に押し返し、人間領にまでその戦地を広げていた。
北部戦線は《北の勇者》という稀代の槍使いが防衛の指揮を執っており、勢いよく進行する魔王軍に対して粘り強く反攻していた。
「うーむ、やはりこの状況は好ましくないですな」
魔王軍北部方面軍が陣を取る北方山脈に貼られたテントの一つ――参謀府とでもいうべきか、北部方面軍の名だたる武将が揃う中、年老いた魔人の一人が声を発する。
「奴らは、ジュブリーヌ要塞にこもりきっております。攻勢に出てくる気配もありません」
この老齢の魔人は前魔王の時代から最前線で活躍する古参の戦士の一人であり、戦上手としても知られる妙手、ベルンである。
およそ人間の100倍の寿命を持つ魔人といえども、彼の年齢になってまで前線にとどまることができる魔人は少ないだろう。
かの《深淵の策士》もその手腕を高く評価しているこの老齢の男は、この北部方面軍において参謀長を任されていた。
「しかし参謀長よ、我らが奴等の要塞を半包囲しているのだ。補給が無い中籠っているばかりでは、飢えによって壊滅するのではないか?」
ベルンに意見を言うこの男も若手の有望株の戦士として知られるアレックスだ。
勇猛果敢で知られるこの騎士の強さは敵味方問わず知れるところである。
実際、人間軍を要塞まで追い詰めたのは、彼の力があってこそだ。
「確かに、このまま時間が経てば兵糧が尽きて餓死するのは目に見えてわかるだろう。しかし、それはわが軍も同じなのですよ。伸びきった戦線に、大量の兵。このままの状態が続くならば・・・わが軍としてそれ相応の被害が出ましょう」
魔王軍はすでに大魔境から離れた位置まで侵入している。
それも連戦を見越した大軍を引き連れてだ。
戦線は長引き、現地調達に頼って来た補給も北方の厳しい気候ではあまり望めないだろう。
「もうすぐ冬もきます・・・。どちらにせよ本陣を山脈に置くのはあまりよろしくないかと・・・」
《自然》は魔族の味方でも、人間の味方でもない。
この世に生きる者にとって降りかかる恩恵であり、試練だ。
軍隊にとって北部の冬季行軍ほどの試練はあるまい。鎧は寒さに凍り、地面は冷たく、滑りやすい。さらには雪など降っては視界すらも奪われる。
一斉突撃により要塞突破を試みるか、それとも北の勇者を諦めて戦線を後退させ、冬越しに備えるか。
ベルンもアレックスもこれ以上は声を発しなかった。
北部方面軍で並ぶ者のない二人が何も言わないので、他の士官も声を出すことは無い。
彼らは待っているのだ。
この軍団で唯一の行動決定権を持つ、彼らの指揮官が口を開くのを。
「―――攻勢か後退か・・・・・・」
彼らの上官――魔王軍北部方面最高司令官は低い声で呟いた。
テントに置かれた席のなかで、最も奥の上座に座っている長身の男。
彼こそが魔王の弟にして《四天魔将》の一角。
《山脈の悪魔》こと北部方面軍司令官、《スレイマン・サイアー・ハドリアヌス》だ。
魔王ヴォルザードと同じ赤い髪と赤い目を持つスレイマン。
その威風は彼を知らぬ者からすると魔王そのものである。
数少ないヴォルザードとの違いは、痩躯な彼と違い、がっしりとした筋骨隆々の体格だ。
見事な筋肉に無数に広がる傷跡は、彼があらゆる戦場を駆けてきたことを容易に連想させる。
そんなスレイマンは今のこの状況に何とも言えない気持ちを抱いていた。
(思えば滑稽な話だ)
攻勢か撤退か。
昔はそんなことを議論するようなことは一切なかった。
敵を目前に後退するなど、古来よりの《魔族》の矜持に反するのだ。
嵐が来ても、吹雪の中でも、敵に向かって本能のまま行動する。
それがかねてからの魔族であったはずだ。
それが、今では環境を選んで戦法を変えたり、時には大局の勝利のために眼前の勝利を見逃したり、まるで人間のようなことをするようになった。
(これも、兄とあの小僧の影響か)
スレイマンの兄、ヴォルザードはどこか普通の魔族ではなかった。
ヴォルザードは幼少期から深い思考と利発さが目立つ、魔族らしからぬ子だったのだ。
周囲から気味の悪い子供と言われても特に気にすることもなく、いつも部屋の隅っこで本を読んでいるような子供だった。
「―――いや、どうやって世界征服をしようかとおもってね」
何を考えているのかと尋ねると真面目な顔でそんなようなことを言った。
発言だけは誰よりも魔族らしいヴォルザードを、大人たちはさらに気味悪がったが、スレイマンは尊敬していた。
だから魔王の跡目もヴォルザードに譲り、自身を四天魔将の座にとどめておいた。
結果から言うと、そんなスレイマンの判断は正しかった。
ヴォルザードは今まで誰も試してこなかったような新しい手法で臣下を増やし、勝利し、そして勝利した。
今ではもともと大半が人間領であった大魔境は完全に魔王領となり、さらには人間領への逆侵攻まで可能となっている。
スレイマンにはできなかったことだろう。
「し、失礼します‼」
そんなことを一瞬懐かしんでいたスレイマンだったが、テントの中に響く甲高い声によって長い沈黙が途切れた。
「なんだ貴様は! まだ会議は終わっとらんぞ‼」
ベルンが低い声をあげながらテントの入口の方へ目線を向ける。
「申し訳ありません‼ ただ――届いた書簡が《紫色》の羊皮紙のものだったので・・・」
「なに!?」
テントに入って来た連絡兵の言葉に、ベルンだけではなく、スレイマンも顔をしかめる。
《紫色》の羊皮紙による伝達―――《紫炎書》は『何事よりも優先させるべき緊急事態』を知らせる時に使う伝達方法だ。
スレイマンの知るかぎり、ヴォルザードの治世になってからは、《勇者王》が確認された時くらいしか使用されていない。
「――魔王城・・・小僧からか」
スレイマンはいぶかしそうな顏をしながら連絡兵からの書簡を受け取り、すぐに手紙を読み始める。
スレイマンの顔色はすぐに変わった。
「―――全軍・・・・後退する」
読み終わると同時にスレイマンは静かにそう言った。
手紙の内容は、《魔王ヴォルザードの死》と、《全魔冥宴》の開催のための召集だった。