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 食堂を出てから自分の部屋に戻った耕治は、しばらくして千尋の部屋に入って行った。

 その手には分厚いプリントがある。

「千尋さん、ちょっといい?」

「ええ。もう、仕事も終わったしね」

「本当は綾に最初に見せようと思ったんだけど、今、琴美のところにカウンセリングに行ってるから、終わったら来るようにも言ったけど、先に読んでくれないか?」

「いいわよ」

 そう言って、千尋はプリントを預かる。

 すぐにプリントを真剣に読む千尋の横で、耕治はコーヒーを煎れ始めた。

 数分してその分厚いプリントを読み終えた千尋は、信じられないという表情で、耕治を見た。

 彼は、全て本当のことさ、と目で訴えながらコーヒーを千尋の前に置いて、自分は近くにあったソファに腰を掛け、溜息を吐いた。

「私たちは、望くんに早く記憶を取り戻して欲しくて、研究を重ねてきたは……でも、これって……」

「千尋さんもそう思う? 俺も、望には早く楽になってもらいたいって、できるだけ多くの情報を集めた。けど、結果、こういう形になって出てきてしまったんだ」

「記憶を取り戻すってことは、今まで関わってきた全ての人のことを思い出すってことよね……」

 千尋は頭を抱えて、もう一度プリントに目を通した。

「でも、これを望くんが知ったら……」

「だから、千尋さんと綾に相談しようと思ったんだ」

 耕治のコーヒーを持つ手に力が入った。


     *****


 望は、学校から家の岐路へと着こうとしていた所だった。

 授業が終わってすぐ、急遽部活のミーティングをやると、サッカー部の先輩から連絡があり、それを知らない両親にも連絡をいれることができなくて、帰る時間が三十分も遅くなってしまった。

 夏の夕方は少し日が出ていても、時間はもう夕食の時間である。望の帰りを待っている両親は、きっと心配しているに違いないと、彼は家まで走っていた。

 家が見え始めた所で、前から同じ歳くらいの黒づくめの男が二人で歩いてくるのが見えた。この暑い時期に黒い服を来ているなど、信じられない。望は走って汗を掻いた分と、目の前の男たちをみて暑さを感じた汗をぐいっと腕で拭った。

 顔は良く見えなかったが、望と擦れ違ってもこちらを気にした様子がないことから、彼は自分の客ではなく、両親の客だと思い、そのまま気にとめることなく家へと走り続けた。

「父さん、母さん、ごめん。今日、急に部活があって……」

 ドアを勢いよく開け、居間に入って肩で息しながらはき出すように言ったところで、彼の動きは止まった。

 目の前の光景を見て、望は息ができなくなった。

 長方形のテーブルには今日の夕食が用意されていて、望の帰りを待っていたのか、その夕食は食べた様子はなく、その前のテレビが付いていた。

 望の父は、夕食の前までテレビは見るが、夕食中は見ない。

 本当に望の帰りを待っていた様だ。

 だが、彼が帰ってきても返事がなかった。待っていたのであれば、返事くらいはするはずだ。しかし、それがない。

 そして、彼の目は、テーブルから少し離れたソファを映した。

 水色のカバーが掛かっていたソファは、何故が赤く染まっていて、その床にはぐったりと横たわった父が、母を下にして動かなくなっていた。

 望は何が何だか分からない状況の中、信じられない光景を見て重くなった体を一歩一歩動かして両親に近づいた。

「父さん、母さん? なんで、こんな所で……」

 言葉が上手く出てこない。

「……何が……何があって……」

 身体が震える。父の背中に触れようとした手の指先までが、震えていた。

「……の……ぞむ……」

 父の下にいた母が、血を吐きながらかすかにそう呟いた。

「母さんっ!」

「ごめんな……さっ……」

「母さんっ!」

 もう、何を口にだしたらいいのか、望は分からなかった。ただ、必死に母を呼ばないと、もう一生、慣れ親しんだその声が聞けなくなる気がして必死に叫んだ。

「……私たち……が……いなくて……も……しっ……り……生きて……」

「……さん……母さん……母さんっ……母さんっ!」

 望の目から涙が溢れ出した。

「母さんこそ、しっかりしてよ!」

「のぞむ……愛し……」

 母の言葉はそれ以上続かなかった。


     *****


「母さん……しっかり……っ!」

 頬に冷たい感触を感じて、望はゆっくりと目を覚ました。

「涙……」

 頬に触れ、それが何か分かると、今見ていた夢が自然に頭に浮かんできた。

「母さんって……俺の……」

 望には、夢に出てきた女性の顔に覚えはなかった。しかし、夢では母だと言っている。夢なのだから不思議なことが起きてもおかしくはないと思ったが、自分の記憶と何かが関係しているのではないかと思い始めた。

 誰に相談しようか考えた。

 夜遅い時間で、急に部屋を尋ねたらきっと迷惑だ。だが、この不気味な怖い感覚に一人で絶えられるほど、望は強くなかった。

 飲み物を飲んで落ち着こうと、望は部屋を出た。



 あれから、どのくらいの時間が経ったのだろう。千尋の静寂の部屋には、小さな掛け時計の針の音が響いている。はりの音が聞こえるほど、二人ははお互いに黙っていた。

 もうすっかりコーヒーも飲み終え、カップには何も残ってはいない。

 千尋は頭を抱えて、何度も耕治の持ってきたプリントを読み返していた。しかし、それについてのコメントはない。

 彼の方から話しかけるのでもなく、ただ、二人の会話は止まってしまった。

「ふぅ……」

 静寂を破ったのは千尋の方だった。

「これを、望くんに話してみる?」

 その第一声は、耕治にとってとんでもないことだった。

「それはっ……」

「分かってる、分かってるけど……。もし、これが原因で記憶が戻るかもしれないじゃない? 望くんには過酷過ぎると思うけど……」

「けれど、もし望が受け入れなかったら……そしたらあいつはどうなる!?」

「それは……」

 千尋は口を閉じた。

 後に繋げる言葉がない。

「相談しにきて俺が言うのもなんだけど、俺はまだ言わない方がいいと思う。今のあいつは絶対に信じない。いや、信じることができないんじゃないか? せめて、もう少し記憶が戻ってからでも遅くはないと思うが……」

 千尋は自分の考えにも、耕治の考えにも納得していた。しかし、実際に行動をするとなると、どちらにしていいのか、わからなくなる。

「お姉様? 耕治? いる?」

 二度目の静寂が訪れたその時、綾音が千尋の部屋へと入ってきた。

 二人の真剣な表情とその場の空気を読み、綾音も真剣な顔をする。入ってきてすぐに、千尋からプリントを渡されると、彼女は早速読み始めていた。

 その後も二人が喋ることもなく、ただ、綾音が読み終わるのを待っていた。

「その顔は、一通り読み終わった顔ね」

 千尋は、コーヒーをソファに座ってプリントを睨み付けている綾音に手渡した。

 すると綾音は眉間に皺を寄せた顔を今度は千尋へと向ける。

「千尋はどう考えてるの?」

「あら、いつもと違って真面目じゃない。いいわ、かわいい妹に特別に教えてあげるわ。本当は全てあなたの判断なんだからね」

「分かってるよ!」

「医者としてなら、すぐにでも教えてあげたいわね。それであの子が記憶を取り戻してくれるきっかけになるかも知れないからね。それで、あなたの意見は?」

 千尋は自分の椅子に腰を下ろして、足を組み意見を述べた。

「あたしは、もう少し待つべきだと思う。色々な人の色々な相談を受けてきたからわかるけど、あたしは、患者さんが楽な方法で進めていきたい。人によってすぐに言ってもいい人と、悪い人がいるはずだから……」

「望くんは、悪い方なの?」

 千尋の問いかけに、綾音はすぐに答えることができなかった。

「……友達って、やっぱり大切だと思うから。全てを知ってしまったら、取り返し返しのつかないことになるかもしれない……」

「だったら、あなたの思うようにやりなさい。私はあくまで医者なんだから、私が診るべきところは身体よ。そして、あなたの診るべきところは、ここ」

 そう言って、千尋は綾音の胸に軽く手を当てた。

 その手がとても温かく、力を与えられているように感じた。

「悩むのは、お前らしくないだろう。いつもの明るさはどこへいったんだ?」

「分かった、分かった。もう悩まない。あたしのやりたいようにやりますぅ!」

「ようやく綾音らしくなったじゃない。頑張れ!」

「二人のお陰。ありがと……」

 綾音は立ち上がり、小さくガッツポーズをする。

「でも、秋元洋って奴ぅ? 親友の両親を殺して、それで、望くんも殺そうとしたのよねぇ……最低……幼い頃から一緒にいた、望くんを裏切るなんて……」

「綾音……」

 耕治が綾音の肩をポンと叩く。

 ゴンっ

 瞬間、俯いていた綾音も、ドアの方を見た。

 すぐに耕治が部屋を開けると、そこには誰もいなかった。しかし、床にはまだ口の開いてない缶ジュースが落ちていた。

「水滴がついてるってことは、さっき買ったばかりだな」

「どうしたの?」

 綾音が、ドアの前に立ったまま戻ってこない耕治の方を向く。

「誰かいたの?」

 千尋も不思議そうに視線を向ける。

「ああ、望が走っていくのが見えた」

「それって、もしかしてさっきのあたしの言葉、聞いちゃったとか……」

「多分な。ドアの前にいれば、それほど小さくなかった声だ。聞こえていてもおかしくはないだろうな」

 缶ジュースを持って部屋に戻ってきた耕治は、ソファの前のテーブルにそれを置いた。

「さて……」

「急いで望くんの部屋に行きましょう」

 耕治の考えていることが分かったのか、千尋がそう言って立ち上がった。


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