第5章 【策謀の夜】①
「ああ、もう少しで貴方を喰らえたのですがね」
恍惚な表情で氷の棺に眠る少女を見つめる長身痩躯の男は、この大魔境を統べる頂点の一角、四天魔将《冷血のゼラ》だ。
ゼラは愛しの自身への《供物》である眠る少女を、前線基地ダリオンからこの魔王城の自室まで運び込んでいた。
移動させる間、誰かに棺を見られる可能性はあったが、そんなもの、自分の手元に彼女を置いておけないという不安感に比べればなんということはない。
自室にはいつものように小さい隠し部屋を作成し、誰にもばれないよう隠ぺいの術式を施して安置した。
ここに運び込むまでの気苦労といったら、かつて勇者と戦った時の緊張感よりもゼラの精神を疲弊させたものだ。
《全魔冥宴》の開催中も彼を心配させたのはひたすらにこの氷の棺の少女のことだ。
(もしも自分のいない間に彼女が消えていたら・・・・)
と、ゼラは思う。
魔王への就任という勝利を目前に、この少女が消えてしまっては、彼のこれまでの努力が無に帰してしまうだろう。
全魔冥宴自体は、予想以上にゼラに都合よく進んだ。
ゼラの長年の工作が実り、《戦神ボレアス》はゼラの支持に回り、そうなった以上ディースもゼラを支持するしかないだろう。
唯一警戒していたスレイマンも、ゼラが説き伏せるまでもなく自ら舞台を降りた。
(しかし少々面倒ですね)
ひんやりとした氷の棺に顔を埋めながら、ゼラは思案する。
あたかも自身の勝利が確定しようとしたとき発見された魔王ヴォルザードの遺書。
『娘のティアに魔王を相続させる』というその遺書のせいで、今日の全魔冥宴はお開きになってしまった。
(たかが遺書、されど遺書・・・・ですか)
今回のような場合、遺書の効力というのは論ずるまでもない。
誰の遺書で、いくら正当性のあるものだろうと、実際にそれを実行できない以上、効果を発生させることはできないのだ。
例え遺書の通りにティアを女王として魔王に即位させたとしても、魔王として魔王軍やこの大魔境を統治することはできまい。
というのも、元来魔族というのは《力》を重要視する種族だ。
そして魔王というのはその《力》の象徴でなければならない。
ティア王女はたしかに才女と言われてはいるが、当人の戦闘能力は皆無に等しい。
そんな状態で、今まで付き従ってきた上級貴族や、配下の軍人たちがおとなしくしているはずがない。
そのことを今日の全魔冥宴で瞬時に指摘できなかったのはゼラのミスだろう。
流石の彼も、勝利を目前とした高揚感と、遺書への驚きで意見を出すことができなかったのだ。
遺書の発生により考えられる面倒なことは、ティアが《後見人》をつけ、魔王としての統治能力を備えた場合だ。
その場合はヴォルザードの遺書は有効とみなされ、ティアは魔王相続の大義名分を得ることになる。
全魔冥宴が明日に引き延ばされたことで、ゼラはティアにその《後見人》探しの時間を与える形になってしまったのだ。
もっとも―――ゼラは、それでも自身の勝利は揺るがないと考えていた。
「・・・・ゼラ、いるか?」
不意に声が聞こえ、ゼラは思案を一旦打ち切る。
予想はしていたが、思っていたよりも早く来客があったようだ。
ゼラはそそくさと秘密の小部屋を後にし、厳重に隠蔽の魔法をかけた。
「―――いや、すみませんね、少し散らかってまして・・・どうぞ」
「構わない。失礼させてもらうよ」
扉を開けた先に立っていたのは、褐色の肌をした絶世の美女―――四天魔将ディースだった。
「それで、今晩はどの様な用件で?」
もちろんゼラにはディースが訪ねてくることなどわかりきっていた。
なにせ、ディースは全魔冥宴にて明確にゼラを支持する立場を表明してしまったのだ。
そのゼラが《遺書》の登場によってどのような動きを見せるのか、彼女としては内心不安で仕方がないだろう。
「ふん、わかっているだろう。今後どうするのか、だ」
不服そうな面持ちでディースが言う。
「陛下の遺書が出てきた以上、貴様が魔王に就任できる見積もりが低くなったのではないのか?」
「あんな遺書に効力はありません。ティア王女が魔王となることはないでしょう」
ディースの質問にゼラは即答した。
「いくら魔王の遺書とはいえ、現実に不可能なものは実行できません。たかが小娘一人に、この魔王軍の統治が可能だとでも思いますか?」
「しかし、後見人を立てたらどうなる? スレイマンあたりが後見人となったら遺書の効力も現実化し、王女が大義名分を得るのではないのか?」
「―――確かにその可能性はありますが」
ゼラは、ディースが予想以上に今後の展望を考察していることに驚きつつも、確信をもって言った。
「もしそうなっても問題はないでしょう」
「どういうことだ?」
困惑するディースを前に、ゼラは説明を開始する。四天魔将最弱とはいえ、彼女の支持を得続けなければ、ゼラの魔王就任の正当性も損なわれるのだ。彼女を無碍に扱うことはできまい。
「そもそも《大義名分》という意味では、全魔冥宴で過半数の支持を獲得している時点で、私も十分に資格を備えています」
全魔冥宴は全魔王軍の最高意思決定機関。そこでの決定は魔王の意思と言っても過言ではあるまい。
「そして、ティア王女も、遺書の効力と後見人の存在でようやく私と同等の土俵に上がってきたにすぎないでしょう」
全魔冥宴の決定と、魔王の遺書。
これらの効力の優劣は甲乙つけがたい。
どちらも魔王命令と同等の位だろう。
「それは・・・十分に問題じゃないのか?」
「まあ面倒ではありますが、問題ではないでしょう」
ゼラはにやりと笑い、言った。
「同等の地位・大義名分を有するなら、その先を決めるのがなにかなど、わかりきっているでしょう」
「―――なるほど」
ディースも得心がいったという表情をする。
ゼラがこの先を言うまでもあるまい。
魔族にとっては常識的なことだ。
魔族というのは《力》に重点を置く種族だ。
つまり最終的にその優劣を決するのは互いの《武力》であろう。
そして、その武力において、ゼラの陣営には今や並ぶもののない強者―――《戦神ボレアス》が存在する。
その強さと恐ろしさは、ディースなど四天魔将など言わずもがな、大魔境に住むものなら誰もが知っているだろう。
彼を味方に引き入れた時点で、ゼラが最終的な勝利を確信するのは当然だった。
●
魔王軍宰相というのは、魔王軍において最も重要な《文官》の地位である。
《力》を重要視する魔族においては、裏で会議や事務処理ばかりする文官は卑下されることが多かった。
魔族というのは根っからの戦闘民族なのだ。
しかし、魔王ヴォルザードの築き上げた魔王軍というのは、ただ単に戦闘だけをする集団ではない。
もちろん、その大半は前線で戦う兵士ではあるが、兵士が前線で戦い続けるためには、それを支える機構が必要であるとされたのだ。
兵糧問題や給金問題、部族間差別問題など、魔王軍が強大になればなるほど、それを支え、解決する地盤はより重要になっていく。
魔王軍における《文官》というのはそれらを運営・拡張していく役を担っている。
そんな文官の頂点に位置するのが、《宰相》という地位だ。
兵糧の分配や、資金の調達、征服した地方の統治に、同盟の締結など、魔王軍の重要な問題が一手に彼に担われている。
武官の頂点が四天魔将であるなら、それと対となすのが宰相という地位だろう。
そんな宰相ではあるが、私室はその地位に見合わないほど質素で簡単な造りになっている。
魔王城の東の塔、宰相府の執務室近くに造られたその部屋は、飾りもなにもされておらず、壁や床の色は城壁の色そのままの薄い赤紫であり、家具も簡素なベッドに、申し訳なさげに小さな机とイスが置かれているのみだ。
そんな地位に似合わぬ小部屋で、一人の青年は一心不乱に剣を振っていた。
「―――ふっ――――ふっ――――」
小さく呼吸しながら、一糸乱れぬ動きで剣を振る青年は、この部屋の持ち主―――宰相ガゼルだ。
浅黒い肌に、薄く汗を滲ませながら、彼はひたすらに剣を振るう。
握られているのは片刃の長剣。
かつて倒した赤龍の牙から打たれた紅色の名剣だ。
上から下へ、右から左へと流れるように振られる剣閃は、とてもではないが、彼が文官であると感じさせないほど精錬なものだ。
それもそのはず、ガゼルはもともと最前線の一兵卒から抜擢された成り上がりである。
一時は軍団を任されるほどの武官でもあるのだ。
日課である剣の鍛錬は、彼が最前線で突撃兵をしていた頃から、魔王ヴォルザードに抜擢されて宰相となった今まで、一日も欠かしたことはない。
ガゼルという男は、他の魔族とは一線を画する知性を持ち合わせている。
これは、本来彼の性格が文官気質であるから生まれたものだが、知性があるが故に、彼は体の鍛錬を怠らない。
いくら文官とはいっても、多くの魔族の上に立つというのに全く腕っぷしがたたないのでは結局話にならないのだ。
それがこの魔王軍という混沌とした場所だ。
ガゼルはそれを知っているがゆえ、文官として頂点に立とうとも、武の鍛錬を怠ったことはない。
実際、戦闘能力について彼に物申すことができる者は、大魔境広しといえども数える程度の数しかいないだろう。
赤龍を倒すことのできるものなど、武官にもそうはいないのだ。
―――それにしても、また面倒なことになった。
剣を振りながら、ガゼルは思案する。
ガゼルからすれば、もうこの魔王軍に用はなかった。
あの戦神ボレアスがゼラを支持したことには流石に驚いたが、大方ゼラが何らかの手回しをしたのだろう。昔からあの吸血鬼は頭が回る男だ。
別にガゼルは魔王に誰がなろうが興味はない。
彼の目的は権力ではなく、自身の妹の行方だ。
できればさっさと魔王軍など退役して妹を探しに行きたかった。
そんな心境で臨んだ全魔冥宴だったが、《遺書》の出現で思いのほか話が長引いてしまいそうなのだ。
「あの子も不憫なものだ」
ガゼルとは少し縁がある魔王の娘、ティアのことを思うと流石のガゼルも気持ちが沈む。
王女ティアは、ヴォルザードが残した遺書のせいで、魔将たちの権力争いに巻き込まれることになってしまったのだ。
「―――ガゼル様、いらっしゃいますか?」
不意に自室の扉を叩くと共に、扉の外から小さい声が響いた。
「ああ、どうぞ」
ガゼルは思考を中断し、持っていた赤龍剣を鞘に納めながら返事をする。
彼からするとこんな時間に訪ねてくるのは、副官のミサか、お付の女官の誰かだ。
もしかしたら四天魔将の誰かしらが訪ねてくるとも思ったが、奴らならばその膨大な魔力と闘気でもっと早く気付くだろう。
「では、失礼します」
しかし、そんな声と共に部屋に入ってきた少女は、ガゼルの予想からは少し外れていた。
「――――ティアか?」
静かに扉を閉めるその少女は、よく彼女を見知った者でなければ、一見してそれがティア王女とは気づかないだろう。
普段は、純白の絢爛なドレスに身を包む彼女は、今日に限って使用人の着る地味なメイド服に包まれ、いつもは三つ編みにされている黄金の髪も、今日はそのまま流されている。
ガゼルも思わず確認せずにはいられないほど、この夜のティアはメイドだった。
「ふふ、驚いた? ミサに貸してもらたのよ。いつもの服じゃ目立っちゃうものね」
得意げにメイド服を見せびらかすティアは、とてもではないが先日父を亡くした年頃の少女には見えない。
わざと気丈にふるまっているのか、それとも父の死に何も感じていないのか。
―――いやそんなわけはあるまい。
ガゼルは頭をよぎる考えを振り払う。
ティアはヴォルザードを父以前に魔王として尊敬していたはずだ。
二日三日で立ち直るほどの感情ではないだろう。
きっとこの振る舞いは彼女の精神力の強さの表れなのだ。
「なーに? 折角頑張って来たのに立ちすくんで。ミサのほうがよかったかしら?」
何と言おうか反応に困るガゼルに対して、ティアは頬を膨らませながら詰め寄る。
「いや、そんなことないさ。ティアはメイド服もよく似合ってるからね。思わず見惚れちゃったのさ」
「・・・本当にお世辞がお上手ね。それで一体何人の女性を口説いてきたのかしら」
とっさに後ずさりして取り繕うガゼルに、ティアはガゼルに詰め寄っていく。
「勘弁してくれ・・・・。何か用があったんじゃないのか?」
いつも通りのティアのテンションに安心しつつも、ガゼルは半ば呆れながら対応する。
「そうそう! 今日はガゼルに頼みたいことがあってきたのよ」
ティアは忘れていたとばかりにガゼルに向き直り、近くの小さい椅子に腰を掛ける。
「頼み事か」
わざわざティア本人が変装までして直接ガゼルの私室にくるとは、完全に彼の予想外であった。
東の塔は、ティアの私室のある西の塔と違ってあまり整備されてないうえに、強力な魔人が集まり、殺伐としている。
戦闘能力の低いティア王女がお供も連れずにぶらぶらするのは物騒だろう。
そんなリスクを冒してまでガゼルに直接頼みたいこととは何なのか。
―――《遺書》関連であることは間違いないだろうが・・・・。
「俺にできることならなんでもさせてもらうよ」
無難に今回の遺産相続騒動を乗り切り、さっさと退役したいガゼルにとっては、あまり面倒なことは引き受けたくはない。
しかしこのティアという少女とは知らぬ仲ではない。
魔王継承問題に巻き込まれた被害者として彼女が危険な目に遭うのを見たくはないという気持ちもあった。
「あなたならそういってくれると思っていたわ」
ガゼルの言葉に、笑顔を作るティア。
いつもの小悪魔的な微笑みに見えなくもない。
「そんな難しいことじゃないのよ? ただちょっとあなた以外には頼めないことなの」
「それはよかった。いったいどんな内容なんだい?」
ティアの下手な前置きに嫌な予感を感じつつも、ガゼルはティアに言葉を促す。
「簡単な話よ」
小さな椅子にちょこんと座る金髪の美少女は、一呼吸ついて妙にはっきりとした口調で言い放った。
「結婚しましょう」
―――この一言が、今後の魔王継承問題を、大きく変えることになる。




